折しも、国民党軍による攻撃に日本軍が応じ第2次上海事変(1937年)が勃発するや、ファルケンハウゼンは蒋に
消耗・ゲリラ戦に持ち込み大日本帝國陸海軍を疲弊させる作戦を進言。上海西方に構築した塹壕とトーチカによる
要塞線=ゼークト線に日本軍をおびき寄せんとした。日本軍は圧勝したが損害は予想外に大きかった。
 軍事資源を産む鉱山・工業地帯と沿岸を結ぶ鉄道敷設でも中独は利害が一致。ドイツ技術を投じた貴陽〜南昌〜杭州や
漢口(現在の武漢)〜広州路線は、軍用としても日本軍を悩ませる。

ドイツは日独防共協定締結の陰で、日本が交戦中の中国に武器密輸し続けた

 米国のように敵性国家であれば、水面下で軍事支援は諜報工作の一環との見方は許されようが、ドイツは違う。
第2次上海事変の前年=1936年に(対ソ)日独防共協定を結びながら、日本と交戦中の国民(党)政府への武器密輸
を継続したのである。
 けれども、背信行為は報いを受ける。国民(党)政府は1937年、ドイツの仮想敵・ソ連と中ソ不可侵条約を締結してしまう。
これで態度を硬化させたアドルフ・ヒトラー総統(1889〜1945年)がやっとのこと、新たな兵器輸出を禁じた。
それでも受注済み兵器は契約通り輸出され、完全な禁輸&軍事顧問団撤退は、ドイツが満州国を承認した1938年に入って。
国民(党)政府と断交し“親日”の汪兆銘政権(1940〜45年)を承認したのは、驚くべきことに、日独伊三国同盟締結後
1年近くもたった41年になってだった。