ひろゆき「実数は実在するが虚数は実在しない。わからない人はバカ」
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https://youtu.be/●?t=1m53s ●=BPTwVYRiKug
1:53〜
ひろゆき「虚数の説明も前にしたと思うんすけど、基本的には掛け算をすると必ずプラスになっちゃうんですけど、掛け算をした結果マイナスになるっていう謎の数字っていう虚数っていうのを作りますと、
それを使った方が計算がしやすい場面っていうのが、実は存在しますよっていうのがあるので、現実には虚数は存在しないんですけど、ただ虚数っていうのを利用した方が計算しやすいっていうのがあるので、虚数を使いますよって話なんすよ。
虚数をつかうは正解なんすよ。要は虚数は現実には存在しないんですけど、計算上虚数って概念を使った方が計算しやすいので虚数を使いますよって話なんすよ。
「幻の数 虚数」って書くんですけど、なので、実数って例えば指が1本2本3本4本5本って説明できるじゃないすか。
なので実際に現実に存在するんですけど、虚数自体は現実に存在しないんですけど、計算上は虚数を使った方が計算しやすいって話なんすよ。
なので虚数は存在しないって言ってるんですけど、これも理解できない人は…」
コメント「虚数は幻じゃねぇよ」
ひろゆき「だから虚数は実在しないでしょ?wって話なの(笑) 要は実在はしないけど虚数を利用して計算した方が計算しやすい場合があるので、概念上の虚数というものをつかって計算してますよって話なんですよ。これそんなに難しい話?(笑)」
コメント「それを言うと実数も存在しない」
ひろゆき「この人達はバカなのかな?wwwww
(コップを指差し)例えばこれが1っていうのは、存在してるじゃないすかw
なので、実数というのは存在するんですけど、虚数というのは存在しないけど計算上使ったほうが楽だよねって話なんですけどーw
これそんなに難しい話なの?(笑)」 >>452-454
見えるんだな?よしじゃあ買って見せて来い フランスに住みながら数学と科学の否定とかどんだけ逆張りしてんだよこの馬鹿
フランスの歴史を知ってたら絶対できない愚行 >>458
エジプト遠征の時に発掘されたファラオがきっと呪ってるんだろ ガチ理系にとっちゃ「実数は存在して虚数は存在しない」ってのは大きな間違いだが、数学弱者に虚数という概念を教えるならこれくらいでいいっしょ
複素数の回転の話が出てくるのは数IIIから
文系がやる数IIまでだと、「(数直線上には)存在しないけど、二次方程式の解なしを上手く回避できる便利な数」くらいの説明しかされないし… コップで例えるなら負の数は存在しないと言われたらどうするのかな 反物質製コップ怖いよー、ストレンジレットと同じくらい怖いよー だって座標原点存在しないし
0次元は存在しないし
数で理解するが数は存在しないってことかと
静止は存在しないが静止で運動理解する >>467
お前もう考えるな
思考ツールでしかないと教えて貰って
『杞憂』
な事を考え続けたいなら、暫く学問理系板に来ないで哲学板に行け
思考ツールの存在非存在を問う事自体が『杞憂』である事が
“既に”“公知”かつ“自明”
にも関わらず、まだ悩むなら、もうそれは、理学的な問いではなく
哲学の形而上学的な問いだ。 オブジェクト指向の用語で言えば
数学はクラスの一般論そのものであって
当然インスタンスではない 認識器官という物理状態、物理条件に自然は現象する
対象である自然は同一だが認識器官の有りようで生成される自然像には差異が生じる
静止は運動の一形態だという理解は地動説が端緒で光速度一定の原理が静止の存在を否定する
つまり自然の存在形態は運動
運動を前提にしたら量子力学の自然は運動するエネルギーの濃淡という理解が正当であることになる
座標原点を媒介に運動は規定される
〈ここ〉からは存在しないが〈ここ〉からで規定する
規定は否定
物理状態は差異だが否定で規定する
生物非生物も差異だが否定で規定する
だからウイルスみたいな分類困難な対象が出てくる
これは対象の問題ではなく規定するから
数で規定するが数は否定で存在しない
有を無で、運動を静止で規定する
0に限りなく近いが0ではない、不確定性原理とかは否定で規定するから
自然は〈一〉で次元は認識に現象する物理の抽象で次元は存在しない
それは〈ここ〉からが存在しないことでも裏付けられる
〈ここ〉までも存在しない
数で規定するが数一般は存在しない わたしという物理存在は他に対して同一を非同一で規定する
植物、金属は物理の一形態でわたしも同様
自己に対しては非同一を同一で規定する
わたしという物理状態は同一であることは無いが同一で規定する
宇宙は非同一だが宇宙という同一で規定する
対象をその否定で規定するから決定不能になる
対象は無矛盾だが規定は否定
自然は無矛盾、〈一〉だが規定は〈多〉
対象ーその否定
運動ー静止
有ー無
カントの二律背反、ヘーゲルの運動規定はそういうこと
観測問題、不確定性原理も対象と認識の在り方の関係
認識の在り方が様々な問題を出来させるだけ
なんら対象の問題ではなく規定するから
極めて単純な けっきょく科学というか学問は自己言及でしょう。
人間は自然の一部です
自然科学は基本として自己言及です
言語も〈わたし〉という表現は自己言及です
対象ー認識ー表現が言語表現の構造です
この場合対象と認識主体が同一です
街の地図を描く場合に観念的に空の視点で描きます
三浦つとむという言語学者はこのことを観念的な自己分裂と名付けました
この能力で地球や銀河系などが描けます
また古今東西にも頭の中で行き来可能ですし、小説やドラマの主人公に成れます
子供がヒーローに成ったつもりで遊ぶこともできます
〈わたし〉という表現は現実の自己を観念としての自己が他者として認識します
そして〈わたし〉と表現します わたしは唯物論者ですが共産主義は支持しません
三浦つとむさんは社会科学の方面も展開しましたがその結果
共産主義は成立しないという結果を導く論文をものし弟子筋の
滝村隆一氏はそれを受けて半世紀前の本の末尾に共産主義は実現し難いと記しました。
八十年代末に本格的に論じましたが、ソ連崩壊は予想はその前だったような記憶があります
学問は面白いというか残酷というか
新約聖書学の結論は信者でないわたしも読んだ時の衝撃はまだ覚えています
共産主義は成立しないという結論はマルクスの学的方法が導いたということです
数学もヒルベルトが愕然とする結論でした
十年以上前にある物理学者が人間がどこから来てどこに行くのかを知りたいと語りました
それを見ていて、たぶん絶望する結論になりそうだと予想しました
学問は人間とは何か、それを理解するために自然とは何か、論理とは何かを前提に納得したかった
その中で数学の性格を知りたいということです 数とは何かはピタゴラス学派とパルメニデスとその弟子ゼノンが論争しました
その結果がゼノン4つの逆説で、山川偉也さんが「ゼノン4つの逆理」で解説しています
わたしは光速度一定の原理はパルメニデスの自然観、つまり〈一〉ということを支持していると理解します。
パルメニデスは自然は一であるが、それを規定するのが多、つまり数であることは否定しません
静止は運動の一形態であることを科学は示しました
わたしは真空もディラックの海がありますし、エネルギーの一形態と理解します
つまり無は有の一形態です
座標原点、〈ここ〉からは存在しないのですが〈ここ〉からで自然を規定します
〈ここ〉からは〈ここ〉までです
数には大きさが無いという規定は光速度一定の原理が裏付けます
数は認識に必要ですが自然には存在しません 光速度一定の原理は座標原点が存在しないことにより自然が無矛盾であることを示したと考えます
つまり規定すること、理解することの自然存在を否定して無矛盾という理解が得られるのだということです
この原理は科学、認識の在り方の自己言及であり、また自然の自己言及だということです
規定すること、理解すること、このことを理解することが要なのではないかということです
そして理解すること自身が様々な問題を出来するということです
ウイルス、観測問題、不確定性原理
カント、ヘーゲル、スピノザ
ゼノン、ヘラクレイトスなどなど
これらを理解可能な視点を光速度一定の原理は指し示しているということです
自然は運動するエネルギーの濃淡で親和反発して様々な物理状態を生成する過程として在るという理解です
進化論を裏付けますし、万物は流転するという理解も導くことが可能です
光速度一定の原理は自然理解とその規定、論理の性格理解の基本を導くことが可能だということです
繰り返しますが数一般は自然に存在するという理解はわたしには受け入れられません
それはあくまでも規定の一つです 認識器官の在り方に自然は現象しますから諸生物の認識器官の態様により自然像は差異があります
対象である自然は同一ですがそれを認識する認識器官という物理状態、物理条件がもたらすわけです
つまり認識そのものも認識しなければならないということです
地動説はその端緒です
静止として認識に現象しますがそれは運動の一形態です
わたしたちの前に否定関係として現象する対象は実は差異であり自然は〈一〉であり無矛盾です
てことをわたしは主張します 去年今年貫く棒の如きもの
虚子だったんですね
自然は運動、規定は否定
これが棒の如きもの、普遍かと考えています
〈一〉が〈多〉となり、〈多〉が〈一〉となり ということです 睫毛はあまりにも近くて認識困難です
認識困難性は認識自身にあるのではないかと
今のところは言いたいことはこれだけです
人は現在を固定して捉えがちだと大哲学者は語ります
自然は過程です
学問もまた過程が普遍、変わることが変わらない、変わらないことが変わるということかと
変われば変わるほど変わらない
変わらなければ変わらないほどますます変わる
ーミス・マープル
学問もまた 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
栗木京子
あの夏のかぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
小野茂樹
虹自身時間はありと思いけり
阿部青鞋
詩人永瀬清子 「短章集」
知っていて好みはこのくらいかな 数には大きさが無い
0に限りなく近いが0ではない・・・
わたしはあなたではない
だが人間としては同じ
植物でも金属でも無いが物理として同じ
同じではないが同じ
静御前は死んだら何処に行くのかなんてことも考えました
ゼノン、パルメニデス、カント、ヘーゲル、観測問題、不確定性原理
知れば知るほど判らないことばかりになりました
わたしは光速度一定の原理に自然と規定を理解する鍵があると考えます 認識は天動説です
それは相対化しなければならない
地球を静止していると<仮定>して観測する
光速度一定の原理はそういうことです
全ての個別科学理論の性格です 科学は否定関係で理解する対象が差異の一形態として理解する
地球 諸天体
人間 諸生物
静止 運動
無 有
多 一
粒子 波
自然は無矛盾 1000億本の指は存在しないので1000億という自然数は存在しない? 実数は存在すると簡単に言ってるけどどうやって存在を認識したのかね
√2が存在することを認識するのも簡単ではないだろうに >>67
お前に見えてるものはお前の脳の中で再現されたものでしかないから
共有ですらないんじゃないの
色とか歪みも見え方に個人差あるだろうし 生物により認識器官は違いそれぞれの態様に従い自然像は生成される
見たものそのままが自然では無いこと示す端緒が地動説
光だけ認識する、可視範囲、可聴範囲が広い生物と多様
ある意味小麦粉という物理状態は調理法、つまり物理条件で様々な料理となるのと変わらない
どれが正しいとかは無い
認識器官の違いによるだけ
静止は存在しないが静止で規定することを示したのが光速度一定の原理
座標原点は存在しない
運動Aを静止非Aで規定する
静止は運動の一形態なんだけど否定関係とする
規定は否定とスピノザは語る
わたし、植物、金属は物理状態の差異で否定関係では無い
それを否定で
物理としてのわたしは運動変化が常態で同一であることは無い
それを同一のわたしと規定する
運動という有は静止という無で規定する
0に限りなく近いが0ではないというのはこういうことかと
不確定性原理は=ではなく近似値が必至ということ 座標原点、つまり運動の否定である静止の存在は否定されている
運動は自然の存在形態
ならば自然は運動するエネルギーの濃淡
つまり〈一〉
認識器官はそのまま自然を捉えられない
真空はディラックの海を考えるとエネルギーの基底状態
つまり真空、無は有の一形態
静止が運動の一形態だが認識器官には否定として現れるように
認識器官には自然は〈多〉として像を結ぶ
次元はその認識器官の在り方の抽象
0次元は存在しないし1次元2次元3次元も存在しない
4次元が存在するなら運動しない3次元が無限に存在することとなる
自然に数は存在しない
静止が認識器官に在るだけと同じこと 全ては幻であるなら、この認識自体も幻でなければならない >>495
>次元はその認識器官の在り方の抽象
訂正
次元は自然の濃淡が認識器官の在り方に結んだ像の抽象 ゼノンの逆説は自然が多ならばこういうことになりますとパルメニデスの自然は〈一〉であるという理解を擁護したもの
山川偉也氏「ゼノン4つの逆理」参照
自然は一であり、その否定の多で理解するということ
規定は否定
光速度一定の原理はこのことを裏付けるとわたしは理解する >>492
脳自体も幻、認識自体も幻ってことかと
自己言及してみりゃ幻想説は否定されるのでは? ひろゆきは見たものがそのままの自然という天動説論者 規定は否定
対象をその否定で規定する
一を多で、運動を静止で、同一を非同一で、非同一を同一で
有を無で
数は存在しない
数は規定 つまり
お前の存在意義も否定
お前の意識も無意識
お前に規定された人権も否定 >>503
うん、物理しては無いよ、そんなのは w 実在するだのしないだの言ってる人ってそもそも数学を自然科学かなんかと勘違いしてるのがほとんどだよね
形式科学であって現実とはなんの関係もないのに、数学が現実世界を記述してると思ってるのかもって感じる 関係なくはない
静止は存在しないが静止は認識器官には存在する
見たものが自然そのままではないとは地動説が示す
静止は認識器官に生成される運動の在り方
静止は認識器官に生成される運動の一形態
0次元1次元2次元3次元は物理存在の抽象で独自には存在しない
四次元が存在したら静止である三次元が無限に存在しなければならない
次元は対象である自然の抽象で独自に存在しない
一つ誤魔化しているが面倒なんで略 w 実数も虚数も実在しないと思います。
それらは純粋に人間の脳の系にかかわる認知的構築物であって
知覚できる実在世界とモデルとの単なるマッピングにすぎないんじゃないかと。 実物としての『木』は存在するが、
言語としての『木』は存在しない的なことがいいたいのかな? もう実数も虚数も複素数も行列も概念的な物差し、つまり指標でしか無いって皆もう分かってるんだろ?
>>502以外は だから数は理解の媒介
ゼノンは数が自然存在ならこうなりますよ、と逆説でその存在を否定する
光速度一定の原理は座標原点、静止が自然に存在しないと示す
つまり自然の存在形態は運動
量子力学の自然は運動するエネルギーの濃淡であり〈一〉
ディラックの海は真空はエネルギーの一形態ということを示す
生物学は諸生物の諸認識器官に生成される像は物理条件である認識器官のそれぞれの在り方に左右される
小麦粉が様々な料理法、つまり物理条件に対応し違う物理状態になるのと同じ
どの生物の諸認識器官に生成された自然の像が正しいわけではない
地動説は認識に存在する静止は存在しないが、静止で理解するということを示すきっかけになる
規定が否定、つまり静止で運動を理解する
自然は濃淡だが、淡である真空は認識には反映されない
だから〈一〉である自然は認識には〈多〉として像を結ぶ
〈ここ〉から、つまり座標原点は存在しないが認識には存在する
次元は存在しないが次元で規定する
次元は認識に像を結ぶ自然の抽象
0~4というか次元は物理状態の抽象で独自に存在しない
4次元が存在するのならば静止する三次元の無限集合が自然に存在することになる
0に限りなく近いが0では無いという不思議な規定は運動を静止で規定するから
ヘーゲルは今、ここと指示すると飛び去ると語る
それは今、ここという規定が静止だから
今とは物理に伴うし、ここは運動するから
時間は直接運動を捉えられないから量として理解するしかないから
数は自然には存在しないが、規定には必要
言い換えれば、静止、座標原点で規定するがその存在は否定されているということ ウイルスは生物非生物と分類困難
物理として生物非生物は差異であり否定関係では無い
地球も諸天体も差異
人間も諸生物も否定関係では無く差異
真空も生物、金属もエネルギーとしては差異
観測問題は波が渦の状態が認識には粒子として像を結ぶ、つまり否定関係では無い
科学は否定関係が差異であることを示し、無矛盾ということを示す
つまり理解出来るということ
しかし規定は否定だから、決定不能となる
クレタ人の逆説は対象の否定で規定するから決定不能となることを示す
カントの二律背反は終始で規定するが自然に終始は存在しないことを示す
ヘーゲルの運動定義は運動を静止で規定するから 科学はかなり前からその在り方に疑問を呈されている
ハイゼンベルク、武谷三男氏
90年代初頭に科学革命が必要と語る科学者が洋の東西に出現
今世紀に入ってきて量子力学分野で新理論が必要だと喧伝される
時間はもちろん重力の存在を疑う科学者たちが出てくる
つまり学問は学問でさえまだまだということ 正直宇宙論のビッグバン仮説は信じていない
光速度一定の原理は絶対座標否定しているのに始まりを主張しているから
わたしは次元で理解するが次元は存在しないと理解しているから
ちなみに証拠とされるものはすべて異論があったりする 自然は無矛盾であり〈一〉で、それを多、つまり否定で規定する
規定は否定だから、当然対象には存在しない
数は観念の中に存在するだけ >>514
訂正
> つまり学問は学問でさえまだまだということ
→つまり学問は科学でさえまだまだということ
ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が訂正することはよくあることだと記す
ど素人が勝手な放言しほうだいを諫めたかったらとっとと基礎を確立すべきかと 自然は運動するエネルギーの濃淡で反発親和の過程で新たな濃淡を生成していくだけだと理解している
進化論はこれで裏付けられるかと
ビッグバンは宇宙の片隅で起きたことかもとボスロウは記す
粒子も人間も地球というか自然はすべてその生成過程の濃淡だと思っている
けっきょく科学は自然の自己言及
自然は一だから否定の多、数で理解する
数はそのような存在だと理解している わたしという表現は自己言及
地図を描く場合には頭の中、観念で空中から町、地球、銀河系を描くことが出来る
この能力を観念的自己言及と言語学者は名付けた
古今東西に行き来きしたり、ドラマの主人公に観念の中では可能
わたしという表現は現実の自己を観念の中の自己が他者として認識する
自己を他者という否定で規定する
自然認識はその一部である人間の自己言及
自然は無矛盾だが規定は否定、つまり対象には存在しない
静止で運動を規定するからヘーゲルの運動規定、つまり決定不能に
科学も根本として決定不能
一を多、つまり否定、数で規定する
数はそのようなものとして観念の中にある 現在の学問は根本として変革するのではないのかと思っている
科学もかなり前に新たな考え方が必要な段階だと洋の東西を問わずそういう問題意識の科学者は散在する
量子力学は新たな考え方が必要だと言われている 立花隆氏が日本の物理学者がノーベル賞受賞の際にテレビで語っていたのを受けて研究者らしき方が最前線は一条の光も射さないという投稿をしていた
わたしは数は認識の理論だと思っている
静止という自然には存在しないもので運動を規定している
同一を非同一、非同一を同一
生物非生物は物理としては差異であり否定関係では無いのに〇ー非〇と規定する
不完全性定理は対象をその否定で規定するからと理解している
しかしそれは対象が無矛盾だからなのだと
科学は自然には存在しない終始を終始で規定していることを光速度一定の原理が示していることに気が付いていない
数で理解するが数は存在しない
静止、生死は物理として存在しない
生物非生物は理解に必要だが否定関係ではない
分類すること、規定することとはという問題意識が未だに無い
数は認識の論理 ちなみに「進化は万能である」は学問というか人間の認識の変革を要請していて面白い
今までは基本トップダウンだがボトムアップを基本にすることが必要だと説く
文化もまた進化論で解明する試みで刺激的
新たな人間の可能性を切り開く可能性を期待できるかも
根本的な変革かもしれない
タレブもまたそのような認識だが、自然科学認識は西洋の創造神話に囚われているから科学革命は日本にもワンチャンありかもと期待している だからさ、マスコミなどがミステリーサークルと思われる現象、ここでは共産圏の悲惨な実態の映像と証言を出している
科学者であるマルクス君はそれは人為的なものだと証明しなければ共産圏の悲惨な実態の映像と証言は真実だと流布されるだけ
科学者がミステリーサークルが人為的なものだと言うだけでけで証明しなかったらさ
俺たち大衆もきちんとそれがデマだと証明しない限りは共産主義は怖くて支持しない
マルクス君は言うだけなんだよ
共産主義はそうじゃないと言うのなら調べて反論しなきゃさ
誰かが言うように安楽椅子共産主義ってことかと >>1
ひろゆき
「要は虚数は現実には存在しないんですけど、」
「だから虚数は実在しないでしょ?」
「これそんなに難しい話なの?(笑)」
iは90度回転なんですけど
だから実在するじゃん
これそんなに難しい話なの?(笑) 複素数をa+biと書かずに
rs(rは非負の実数、sは絶対値1の複素数)と書くと
自然に感じられる
-1はs^2=1かつs≠1となる数s
これを180度回転と考えるなら、
90度回転はs^2=-1となる2つのsのうちの1つである
で、ここまでくれば絶対値1の他のsは平方根と乗算を使って
いくらでも構成することもできる 無限回操作を認めるなら
1^(1/3)だって、1^(1/4)*1^(1/16)*1^(1/64)*・・・で求められる
(任意の角の三等分は同じ方法で任意の精度で近似できるから
定規とコンパスの有限回使用による正確な作図とかいう問題が
現実的にはハナクソほどの意味を有しないことがわかろう
ただそういうこと数学科卒の人にいうと馬鹿にされるけどw) >>526
で、実は三角関数の加法公式を利用すれば
rs=a+bi(a,bは実数、iはi^2=-1となる数)と表せる
というのが重要 >>523
マルクスの指摘は正しいが、改善のための戦略を誤った
権力を奪取してプロレタリア一党独裁で改善しようとするのが誤り
党が正義だと思い込んだんだろうが、実はこれこそが悪徳
権力による強制こそが悪なのだから、権力をつかったらダメなんだよw 光速度一定の原理はただの双曲的変換である
例えば、正方形の横をa倍、縦を-1/a倍する変換は横軸と縦軸を動かさない
これを45度傾ければいいだけのことw
実は次元を増やしても光円錐を不変とする変換が実現できて
その中身は双曲幾何学の合同変換になる
こんなの全然大した話じゃない 思想的な深みもない
トリックといえばトリック
しかし現実にそうなってるという意味で
そう見せかけるだけの手品のトリックとは異なる 速度の合成も実は掛け算として考えるべきであって、
それを足し算とするには”対数”をとる必要がある
速度0は1であって、それ以外の速度は正の実数aで表す
光の速度は0か∞であって、aの有限回の掛け算では決して到達できない
logをとれば加法的な速度が得られる 「王蟲はこんな眼を14ももってどんなふうに
世界をみているのだろう・・・」
「風の谷のナウシカ」 宮崎駿
座標原点、静止は存在しない
絶対座標、静止は存在せず、自然の存在形態は運動
自然は運動するenergyの濃淡
〈ここ〉からが存在しないなら〈ここ〉までも存在しない
数は存在しない
認識器官に反映した自然はそのままの自然では無い
物理として、静止、生死、無は存在しない
認識器官は淡を無としてしか捉えられない
数で認識するが数は存在しない
自然は有、規定は無
規定は否定 スピノザ
規定の在り方が様々な問題を引き起こすだけ
ウイルス 生物非生物と分類困難だが、物理としては差異で否定関係では無い
粒子は波が渦の状
静止は運動の一形態
生死は物理としては違う状態に遷移していくだけ
数という無で対象を規定する
数一般が存在しない >>532旧コテ「学問」「バカボンパパ」
いつまで、たゆたった思考で居る気だ? 数学の“存在する”とは、適切に考えられること。
その意味では、実数も虚数も数学的には存在する。
通常の“存在する”とは、五感で捉え得る実体がないこと。
その意味では、実数も虚数も存在しない。 その話って突き詰めると、いちご一個とメロン一個が同じなわけがない
から1+1は2と言うのは詐欺と言うのと同じになってしまうんですけどね
虚数より難しいから試しにやってみ、物体の定義に行き着くから
天動説は素直に受けいれられたけど
進化論は怪しいと思ってハマって抜け出せなくなり
量子論で自棄起こしてもう地動説も許してやって良いんじゃない?
となるのが少年が通る道だ
善意で解釈するならひろゆきの言いたいことは
便宜的な対応は大事なことなので、いちごもメロンも同じ一個と
カウントすることが時には重要であると言っている >>146
アホむずいを、クソむずいくらいにしてくれたら時間かければ何とか読んで
理解も出来る、アホむずいは手が出せない 複素数は、所詮実2次元のベクトルの空間の標準基底(1,0)と(0,1)を考えて、
たとえば前者を通常の実数の1、後者を i と書いて、
a,bを実数とするとき、一般の2次元ベクトル(a,b)に対して a + b i と書き、
可算についてはベクトルの可算と同じとしてよいが積については
ベクトル同士の積は自明ではない。
通常の実数の分配法則が拡張できると仮定すると
(a+bi) * (c+di) = (a*c) + (a*di+bi*c) + bi*di
=(ac)(1*1) + ad (1*i)+bc(i*1) + bd(i*i)
交換法則が成り立つと仮定すると
=(ac)(1*1) + (ad+bc)(1*i) + bd (i*i)
通常の実数の積の一般化になっていると仮定すれば、b=d=0のときは積がacだから
(1*1) = 1でなければならない。
また1が乗法の単位元であるとすると、a=1, b=0 とするときは
1 * (c+di) = c + di でなければならないので、
(1*i)=i でなければならない。
すると、(i*i)が残るが、
そこで積 (i*i) が二次元ベクトルの範囲に収まるようにするには
xとyを実数として
( i * i )= x + y i の形になるとしなければならない。
そこで通常の複素数では (i * i) = -1 ととる。
すると (a+bi)*(c+di)=(ac-bd)+(bc+ad)i となる。
たとえばそうすると、0以外の複素数に対しては逆元となる複素数が唯一に
決まることが示せるので、二次元ベクトルの空間にベクトルの可算を和とし、
ベクトル同士の積を上記のように決めて実数の積演算を拡張すると
実数上の二次元ベクトル(複素数)は可換な体になることがわかる。
普通は実ベクトル空間の表現を使わずに、虚数単位iを使って a + bi の
形で表す。どこにも神秘なところは無い。単に実数の体を含む形で体を
拡張する一つのやり方に過ぎない。 いま多項式P(z)が複素数の零点を全く持たないとする。
そのとき f(z) = P(z)/|P(z)| とすると、
各複素数の点zに対して複素単位円周上への点f(z)
が定まり、この写像は連続である。
f(z)は複素球面にまで定義域を拡大でき,無限遠点に
於いても値は確定であり連続である。
すると、2次元球面上に連続な消滅しない方向
ベクトルの場が定義されることになるが、
球面上の連続な方向ベクトルの場は少なくとも
2点において消滅するというトポロジーにおける
つむじの定理に矛盾する。
よって、複素数の範囲に定数では無い多項式が
零点をまったく持たないということはできない。 結局現在の学の水準であれこれ言えると考えることが間違いかも
科学を概観すると半世紀くらい前から大科学者たちが科学の在り方に疑問を呈している
科学革命が必要な段階だと主張する科学者たちが出てきている
時間非在説を主張する科学者たちが居るし、また重力は存在しないのではという科学者さえもいる
量子力学は新しい理論が必要になっていると立花隆氏は語る
研究者らしき方が一条の光も射さないという投稿をしていたりする
最終方程式まであと僅かと語ったホーキング博士は観測問題を考えると抽斗の銃に手が伸びると語る
ライプニッツは重力方程式に敬意を表したが、その概念は魔術的だと拒んだ 数が自然に於いて存在したり存在しなかったりと矛盾するという理解はどうなんだろう
いずれにしても科学でさえその基礎は確立していない現在あれこれ言うのは群盲象を撫でるの典型かも
専門家の過ちを素人が正しい位置に戻すことはよくあることだとファイアアーベントは語ったが
その言葉を引用して「と学会」の現在の学の在り方であれこれ裁断することに科学者たちが疑義を呈している
・・・まあ逆に言えばここは素人の集まりだから意外と可能性があったりして w >>542-543
いい加減に黙れよ元「学問」元「バカボンパパ」の「1は1と定まっていない波を打っている」バカ兼「規定は否定」バカ
いいよ、お前がそういう考えなら同じ様にしてやる
お前の存在の肯定は否定
お前の金はお前の金じゃない
金を全額寄付して路頭に迷いつつ納税を強要されろ >>544
ひゃひゃっ
学問は基礎はまだまだ確定していないんだから
現在の学問の水準に文句を言えよ
あんたのは八つ当たりってだけ
ん?プライベートでなんかあったのかい www てか、理解する気が無いなら無視しておけば?
わたしの理解は自然は無矛盾だが、規定はその否定だから決定不能になるということ
静止というのは存在しないが運動は非存在で規定される
生死は物理としては存在しない
認識には存在しても自然には存在しないということ
光速度一定の原理は静止で運動、つまり規定は否定
そしてその存在を否定することで無矛盾が証明される
つまり認識の在り方を認識する必要があるというのがわたしの〈認識〉 留学経験のある科学者が英国は主流学説が覆るのを何回も目撃しているから、筋が通っていれば異説も否定しないと語っている
日本は主流学説しか認めない傾向が強いとか
「と学会」は現在の科学の在り方を絶対化してこの説は〇、この説は×と裁断しているが、それはおかしいと批判していた
それはともかく、わたしの理解を否定したければ筋が通っていないことをあなたが示せば良いだけです 転載
ゼノンの逆説は自然が多ならばこういうことになます
自然は〈一〉ですという論旨
これは数で規定するが存在しないということ
光速度一定の原理は絶対座標、点、0次元は存在しないことを示す
また静止は存在せず運動が自然の存在形態、つまり無矛盾ということ
運動を前提に否定関係は導けないから、自然は運動するエネルギーの濃淡ということになる
ディラックの海は、真空がエネルギーの基底状態であることを示す
つまり無は文字通り存在しない
自然は〈一〉であり〈多〉ではない
認識器官に静止、生死、無は存在するが自然には存在しない
濃淡の淡を認識器官は像として生成できず自然は多として像を生成する
その抽象が次元
0次元は存在しないし点を無限に集めても、幅が無い1次元を無限に集めても
厚みが無い二次元を無限に集めても・・・
静止している三次元を無限に集めても運動するわけではない
四次元が存在するならば静止している三次元が無限に存在することに成る
否定は規定、有を無で規定するから、直接運動は捉えられず量とし捉えるしかない
時間は規定であり、存在しない
次元は、数は認識の問題であり、自然には存在しない >>544
てかほとんど理解していない
理解する気が無いんじゃないかな 科学は未だ基本が確定していない
だからこそ個々の理解は徹底的には否定できる段階じゃないのかも
いろいろあっても良いのだから、自由にやろうよ
わたしは自然の無矛盾な理解と理解とは何かを追究したい
超ヒモ理論もビッグバン仮説も認識する自然がそのままの自然という天動説の誤謬から逃れていないとわたしは理解している
「ここ」からなど無い
「ここ」までもまた無い
終わりは始まり、始まりは終わり
矛盾は規定するから
光速度一定の原理は自然における絶対座標、つまり始まりを否定している
ならば自然は無限で永遠ということではないだろうか
終始で規定するが終始は存在しないということかと だからさ、数式で観測問題は解決しないよね
重力概念も未だ未解決
いろいろ考えなおした方が良いんじゃないかなと横目で見る立場から思えるんだ
光速度一定の原理が何を示すのかはまったくの放棄状態
基本に還った方が良いんじゃないかなと思うんだ
ファイアアーベントは専門家の過ちを素人が正すことは良くあることと語る
それはともかく納得できる自然観を構築して欲しい
素人には何が何やら 古代ギリシャはいろいろ面白い考え方が花開いたようだ
地動説も進化論もそうだし、フロイト心理学の祖型もあるとか
でコペルニクスとか典型に古代ギリシャに還ったりする
パルメニデス、ピタゴラスとかもあるし
数の定義である大きさが無いというのはパルメニデスの弟子ゼノンが師の自然観擁護で展開したことから
で飛ぶ矢は飛んでいないという逆説が生まれたりする
万物は流転するとか、もういろいろ
ルクレティウスのは古代ギリシャのエピクロスの祖述であり、著作が失われたから重宝されている
快楽主義という批判はキリスト教と対立するから貼られたレッテルとか
個人的にはエピクロスはパルメニデスりが認識の相対化可能にする地点にいるのに比べて本質的ではないように思える
ある地点まではとても有効な視点ではあるが
現代に必要なのはパルメニデスとスピノザだと考えている
クレタ人の逆説が対象と規定の関係の本質を示しているというのがわたしの理解 科学は否定関係と規定していたことが差異であることを証明してきた
人間も金属も真空でさえも否定関係では無く差異
否定関係で規定することは理解に有効です
ただそれは認識する上です
地球は球体と規定するのは認識の在り方に生成した自然の像です
それは自然をそのまま反映しないのだとわたしは理解します
座標原点で規定するが、それは自然存在ではありません
静止、生死、無、終始は認識器官に生成した像であり、対象と認識の関係で生成されたそれです
認識器官には存在しますが自然には存在しません
これが意味することは追究されるべきかと
追究しないから、ビッグバン仮説のように、自然科学の前提を無視する理論が跋扈するわけです
対象は自然、非自然と矛盾して、宇宙は生れるし、光速度一定の原理は無視するこの仮説の非科学性に気が付かない
観測問題も解決しないし重力、次元などがどういうものなのかもわからない 科学、数学という学問が成立する条件が未だに確定していない
枠がきまらないうちの断言はいかがなものかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています