>>230
> ゲーデルが決定不能な命題の存在を証明したのは正しく自然数の体系内でのことだぞ?

ゲーデルの第一不完全性定理は直接的にはペアノの公理系に対するもので、
自然数論で或る命題Gが存在してGもその否定¬Gも、どちれもペアノの公理系からは証明できないというのが第一不完全性定理。

以下、与えられた公理系X(Xは自然数論のペアノの公理系PAを含むもの)に対し上の命題Gに相当する命題(の一つ、Gに相当する命題は無数に存在)を
「公理系Xに対するゲーデル文」と呼びG(X)で表そう。

集合論の公理系ZFCは適切に定数記号や関数記号を定義することで自然数論を展開できるからZFCに対しても不完全性定理は成立するが
公理系ZFCに対するゲーデル文G(ZFC)はペアノの公理系に対するゲーデル文G(PA)とは全く異なる命題だ。

> 大体が、ウソつきのパラドクスや床屋のパラドクスなんかのどこにそんな超越的な要素があるのか?

嘘吐きの逆理に観察される矛盾はタルスキーの定理(真理概念の定義不能性)からの帰結に過ぎず
要するに「この文は偽だ」の類の記述を許す形式的体系は矛盾を含んでいるというだけの話。
床屋の逆理は嘘吐きの逆理の言い替えに過ぎない。「パラドクス(逆理)」という名前に惑わされないように。

> あと可算選択公理だとバナッハ・タルスキーのパラドクスは起こらないってのは証明されたことなのか?

もちろん証明されている。バナッハ・タルスキーの逆理に関する以下の専門書に証明がある。
Grzegorz Tomkowicz & Stan Wagon, "The Banach-Tarski Paradox", Cambridge University Press (2016), 特にそのCollorary 15.3 (p. 299)


>>228
> 証明がなされていない以上、勝手に選択肢を「ありそうに無い」などと言う思惑で否定することこそ敗北主義だ。
> 数学を否定してしまっている。

普通の数学の基盤である公理系ZFCと独立と考えるということは、普通の数学では不可能だと証明への努力を放棄するに等しい。
つまり今まで幾多の数学者が積み上げてきた従来の数学を否定し放棄するということだ。だから敗北主義と呼ぶ。
公理系との独立性を疑うのは最後の最後の手段。リーマン仮説に対する研究は最後の最後の手段を必要とする段階には全く至っていない。