宮沢賢治の「雨にも負けず」のモデルとなった「斎藤宗次郎」は花巻市ではじめてのクリスチャンといわれています。
「デクノボーと呼ばれ」「褒められもせず」「苦にもされず」そして、「そういうものに私はなりたい」と
宮沢賢治が思った人物の生涯は、どのようなものだったでしょうか?

斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1887年に禅宗の寺の三男として生まれました。彼は、小学校の教師になりますが、
内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。
しかし、それからが大きな戦いのはじまりでした。

当時は、キリスト教は、「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていました。彼は洗礼を受けた時から
迫害を受けるようになり、石を投げられ、親にも勘当され、小学校の教師を辞めさせられてしまいました。
それだけではありません。迫害の手は、家族にまで及んできました。
近所で火事が起きたとき、全然、関係がないのに、嫌がらせで、放水され、家を壊されたことがありました。
何度もガラスを割られることもありました。

そして、さらにひどい迫害が起こりました。9歳になる長女の愛子ちゃんが「ヤソの子供」と言われてお腹を蹴られ、
腹膜炎を起こして亡くなってしまったのです。亡くなる時、愛子ちゃんは、
讃美歌を歌って欲しいと言い、讃美歌を歌うと、「神は愛なり」と書いて天に召されたそうです。