【ベニスに死す】ビョルン・アンドレセン【超美少年】
かつて世界一の美少年、世界一綺麗な男の子と言われた彼。
『ベニスに死す』の彼はまさに神掛かってた。
あれ程反則的なまでに綺麗可愛い、女の子であっても美少女になりえた
というよりも性別すら超越したまさに天使そのものだったタッジオ。
そんな彼がベニス一作って勿体な過ぎる。 あの化粧顔をみたタージオが思わずプッと吹いてしまうシーンがあってもよかった
その反応に凍りついたアッシェンバッハはショックのあまり心臓麻痺を起こし、
そのままあの世行き
「ウザイおっさんだったなあ」とそんなアッシェンバッハを横目で見ながら
事も無げに黒髪の相棒と砂浜を去っていくタージオ
FIN >>600
同意
というか顔が美形な子役なら探せば他にも沢山いるから、ここまで一番美形と絶賛されるほどかていう この映画が公開されてからうん十年と経つが、未だにビョルンを超える美少年は見たことないぞ
顔の造作の完璧さも然ることながらあの愛らしさ、高貴さ、儚さ、幼さ全てを兼ね揃えた姿はまさに天使 タジオを探してを見るといい
ヴィスコンティマジックがかかってない素の状態であれだけの美貌を持った少年がまずなかなかいない
そしてヴィスコンティほど美少年を撮ることに執念を燃やせる監督もなかなかいない
なかなかいない者同士が最高の仕事をした、それがベニスに死す
>>610
純粋にビョルンの美貌に感動する人はいるんじゃね >>615頭悪いなお前w
>>610は老年期の最中にある人の絶望や達観の揺れ動きの様を
未成熟な十代なりに垣間見たことに不思議さを持っているんだろ
>>615お前みたいな薄ら脳みそう薄らハゲに「ベニスに死す」を鑑賞する資質は無い
とっとと三谷幸喜スレや大林宣彦スレに立ち去れよ アッシェンバッハの役を今のビョルンがやって
それをもとの「ベニスに死す」にデジタル合成(かなんか)した
一人二役の「ベニスに死す」
下手すると面白いかも >>616
お前アスペ?
>>615はストーリーには感動出来なくても
ビョルンの美しさには感動出来ると言ってるんだろ >>617ビョルンにダーク・ボガートのような確かな演技力があるのだろうか? >>611
タジオはアッシェンバッハをウザいとは思ってないだろ
明らかに見られるのに慣れてるし、面白がってる 黒髪の相棒は結局どうなんだろうな
アッシェンバッハが実際したくても出来ないことをやれる(タジオに頬キスしたり肩組んだり組伏せたりご機嫌とりにキスしようとしたり)人物の象徴なんだろうけど
彼自身はタジオに恋愛感情抱いてたんだろうか?
タジオは多分ノーマルだけど 恋愛感情なんてないだろjk
こいつかわいい顔してんな、カッコイイなぐらいは思ってて
そういう面で惹かれてる部分はあるだろうけど エレベーターでおっさんお前見てるぜww挑発してやれよwwみたいなシーンがあったから
タジオを女扱いして遊んでる節はあるな
まあそれはタジオ本人もだが >>605
超亀だがビョルンは後年「気持ち悪かった」とインタビューで答えてる
撮影中にゲイバーに連れて行かれて、膝の上に座る様に言われたんだと 情熱からは遠ざかっていた老境の主人公の胸中に最後の花火のような熱情が湧いた映画だね。 >>627
そうなんだ・・・。
不憫だなあと思っちゃうな そういうの知ると。
「気持ち悪かった」ってすごく素朴な、そして実感のこもった言葉だな。 ノンケの15歳の中学生男子にとっては、ゲイのおっさんに身体を触られるなんて
トラウマでしか無いな 映画だと割と暗い色のダークブロンドだと思っていたが
オーディションの動画観ると普通に薄い金髪だな ビョルンみたいな子役、出て来ないねえ
美少年の子役は沢山いるし、ガチホモ映画に出た美青年も多いんだけど何かが違う
あれはやはり貴族でガチホモの監督が撮ったからこその撮影マジックだったのかな ヨーロッパの名門貴族の末裔だからこそ表現することのできた「美少年」の幻影なんだろうね
「美少年」たりうる素材はいても、ああいう具合に演出できる人間がもういないんだろうな ピーター・グリーナウェイ版「ベニスに死す」の製作進行具合はどうなんだろ
配役とか決まったのかな
けっこう期待してるんだけど… もうちょっと言えば「美少年の幻影」て言うより、
「美少年」という姿形に託して「美」というイデーそのものを垣間見させるみたいな、そんな撮り方
・・・かな
>>634
わおw
ヴィスコンティ版とはずいぶん雰囲気変わってそうだけど、面白そうな企画だね! ビョルンやマークレスターとか子役時代金髪なのに大人になると黒髪になるのは何故だろう? 金髪が濃くなったり、目の色が変わったり白人は不思議だ シンディ・クロフォードの息子はいまどうなってるんだろう? イマジカBSだろ
しかしハイビジョンはやっぱりきめ細かいね 土曜の早稲田松竹、満員だった
その前の山猫は空席チラホラだったが 最終日の最終回も整理券だったよ
見に行けて良かった 映画見てきたけど、いつも思うけどアッシェンバッハ以外誰もタージオに見惚れないのが不自然だよねw
例のちんどん屋みたいな人達とか、よくあんな絶世の美貌を前にしておどけたアコーディオンなんかひけるなあ、と >>595
アンドレイ・ペジックさん、知りませんでした。
モードファッションが好きなので、彼の事をこれからチェックしていきたいと思います。
ビョルン君も美しいですが、Brano Holicek君という方も美しいですよ。(金髪、青い瞳、カワイイ系) >>647
アッシェンバッハみたいなおじさんストーカーが何人もいて
互いにタジオをめぐって恋の鞘当を繰り広げる
爆笑コメディ版「ベニスに死す」もよいかも。 >>爆笑コメディ版「ベニスに死す」
これは面白そうだwww まあペジックは年だから少年役は無理かもしらんが・・ >>419
大ヒットしたのは日本だけだったと思う。
ヴィスコンティはこのことを高く評価していたそうだが、
キリスト教圏ではゲイというのは非常にまずいみたい。
同性婚の問題は FEN(進駐軍放送)でも色々言われている。
日本ではキリスト教徒でもこの点を問題視しない人が多い。
三嶋由紀夫が亡くなったのは 1970 年。
「ベニスに死す」が撮影され話題になったのは 1968 年じゃなかった? 日本は昔から女形の文化が認知されているもんね
男装の麗人もしかり…宝塚歌劇が普通にウケたり
Blu-ray化の権利関係はどうなっているんだろう
「家族の肖像」や「イノセント」などは紀伊国屋のDVD-BOX等で発売されていたけど、
「ベニスに死す」や「山猫」は別のメーカーだったし…
当時の配給会社に因るのか、きっとまた統一されないままあちらこちらから発売されるんだろう… 原作者のトーマス・マンも妻の父親(ユダヤ人の金持ち数学者)から
「妻も子供もいるのに、こんな小説を書いて・・」と非難されたそうだ。
カーチャ・スプリングハイム「トーマス・マンの思い出」に書いてあったと思う。 製作は1971年1月〜2月じゃなかったっけ
で上映が1972年3月
日本で封切りされたのが72年8月 タジオ役の子は今何をしているの?
どんな人生を歩いてどんなおじさんになっているのか・・・それよりどんな
風貌になったのか非常に知りたい。 >>657は知っていてわざと尋ねているんじゃないのか?
いまのビョルンの姿は残念至極だからさ
ビョルンを晒し者にするつもりにしか見えない 旅に出る前、アッシェンバッハは一応社会的地位はあるが、
本人は自分の凡庸さ、自分の人生にうんざりしてる感じですよね。
彼にとって「将来」とは「退屈な余生」でしかない。
まさか自分が今後、誰かに対して情熱の炎を燃え上がらせる事があるなど夢にも思っていない。
だからこそ、タジオに対する情熱は命と引き換えにしてもいいもの、自分の存在価値そのものとなるわけですよね。
この映画の迫力はそこにある、と感じました。 余談:昔、海洋生物のドキュメンタリー番組を祖父と観てた時、
「死期の迫った老イルカが、最後の力を振り絞って、
メスのイルカを追いかけています」
というシーンを、祖父が、悲しみと共感の入り雑じったような目で見ていました。
この映画を観ると、その時の、今は亡き祖父の表情を思い出します…。 ちなみにトーマス・マンがこの原作を書く直前にベネツィアを訪れていて、
実際ポーランド人の少年に強く惹かれたらしいのですが、
この少年は当時11歳、そしてその歳にして男爵の爵位を持っていたというから、
タジオも男爵という設定なのかな? 原作ではタジオはタジューみたいな発音で、14 歳という設定ではなかった? 657です。イヤー、実はミケランジェロ展を見に行き、審議はともかく
ミケランジェロが青年貴族を30年も思っていたと言うことに、
「ベニスに死す」を思い出したわけです。
それで久しぶりに youtube をひらいたのですが、何度も見ているのに
その美しさにこれまで以上に驚愕をしてしまってこの人のその後はと
ミケランジェロそっちのけで思ってしまったわけです。
その後、調べて分かりましたが、さらし者にするつもりは全くありませ
んでした(苦笑)。 >>663原作の小説内では貴方のおっしゃった通りなんです。
ただ、トーマス・マンがこの小説を書く直接の動機となったのが、
執筆少し前に行ったベネツィアでの、なんとか男爵という11歳の少年ポーランド貴族との出会いだったんです。
(この、なんとか男爵の実在と、彼がトーマス・マンとベネツィアで会った事も、実証されてます)。
それにしてもヴィスコンティの妥協しない執念はすごいですね。
アッシェンバッハに「残りの人生の存在価値をそこに集中させて結果として死んでもいい」と思わせるに値する美少年として、
全ヨーロッパ規模の視野でビョルンを見つけ出す。すごい。 付録:美少年のほうが美少女より「格」が上だと思う(独断による)理由。
・完璧な美少女より完璧な美少年のほうが圧倒的に数が少ない。
・美少年のほうが天使に近い。
・美少女が美少女でいられる期間より、美少年が美少年でいられる期間のほうが短い。
つまり美少年のほうが「奇跡」に近い。
・美少年には生理に伴う出血がない。
(※今、酒に酔ってるので細かい点にいちゃもん付けないで下さい) あの腰に手をあてて大道芸人を見てるときのポーズとか
ちょっと演じ切れてなくて微苦笑を誘うようなところがないでもない
本人はなに考えながら演じてたんだろうなあ
やべ、これちょっとダサくね?とか思ってたりして >>667彼は元々俳優業には全く興味がなくて、
それを承知でヴィスコンティが選んだんだから
演技力は割とどうでもいいんじゃないかな? >>なんとか男爵という11歳の少年ポーランド貴族
すげーな昔の人は・・・・てか今でもありえるのかな? 珍しくレスが進んでいると思ったら最近面倒臭い奴がわいているな >>662
ラスト近く教授がホテルのロビーで「この荷物は誰の?」と聞いて
ホテルマンが「◯◯伯爵です」と答えてる
確か実在する伯爵だった筈
原作では4人姉弟の末っ子設定だけど映画は違うから微妙にリアルと嘘が混ざってる >>670
ポーランドは貴族の数が異常に多かったんじゃないかな?
父親が亡くなっていれば、年少でも爵位が付くのは当然。 >>673
なるほど・・・
ポーランドは同性愛とか少年愛に関しては緩い風潮とかあったんかな・・・
すごい否定されてそうだ >>672なるほど。
ちなみに原作者トーマス・マンとモエス男爵について時系列的に整理すると次のようになります。
1911トーマス・マンが家族でベネチアを訪れ、これまた家族で来ていたモエス男爵と出会う。
この時マンは36歳、モエス男爵は11歳
(小説での少年は14歳の設定)。
1912トーマス・マン「ベニスに死す」発表(ドイツ語)。
1924ポーランド語訳が出版され、
たまたま読んだモエス男爵が自分がモデルである事に気付くが、
マンに迷惑がかかる事を気遣い沈黙を守る。
1964モエス男爵がマンの娘に当時の事を手紙で伝える(この時マンはすでに他界している)。モエス64歳。
双方の遺品や家族の証言で事実である事が判明。
こんな感じです。 >>673ポーランド「貴族」はシュラフタといって、
これはイギリス等の貴族とは歴史的成立背景が全く別なんですよね。
もしタジオがイギリス貴族という設定だったら、
なんというか、少し陳腐な作品になっちゃってた気がする。 男爵自身はマンに全く思い入れがなかったと言うか、あんまり良い印象は持っていなかった
まあ11歳の子が中年に愛されても気持ち悪いだけだろう
小学生から見ても30代は立派なおじさんだし、写真を見る限りかなり幼い顔をしていた >>669衣装、興味深いですよね。
タジオのお母さんは「にがい米」のシルバーナ・マンガーノですよね。
ヨーロッパの中・上流階級は(広義の)ドレスコード(例えば、この階層のこの年齢の人が、
避暑地(保養地)で過ごす時はこういう服装をすべき)、
というのが重要な社会で、
しかも映画の舞台20世紀初めは、それが変化していく時代。
伝統と変化を品良く融合させるセンスが要求された。
中でもこの時代の浜辺の服装や水着は、あまり斬新な格好をするわけにもいかず、独特なおもむきがありますよね。 モエス男爵がのちに「自分の子供の頃、まともな女性は煙草など吸っていなかった」
と映画の母親像を批判していた
まあ映画の時代設定が全く同じとは限らないんだけどな そうなのか
オリエント急行殺人事件の伯爵夫人も21歳かそこらで
キセルで煙草を吸っていたのがチャーミングであるかの様に書かれていたから
あの時代の貴族の女性の喫煙はデフォなのかと思っていた
でも監督はイタリアの侯爵家の息子だしそれを知らない筈は無いよね 話はずれますが、ビョルン自身が、成人後、
「私はゲイ差別者ではないけれど、少年を性愛対象とする大人の男には批判的です。
私自身が、こちらの意向にはお構い無しに、最初から性愛対象と見て接近してくる大人を
あまりにも多く見てきたからです。
こちらは普通の会話を望んでるのに、相手はそうではない、
と気付いた時に少年が受ける心の傷は深いのです。」
と言っていたそうです。
彼は色んな意味での「人格無視」を受けてきたでしょうからね。 >>681その辺の経緯(事情)の詳細は過去レスにあるよ
>>1←はじめから読んでみれば?
新しい情報が発掘されるのならいざ知らず
似たり寄ったりの話題を繰り返し繰り返し馬鹿か貴様 >>683
2chに来るの2年ぶりぐらいだし、過去レス全部読むのめんどくさいから。
映画のスレなんてどれも過去レスと似たような書き込みの繰り返しで溢れてるよ。
なんでそんな余裕のない怒り方してんのかワケわかんない。
読まなきゃいいのに。ま、いいけど。 >>678
「魔の山」では、男性は夏は白いスーツ、ネクタイ、
帽子(カンカン帽みたいの)でなければならなかったのではなかったかな? >>685さん
「魔の山」は途中までしか読んだ事ありませんが、
確かサナトリウム(保養地/療養地)が舞台でしたよね。
ああいう上流階級が割と長期滞在する保養地では、
初対面の人との人付き合いをしていかなきゃならないから、
特にドレスコードが重要になってくるみたいですね。 >>683ついでに言っておくけど、
現実の生活で初対面の人に「馬鹿か貴様」なんて下卑た言葉は使わないよね?
それを君はネット上ならいいと思ってるわけだよね?
そういう卑しい考えが身に染み着いてる時点で君は男としての魅力ゼロだから。
過去レスを全部読まずに書き込む人間と
卑しい発想で下卑た言葉を使う人間
どっちが人間としてダメかというと後者だから。
悪いけど君はアル中気味のダメ男にしか思えないから。
残酷な事を言うようだけど、
そんな男と進んで対話したい子なんていないから。
だからもう話しかけないでね。普通に映画の話ならいいけど。
生理的に無理だから。 >>679-680
個人的な印象としては、シルヴァーナ・マンガーノは顔立ちは抜群に美しいが、どこか下品。
ヴィスコンティはそこのところ気付いていて上流婦人役の彼女をそうさせたのではないか・・・とか。 ベニスが美の都でありつつ、コレラの蔓延する死の都であるように
タジオが美の天使でありつつ、アッシェンバッハを誘う死の天使であるように
美はその逆であるはずのおぞましいものと、この映画の中では妖しく通底している
だからこそヴィスコンティは、どこか下品な・・・もっと言えば淫蕩な雰囲気を漂わすマンガーノを
あえて品の良い上流婦人であるはずのタジオの母親にキャスティングして、
上流婦人に似つかわしくない真似をさせているのだと思う >>688
後にマンガーノが演じた家族の肖像の役だけど
あれは当初オードリー・ペプバーンにオファーがあったそうだよね
でもオードリーは断った
淀川さん談「それがオードリーの限界だったのね。
ローマンホリデーのイメージを壊したくないという・・」 性格や教養身ごなしはともかく、マンガーノはビスコンティ監督の母親に
容姿が似ていたようですね。「自分の母親を演じさせられているのが分かった」と
マンガーノが回想しています。でも確かに、貴婦人には見えませんでした。 マンガーノはパゾリーニの「テオレマ」でもエッチな母ちゃん役だったなあ
あ、そう言えば「アポロンの地獄」でも >>691
ごめんなさい、連投になってしまうんですけど
ヴィスコンティがタジオの母親に自分の母親の面影を投影させた
しかも(本物の貴婦人である自分の母親をモデルにしつつ)貴婦人らしくはない・・
ってことにはどういう意味合いがあるんでしょう?
単に身近な貴婦人のサンプルとして自分の母親をモデルにした?
それともこの映画の根幹に関わるもっと深い意図がある?
マンガーノはその点について何か言っているんでしょうか?
あるいはヴィスコンティ自身、この点について何か語っているんでしょうか?
ごめんなさい、もしお手すきでしたら何らかのご教示いただければ幸いです。 マンガーノは若い頃はセクシー女優として売り出したんじゃなかったっけ
それを知っている人が観たら上流階級の貴婦人には見えないかもだけど
知らない人が初めてこの映画で彼女を観たら、出番も台詞も少ないし充分貴婦人に見えると思うよ
10〜20代の時は結構肉付きが良いと言うか、胴回りが太かったけど
かなりウエストを絞ったのも分かる >>693様。マンガーノが述べていたのは、身ごなしなどを厳しく指導されて
その際に「母はそうじゃない」などと監督が言っていて、自分に母親を演じさせようとしているのが分かったという話でした
その意味合いについては特に述べていません。ですから、ここからは私の想像ですが
ヴィスコンティは、タドジオに(或いは若さと老い、美と醜、そしてどちらも逃れられない「死」の物語に)
自己投影している部分があったのではないかと思います。
タドジオの一家もアッシェンパッハも、マンの原作イメージに比べると謹みに欠ける印象がありますが
(妹達は原作通りお行儀いいですが)これはドイツ人による原作、
さらには同じ貴族といってもポーランド人とイタリア人の気質的違いがあるのかも知れません
日本人でも家族出身者のほうが中産階級より却ってざっくばらんで奔放ということがあります
自信があるというか、他人の眼をいちいち気にしないので、時にハシタナク見える類ですね。
映画は視覚的ならびに聴覚的に分かりやすくしなければならないので
作家を音楽家にかえてマーラーを多用するなど、原作と改変している理由は分かりますが……
イタリア語で、まずイタリア人に向けて作られたのですから、彼らに分かりやすい貴族像なのでしょうか。
つなみにヴィスコンティ作品は全般に好きですが
個人的には「山猫」「夏の嵐」「若者のすべて」「ゆれる大地」「郵便配達は…」の順で好きです。
考えてみると、皆、自国の話ですね
「ヴェニスに死す」はビヨルンが美しいので別格。「神々の黄昏」はドイツではなくイタリア貴族にしか見えないというのが正直なところです
良くも悪しくもヴィスコンティはイタリアの輝きを描くことに巧みだった…と云うことでしょうか >>695様
とても興味深いレス、ありがとうございました。
私は7r6さんのような広い視野とか知識とかが欠けていて、
こういう映画を見ても自分の狭い感性だけで閉じた解釈をしてしまいがちなので、
大変参考になりましたし、面白く読ませていただきました。
自ずと教養がにじみ出てくる、自然体な大人のレスって素敵です。
変な日本語かもしれませんが「浩瀚」なレスという言葉が頭に浮かびました。 >>695
「山猫」のアラン・ドロンも下品な感じでしたね。
イタリア貴族というのは下品に見えるのでしょうか? >>697様。アラン・ドロン、下品な感じでしょうか…。結構好きだけど…。
マア、ファルコネーリ公爵家は金がなく、タンクレーディは家勢挽回を目指す野心家ですから、
あれで合っているのかと(贔屓目が入っているかもしれませんが)
ガルバルディの黒シャツ党に身を投ずるくらいだから、日本で言えば幕末の脱藩浪士みたいなもの。
ちょっと無頼派で、野蛮ぶって見せるくらいでいいのかもしれません。
ちなみにイタリア王国成立は1860年、ローマ教皇領を含めた完全統一は1871年。
明治維新やプロシア・ドイツ帝国の成立と同じ頃ですね。
国家統一が遅れて植民地獲得競争に出遅れた日独伊は、その後、近代化を急ぎますが
1930年代に、広大な国土や植民地を持っていた英米仏蘭がブロック経済を敷くと
焦って安易な打開策としての軍国化に走ったというのが、歴史の流れだと思います。そう思うと哀しい>ですね
なお『山猫』の原作は岩波文庫で読めますが、いい作品ですよ。
その後のサリーナ公爵家の緩やかな衰退が切ないです。
英独の貴族は政治や軍務などノブレス・オブリージュを発揮する人が多いですが
イタリア貴族には放蕩や無気力に陥る人が多い印象があります。小説などからの知識ですが… 『副王家の一族』(ロベルト・ファエンツァ監督)のコンセルヴォはタンクレディに対応する青年ですが、
少しも下品ではなく、新しい時代のリーダーとして生きようと毅然としていましたよ。
『山猫』の原作は『副王家の一族』の原作を意識して書かれたものではなかったかな?
映画化されたのは『副王家の一族』の方が遅く、監督の力量やら、
おそらく建物などが破壊されたために、映画自体は『山猫』より見劣りすると自分は思いました。 レコード自体もさることながら、使ってる写真がすごい
自分も一時期当時の雑誌その他かなり集めたけど、見たことないのが3〜4枚あった たしかに美しい、美少年だとは思うが
だからって見とれてフラフラついていくってほどではないと
思うけどな。女装させてもバレるだろう タジオは少年だから良いんだろう
imdb全く更新されてないけど、純愛、ベニス、ペリカンマン以外のDVD作品も見たいものだ。 この映画のDVDを持っていたら児ポ法でタイーホされたりして。。 本気で言ったのではないけれど、かといって冗談でもないよ。 704は所持禁止に法律が変わることに対する皮肉なのさ 現実社会で一線を越えてイカれた奴が出てくるから仕方が無い。