自分という存在は、自分以外の人達との関係性の中で、生かされている。

それは親子関係から始まって、いつしか色んな他人と交わる中で、
もちろん大きくは自然環境や社会環境がオーラをかけていたワケで、
自分という存在が様々な分かれ道を好き嫌い出来ずに選ばされた人生を歩んで来た。

自分の生い立ちが、他人の生い立ちに占領されているんだが、それが普通だ。

でも飯山今一郎みたいな生い立ちには占領されたくは無い。
人間の心を失ったケダモノ達とは、一線を画す方向で生きてゆきたい。

イエスだけでは無い、時代時代の稀だが数多い人々の生い立ちと最後を憐れむならば。