――日米交渉中にもかかわらず、なぜ日本は南部仏印に進駐したのでしょうか。アメリカを刺激すると気付きそうですが…。

許可制や禁輸といえば一見強硬ですが、この時アメリカは日本の飛行機が用いない「オクタン価87以上の航空機用ガソリン」と
「潤滑油」のみを禁輸としました。ハルがいた国務省などは、「厳しい経済制裁や禁輸を日本に課せば、それは日本に南進や
開戦の口実を与えるだけだ」と考えていたのです。

日本側は、1年前の北部仏印の時のアメリカ側の対応から類推し、南部仏印への対応を甘く予測しました。
しかし、41年7月の日本の南部仏印進駐に対しては、対日輸出の全面禁輸という方策に出たのです。

――なぜこの時は全面禁輸になったのでしょうか?これまでのハルやルーズベルトの姿勢とは異なります。

実はここが面白いところで…。40年7月に日本が北部仏印に進駐したとき、ルーズベルトやハルに対して、
財務省のモーゲンソーなど対日強硬派からは、「敵国日本に、なぜアメリカにとっても必須の航空用ガソリンなど
輸出し続けるのか」といった批判が出ました。そのため、オクタン価での制限などの措置が取られた訳です。

ところが41年7月、日本の南部仏印進駐時には、アメリカ国内状況に変化が起きていた。41年夏、ルーズベルトとハルは
ワシントンを離れていました。

この2人の不在時に暗躍したのが、先のモーゲンソーです。彼は対日強硬派が影響力を持ちうる、外国資産管理委員会
という機関に、禁輸に関する職務を専管させるようにしてしまいます。

ハルの国務省とルーズベルト大統領は、この委員会が対日資産の全面凍結と全面禁輸を実施していたことを、
日本の野村大使からクレームがつけられるまで、なんと知らなかったのです。アメリカ側にも官僚制の対立があり、
対日態度の差異による権力闘争があったということです。

――こうして3つの失敗を見ると、日本側の見通しの甘さというか、目算の甘さというのが如実に目立つ気がします。

見通しが甘いということではアメリカ側も同様で、日本側に強硬に出た理由は「資源に乏しく劣勢の海軍力しか持たない日本が、
英米に対する戦争を始めるはずがない」と考えていました。アメリカ側の抑止の失敗が、日本の開戦決意でもあった訳です。

(抜粋)