渡部陽一のプレゼン
渡部陽一プレゼンツ!私が尊敬する戦場カメラマンが撮ったものスゴい写真
兵士が撃たれた瞬間を激写!世界一有名な戦場写真。撮影したのは、20世紀を代表する戦場カメラマン。
ロバート・キャパ。キャパの撮影スタイルにはあるこだわりがあった。それは『最前線での超至近距離撮影』
そんな彼が撮影した中に戦場写真の歴史を変えたとされる一枚がある。それは、なんと、兵士が撃たれる決定的瞬間を目の前で撮影したもの。
兵士が敵に撃たれ、倒れる、その瞬間を捉えている。兵士との距離はほんの数メートル。一歩間違えば、キャパが撃たれていたかもしれない極限状況だ。
しかしこの写真に、とんでもない噂が囁かれ始める。噂の発端は、キャパの撮影位置。
アングルから推測すると、キャパが立っていた位置は兵士よりも敵に近い場所。しかも、敵に背中を向けていたことになる。そんな危険を犯して、撮影するはずがないと考えられたのだ。
しかしキャパは、この疑惑に明確な否定をしなかった。そのため、噂は大きくなるばかり。
ところがそれから8年後。キャパはそんな世間の噂を一蹴するとんでもない写真を撮影する!その舞台は、ノルマンディー上陸作戦。
ナチス・ドイツが待ち構える海岸に連合軍が上陸。激しい銃撃戦が繰り広げられた戦場。ここで、キャパは信じられない場所での撮影に挑む!
なんと、キャパがカメラを構えたのは連合軍とナチス・ドイツが戦うど真ん中。両軍が向き合う最前線で撮影を行ったのだ!胸まで海に浸かった兵士が上陸する瞬間を、超至近距離から見事に捉えた一枚。
この一枚は最も早く上陸作戦を伝えた報道写真として世界に発表され、キャパへの疑惑はたちまち払拭された。カメラマンは写真で語る!
彼は揺るぎない信念で人々の心を動かしたのだ。

渡部陽一のプレゼン
45年間の封印!正義の狭間でカメラマンが隠し続けた一枚。
1945年8月9日。日本・長崎。この日、投下された一発の原子爆弾によりおよそ7万4千人もの尊い命が失われた。そんな長崎の地に、降り立った一人のカメラマンがいる。ジョー・オダネル。米軍海兵隊の記録係だ。
被災した多くの日本人の姿をカメラに収めたオダネル。だが。彼は、その写真を誰にも見せることができなかった。そこには、アメリカ人であるオダネルが抱えた大きな葛藤があった。
当時、アメリカでは『原爆は、戦争を終わらせ多くの兵士の命を救った正義の兵器。』とたたえられていた。しかし、オダネルが長崎で見たものは被ばくによる苦しみと悲しみに暮れる日本人の姿。
もし、自分が撮影した写真を公開すれば、間違いなくアメリカ中から激しい非難を受ける。
悩み苦しんだ結果、オダネルが出した決断。それは「写真を封印する」こと。オダネルは、自分が見た長崎の光景を生涯忘れようと決めたのだ。
だが、それから45年後。67歳になったオダネルは突然、写真の封印を解いた。その1枚は世界に衝撃を与えた。それは、どんなに忘れようとしてもオダネルの記憶から決して消えなかった光景。
原爆で亡くなった人を弔うため、地面に穴を掘って作られた火葬場。そこにやってきた一人の少年の写真だった。
「焼き場に立つ少年」幼い弟を背負い、亡骸を焼く炎をじっと見つめる一人の少年。誰か家族を弔っているのか。オダネルはそう思っていた。だが、このあと、驚くべき光景を目撃する。
少年は、原爆で亡くなった弟を弔うため、順番を待っていた。
指の先までピンとのばし、まっすぐ気をつけをしたままで炎を見つめる少年。彼は血がにじむほどに唇を噛み締め、過酷な現実に立ち向かっていたのだ。
この写真を公表しなければ。オダネルはそう強く感じたという。
実は、写真を公表した時、彼は病に苦しんでいた。原因は被爆。原爆投下直後の長崎を訪れたことで自らも被ばくしていたのだ。
オダネルは残された時間で激しい非難を受けても真実を伝えることを選んだ。戦場カメラマンとして、そして一人の人間として。