ところが、上院外交委員会の有力者、カール・マント上院議員のチームが1955年に外交記録を調査したところ、
ヤルタ会議中およびそれ以前に、ルーズヴェルト大統領がこの勧告書を呼んだ形跡を見つけることができなかった。
事実、「ヤルタ会議文書」に入っている文書すべてに目を通してみても、国務省の件の勧告書およびその内容に関する
言及は見られない。にもかかわらず、『米国外交文書集』のなかには、この勧告書はヤルタ会議前に行われた会議の
文書の一つとして収められている。
 つまり、この勧告書は、事前ないしはヤルタ会議の場で参照されるべき文書の中に含まれていなかったために、
ルーズヴェルトの目に触れることなく、葬り去られてしまったのだ。
 こうして、米国務省が「北海道の一部である」と結論づけた北方四島は、ソ連に引き渡す範囲に含まれてしまった。
… その後、ヤルタ極東密約は51年に米議会で破棄されソ連の北方領土に対する主張は根拠を失った。
 北方領土は、戦争の結果ではなく、ヒスの工作によってかすめ取られたのだ。
ソ連側の機密文書から明らかになったヒスの工作と不当性をラブロフ、およびロシアが認識していないはずはない。
にもかかわらず、彼らは強欲にも北方四島を手放そうとしない。