57.明治天皇・大室寅之祐説

「実は、明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。(略)明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の
御王孫で、毛利家の御先祖、すなわち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が
亡びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於いて、この御王孫を御守護申し上げてきた。
これがすなわち吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤皇の運動である。(略)」

薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々は南朝の御正系をお立てして王政復古
するのだ』ということを打ち明けたときに、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く
感銘して之に賛同し、ついに薩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の
原動力となった。・・」(「二人で一人の明治天皇」松重揚江著〔2007年 たま出版〕p112、114?4〜115?6)

傍証として明治44年(1911年)、小学校の国定教科書の検定を巡って北朝と南朝は並立かどちらが正統で
あるかが帝国議会で紛糾したときに明治天皇の裁断で南朝が正統であるとされたことがあげられます。
本来は、1392年に南北朝並立が解消して北朝の後小松天皇に天皇が一元化したとき以来、北朝の子孫が
天皇を受け継いでいるので、明治天皇は北朝の子孫ということになるはずです。この裁断の根拠は、ご自身が
南朝の出自であることを意識したものとされています。

また、さらに明治天皇の正妻の一条美子(はるこ)の追号を「昭憲皇后」 ではなく、「昭憲皇太后」と大正天皇が
追号してることです。皇太后は皇后の一代前の尊称になります。寅之祐天皇の前の孝明天皇の皇太子であった
睦仁天皇の正妻であったとすればつじつまがあるのではないかということです。