思い出すのは?琥珀の季節や愛は青春のまたたきなどが大きな評判を呼んでいた川本世津子。
いま彼女が全ての仕事を突然無断にキャンセルし、行方をくらませている。
その行動の裏には、ドラマや映画でみせる清々しい表情や愛らしい笑顔で清純派の代表ともいえる彼女に、
実は全く正反対な素顔があった。彼女の隠された素顔を本誌に打ち明けてくれたのは、他でもない
彼女の実の叔父と叔母である。世田谷に住む彼らは、川本女史の育ての親にあたる。
5才の時に親を亡くした彼女にとっては大恩ある二人が、川本女史の隠された素顔を語った。
「節子(川本女史の本名)は、私たちが苦しい時にでも彼女のためにお金を惜しむことなかったのに、
いま私たちが困っていても沢山のお金を稼いでいるにも関わらず手紙の返事一つくれない薄情者なのです。
そしてあろうことか、私たちにこれまでの恩返しにと言って一度渡してくれたお金は実は貸したのだと言いだし、
その返済を迫ってくる有様なのです。」
夫人も悔しそうに涙を浮かべながら言う。
「あの子は、幼い頃から卑しいところがありました。それはあの子の生まれによるものかと思います。」
純粋さを絵に描いたような川本女史の育ての親である、大谷洋氏は言いにくそうに切り出した。
東京の白金に生まれた令嬢として売り出された清純派女優の代表格、川本世津子の生まれは、
実は埼玉県の秩父地方にある寒村なのだという。
川本世津子こと山本節子は、埼玉県秩父郡大山田村の農家、山本一助の長女として生まれた。
山本家は村の中でもかなり貧しい方で、月の終わりになると金策にかけずり回るのが常だった。
山本家ではその頃になると、釜についた米の糊をも舐めんばかりばかりの暮らしぶりだったという。
そんな中、節子の父と母が流行病で相次いで亡くなった。
孤児となった節子を引き取ったのが、東京で牛乳店を営んでいた大谷氏夫婦だった。
自分達も決して豊かでなかった夫妻は、悲しみに打ちひしがれた。
暖かい食事をあたえ、新しい洋服を買ってやり、学校にもきちんと通わせてやった。
節子の家は、近所でも評判の仲の良い家庭だったという。
節子の人生が大きく変わったのは、彼女が十才の時である。
当時、大谷家の近くにあった渡洋映画多摩川撮影所によく遊びにいっていた節子は、
文学香る作品で名を馳せていた島本嘉太郎監督の目にとまり、映画「翠明館の小夫人」で銀幕デビュー。
この思いもかけない幸運によって川本女史の輝かしい女優街道が開けていったわけだが、
この頃から川本女史の守銭奴の才能も花開いていったようである。
大谷氏によると、撮影所の大監督に映画に出ないかと声をかけられた節子は、あろうことに
「お金くれるの?」と言い放ったのだという。
「普通の神経の持ち主だったら、そんな事言えやしませんよ。恥ずかしいったらありゃしない。
育ててる私たちの家にも恥をかかせるような事です。
まるで私たちが節子に満足いかない生活をさせている様ではありませんか。
わたしはその頃から期待というよりもどこか空恐ろしい気持ちで節子のことを見るようになりました。」
育ての親の気持ちなど知る由もない川本女史は、美貌の女優として成功の道をひた走るとともに、
大谷氏らからは遠ざかるようになっていったという。
それは戦時中も変わらず、大谷氏らが国のために慎ましい生活を堪え忍んでいた時も、
有名女優という立場を利用して密かに自宅でパーティを開いて闇の物資で豪遊三昧。
育ての親には缶詰一つ分け与えなくなっていったという。