だから、キリストカルト教が「右の頬を」を愛のテーマに持って行きたい理由は、
暴君者への服従であって、支配構造の安定化への工作技術な思想概念であって、

イエスが悔しさや憤りを心に抱えて「右の頬を」といった場合の方向は、
そこはルサンチマン側の処世術なんで、下手に権力に刃向かうと殺されかねないから、
暴君者がワーワー言って来た場合、ごめんなさいm(_ _)mすみませんすみません、
私が悪ろーござんしたと、這々の体で逃げ切らないとヤバイよ?と教えてくれているのである。

それは誰もが知ってる処世術。行きてりゃ嫌でも学ばされてしまう現実だ。
イエスも当然それぐらい知ってたし、仲間や家族とも共有していた人間行動学だ。

だがイエスは、そこだけでは、それだけじゃ我慢出来なかった。
いろんな壁にぶち当たりながら、自分を曲げない性格が行くところまで行ったので、
十字架に吊るされたのだ。

権力と戦うという結末は、悲惨さを帯びてしまう。