サディズムとファシズムが、まさにこの映画の中で直接結びついている。
まず『ソドムの120日』は、かのスキャンダラスな公爵サドの傑作でわけても
残虐行為の集大成とでもいうべきものだが、パゾリーニはここから骨組みと
台詞を借りている。一方サローという町は、第二次世界大戦末期に窮地に
陥っていたムッソリーニがヒトラーの命を受けて作った傀儡「社会」共和国
の悲しい首都となっていたところである。勿論パゾリーニの意図としては、
この文脈はいくらでもパラダイム変換可能な、形式上の枠に過ぎない。
彼はここから観客一人一人にごく日常的なレベルで即関わってくる、また
別の形の「ファシズム」との対応関係を明らかにしようとしているのである。
そもそも歴史的事実の参照は最小限にとどめられ、幾つかの故意に時代を無視
した部分(バルト、ブランジョ、クロソウスキーからの一連の引用のような)
が、巧みにこの映画の持つ哲学的射程を広げている。
事実、作者の狙いは何よりも、権力の「アナーキー」でこの上なく「専横な」
本質と人をモノしようとする操作の、権力の合法化を暴くことにあった。