誰かに責任を問うための概念としては、「いじめ」という概念を使うべきではない。責任を
問うために使うものとしては、侮辱、名誉毀損、暴行、強要、恐喝などの概念を使わなけ
ればならない。

だが、多くの人びとは「いじめ」という言葉をつかうことでもって、ものごとを正義の問
題ではなく、教育の問題として扱う「ものの見方」に引きずり込まれてしまう。市民社会
のなかで責任の所在を明らかにするための正義の枠組を破壊し、それを「いじめ」かどう
かという問題にすりかえてしまう。

そして悲しいことに、学校で起きている残酷に立ち向かおうという情熱を持っている人た
ちも、そのトリックにひっかかってしまう。 

認定すべきは、犯罪であり、加害者が触法少年であることであり、学校が犯罪がやり放題
になった無法状態と化していたことだ。そして責任の所在を明らかにすることだ。