【小説】スナック眞緒物語【けやき坂応援】
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宮田愛萌さんのブログや「ひらがな推し」やでネタにされている架空空間「スナック眞緒」を舞台とした小説のスレです。
なお、「ひらがな推し」や宮田ブログでの「スナック真緒」での井口真緒さんと宮田愛萌さんはひらがなメンバーとは別人格という設定ですが、
ここではひらがなメンバーであるのかないのかというのは曖昧にします。
タイトルと冒頭と末尾の文は、宮田愛萌さんがブログで書いているのをテンプレとして使いました。
原案や参照にしたものがある場合には、その小説が完了したとき必ず明記します。 青いバラについて
2004年6月30日に成功を発表。
2009年11月3日に販売を開始。
花言葉は複数ある。
・夢かなう
・不可能
・神の祝福.
・奇跡 保守
当面、新作を書く気力はないので、また明日からは以前に書いたものを加筆修正して上げます。 >>292
源田は二日連続で四タコ
おまけにデッドボールくらって怪我
みさみさはサゲマン 新人からの連続フルイニング出場記録が299試合でストップとなってしまった。
まあ、ケガはたいしたことはなさそうで、長いスパンで見れば、この程度の浮き沈みは誰にでもあるよ。
じゃあ、今日はこのレスで保守したことにします。 若きアオイ(その1)
大学受験を終えた原田葵は家族旅行で南のリゾート地にやって来ている。
会員制の宿泊施設は小さな島にあり、常時島で生活する人はおらず、宿泊客のプライベート・アイランドである。
葵家だけの貸し切りとなった宿泊施設は周りが緑の森に囲まれ、森を抜けると真っ白な砂浜があり、青い海へとつながる。
せわしない都会での日常に疲れている者にとっては格好のオアシスと言った場所である。
解放的な気分になって葵は大はしゃぎしている。
一方的に喋るだけ喋ったかと思うと、すぐに室内を駆けまわる。
窓を開けては外をきょろきょろ見渡す。
その落ち着きのない様子を見て、葵の母親は浮かない顔をした。
「どうした、母さん」と葵の父親が言った。
「あの子、全然大人になれなくて」と母親は答えた。
「大人になることを無理に急かすものでもないよ。親の贔屓目かもしれないが、ああいうはしゃぎっぷりも可愛いもんだ」
「幼いというのが精神的なものだけならまだ安心できるのだけど・・・。ちょっと心配」(続く) 若きアオイ(その2)
同学年で幼馴染の女の子が葵にはいた。
お互いの近所の家を気兼ねなくよく行き来していた。
葵が中学生のときだった。
その娘の家を訪ねて、ドアを開け玄関の中に入ったが、誰もいないことがあった。
玄関の外からその娘の声が聞こえてきたので、驚かそうと思って、脱いだ靴を持って、その娘の個室の押し入れに隠れた。
襖を少しだけ開け、部屋の様子をうかがった。
ところが部屋に入って来たのは、その子一人だけではなかった。
見知らぬ男と一緒に入って来たのだった。
葵は出るに出られなくなった。
そして、二人はベッドになだれ込み、性交を始めた。
驚いて目を閉じ、耳も塞いだが、絶叫のあえぎ声は聞こえてくる。
心では嫌らおうとしているのに、なぜか開けた目がそちらを向いてしまう。
嫌悪と興奮のせめぎ合いの中で、葵の心は引き裂かれた。
全身から尋常ならない汗が吹き出した。
二人がシャワーを浴びに行った隙に、一階にあったその部屋の窓から急いで逃げ出した。
その記憶は心の深層に封じ込められたが、精神的だけではなく肉体的にも葵の性成熟は停止した。(続く) 若きアオイ(その3)
「海を見に行くね」と告げて、葵は宿泊所から出た。
晴れ渡っているのに、森の中は薄暗く、一瞬たじろいだ。
一人で入るのはちょっと不気味だけど・・・、平気よ。
森の中をおそるおそる葵は歩いた。
ところが、歩き続けても砂浜には到着しない。
おかしいな?100メートルも歩けば砂浜に着くはずなのに?
こんな森で迷うはずもないのに?
いつの間にか森は深くなり。樹々の枝が空を完全に覆い隠し、昼間だというのに真っ暗になっていた。
心の深層に封じ込められていたあの光景を暗闇がフラッシュバックさせた。
おぞましい!
その記憶を打ち消そうと葵は走り出した。
突然、獣の唸り声が聞こえた。
二匹の野良犬が交尾をしている。
覆いかぶさっているオス犬が葵を睨みつけた。
獲物を狩ろうというのでもなく、縄張りに入った異物を排除しようというのでもなく。葵に欲情した目つきをしている。
襲いかかってきた。
蒼ざめた葵は全力疾走して逃げた。
前方に光が見え、さらに駆け進むと白く輝く砂浜が見えた。
振り返るとオス犬はいない。
もう大丈夫だと葵は安堵した。(続く) 若きアオイ(その4)
足を踏み入れると、突然、砂浜が荒れくるった。
白波は高く舞う。
風は凄まじく吹く。
白いニットワンピは強風で引き裂かれ細切れとなって吹き飛ばされた。
家族以外に誰もいないという安心感から下着も付けていなかった葵は丸裸となった。
「いやだ!」と大声で叫びながら、片方の手は胸をもう片方の手は股座を隠した。
戦慄している葵の前に波打ち際を走る女の子が現れた。
葵の目の前を右から左へ無邪気に駆け抜けていく。
この島には他には誰もいないはずなのに?あの子はだれ?
前を通り過ぎたとき、「待って!一人にしないで!」と助けを求めた。
しかし、何も聞こえていないかのように何も見えていないかのように女の子はそのまま走り去る。
その顔を見て、葵は慄然とした。
あれは幼い頃の私だ!(続く) 若きアオイ(その5)
白波はますます高く舞う。
風はますます凄まじく吹く。
海の中に何かがいる。
それは大きく宙に飛び跳ねて頭から着水した。
上半身は人間の男で下半身は魚の怪物だ。
その動きを繰り返す。
そのたびごとに波も風もさらに強くなる。
怪物の繰り返す動きそのものが葵にはおぞましい。
怪物が着水する度に体の真ん中が疼き、同時に得体のしれない快感が襲った。
「痛い!お願いやめて!そんなことしないで!」と葵は泣き叫んだ。
葵の叫びは無視され、怪物はその動きを一心不乱に続ける。
疼くことよりも快感になる自分自身が不安だった。
私になにが起ころうとしているの?
私の肉体よ、私を裏切らないで!
私を別人にしようというの!
私を無垢のままでいさせて!(続く) 若きアオイ(その6)
うずくまり体を小さくして、葵は恐怖におののく。
そこに、どこからともなく男が現れた。
顔だけを上げ、葵はその男を見る。
葵に気づき、男は声をかける。
「どうしたんだ?私になにかできることはあるか?」
「怖いんです。風が、波が、海が」
「怖い、海が?」
「お願いです、海を鎮めてください」
「乙女なんだね。純潔を犯されたくないんだね」と言いながら、男は葵の頭をなでる。
「私はなにも知りたくはないんです。なにも知らないままでいいんです」
「海を鎮めればいいんだね」と言いながら、男は肩にかけていた投網を海に投げる。
投網は大きく広がり、海の中の怪物を捕らえた。
怪物を引き上げて、砂浜の中の岩場に運び、怪物の両手に手枷をして、手枷に鎖を付け、逃げられないように岩場に固定した。
「もう安心だ」と男は言った。(続く) 若きアオイ(その7)
波も風も微動だにせず、海は静かになった。
砂浜に座った男の隣に身を寄せ、男の片手に葵はしがみついた。「落ち着いたか?」と男は葵に言う。
「ええ」
葵は安心しきっていた。
しかし、しばらくすると空虚感に包まれ、疑念が生じてくる。
このままで本当にいいの?
取り返しのつかないことを私はしようとしているのではないの?
避けてはいけない運命から逃げようとしているんじゃないの?
その疑念は徐々に大きくなり、ついに我慢できず口にする。
「静かすぎる。なんだか荒れ狂っていたときよりももっと怖い」
葵は怪物のほうに目を向ける。
かなり弱っているようだ。
「死んでしまうの?」と葵は男に尋ねる。
「時間の問題だろ」
「かわいそう。殺さないで。海に戻してあげて」
「海を鎮めてくれと頼んだのはあなたなんだよ」(続く) 若きアオイ(その8)
「分からなかったの。ただ無性に怖くて」
「いまさらそんなことを言われても・・・」
「元に戻して。あの荒れくるう生き生きとした海に戻して」
悲しい表情で葵をしばし見つめ、男は立ち去ろうとする。
男の脚にしがみつき、「お願い」と葵は泣きながら懇願する。
しかし、「元にはもう戻せない」と言いながら、しがみつく葵の手を除けて、男は去ってしまった。
残された葵は肩を落とす。
後悔の念にさいなまれて、弱りいく怪物に恐る恐る目を向ける。
私が海に返すしかない。でも私にできるだろうか?
重い石を見つけて運び、怪物を縛っている鎖をその石で打ちつける。
しかし、鉄の鎖は固く、石のほうが壊れる。
もっと重い石を持ってきて打ち付けるが、やはり石のほうが壊れる。
疲れ果て激しい息づかいとなりながらも、全身全霊で自分の体重と同じくらいの重さの大きな石を持ってきて、
高く持ち上げ、勢いよく鎖に叩きつけると一方の鎖は壊れた。
同じことを繰り返し、もう一方の鎖も切断した。(続く) 若きアオイ(その9)
瀕死の怪物に抱き着いて、泣きながら葵は言った。
「ごめんない、私が悪かったの!お願い生き返って!」
「・・・頼む、海に返してくれ・・・」と息絶え絶えの怪物はかろうじてつぶやく。
疲労困憊している葵だが、最後の力を振り絞り、怪物を抱きかかえ、海に向かって進む。
怪物の顔がもう少しで海水に浸るところまで運んだが、もう力は残っておらず葵は倒れ込んだ。
動かないままの怪物を沈痛な面持ちで見るが立つこともできない。
しかし、静かだった海にさざ波が起こり、怪物の顔にかすかに当たる。
怪物の目が見開くやいなや、波は強くなり、怪物の体全体に海水が当たる。
海水で包まれた怪物は生き返り、海の中に入った。
大きく宙に飛び跳ねて着水するということを怪物は再び繰り返す。
それを見た葵は歓喜の表情となる。
そして心の深層に封じ込められていたトラウマから解放され、快感を味わうことに罪悪感を持つことはもはやない。
葵も海に入ってはしゃぐ。
もう前の私には戻れないけど、これでいいんだ。
これが受け入れるべき運命なんだ。(続く) 若きアオイ(その10)
伸ばした足先だけを海に浸して、葵は砂浜に座っていた。
何なの?先ほどの出来事は?
そうかこの白い砂浜に包まれて私は眠っていたのか。
それにしてもあの変な夢は?
なぜ、最初はあの怪物をあんなに嫌っていたんだろう?
そしてなぜ今はあの怪物が愛おしいんだろう?
あの怪物の正体は?
水平線に沈みいく夕日が葵の体を茜色に染めている。
足先だけでなく、体の真ん中あたりも湿っている感触があった。
視線を下にすると、白いニットワンピが真っ赤に染まっていた。
それを見ても取り乱すことはなかった。
葵は立ち上がった。
鮮血に染まったニットワンピを夕日の光はいっそう赤く染めた。
ようやく葵に初潮が来た。
大学に入学した春であった。(了) 若きアオイ(後書き)
原案は白土三平「神話伝説シリーズ」に収録されている「ドラ」。
加筆修正する前は、ポール・ヴァレリーの韻文詩「若きパルク」を原案としていたが、今回、それに変えた。
蛇に噛まれることが性的な目覚めを象徴しているという箇所を引用したのだが、変にひねったので、グタグタとなっていた。
そこで、その箇所をストレートに直そうと思ったが、分かりにくいままになりそうだったので、「ドラ」を原案として書き直した。 中学生のとき、学校の図書館に置かれているマンガ本はいくつかあり、「神話伝説シリーズ」もその一つだった。
手塚治虫「アドルフに告ぐ」、中沢啓治「はだしのゲン」、同著者の「カムイ伝」「カムイ外伝」とかは貸し出し中のことが多かった。
「神話伝説シリーズ」は不人気でいつでも読めた。
中坊のときには「ドラ」が何を意図しているのかがさっぱり分からなかった。
10日ほど前に、近くの古本屋で一冊100円の入り口のコーナーで「神話伝説シリーズ」を見つけて、三冊買った。
いま読んだら、妙に腑に落ちた。
その暗示的な表現の真意は、「若きパルク」と同様に、性的な目覚めであると解釈できるので、すんなると入れ替えることができた。
原案に忠実に書いているが、そういう解釈へのガイドとなるように心理描写などは付け加えた。 霧の中の風景(その1)
田原ゆまが中学3年のときだった。
学校の球技大会の実行委員をしていたとき、その担当だった教師の岡松一幸とゆまは初めて口をきいた。
自信に溢れて業務をこなす岡松にゆまは好感を持った。
むろん、恋愛対象としてではなく、あくまで教師としてであったが。
ゆまが岡松とさらに深く関わるようになったのは2学期の中間テストが終わった後だった。
数学の点数はひどいもので、0点に近かった。
そのときに、数学の教師でもあった岡松がゆまに声をかけてきた。
「君はたしか球技大会の実行委員をしていたね。どうした?浮かない顔をして」
「先生、お久しぶりです。実は、今回の数学の点数が悪かったんです。
1学期の中間・期末テストの数学の点数も酷かったので、中学卒業ができるかのか心配なんです」
「よかったら勉強をみてあげるよ」と言いながら、半ば強引に数学研究室にゆまは連れていかれた。
数学研究室は校舎の奥まったところにあり、その入り口付近は薄暗く、数学嫌いもあってゆまはいつも不気味に感じていた。(続く) 霧の中の風景(その2)
室内は長方形で、ドアの対面に窓があった。
両壁には大きな本棚があり、そこには数学に関する本がびっしりと並んでいた。
部屋の形に合わせるように真ん中に長方形の広いテーブルが置いてあった。
他には誰もおらず、ドアを閉めると完全に遮断されて外の音は聞こえなかった。
テーブル席の一角に座らされ、そのすぐ横に岡松は陣取った。
両側の本棚にある数学の本が圧迫してくるかのようで、ゆまは息苦しかった。
まだ外は明るかったが、カーテンが閉め切られていたため外の光は入らず、室内の照明が怪しく光っていた。
岡松の声にいつもとは違う違和感を覚えたが、密室の中で反響しているためだろうとゆまはあまり気にはしなかった。
ところが、岡松の鼻息が荒くなっていることにはっきりと気づいた瞬間だった。
突然、立ち上がった岡松はゆまの背中と椅子の背もたれの間に強引に体をこじ入れ、ゆまの背後に密着して座った。
勢り立ったイチモツをゆまの臀部に押し付け、ゆまの両方の乳房を両手で鷲づかみにした。
一体これはなんだろう?と最初は驚くだけだったが、自分が性の対象にされていることに気づくと、ゆまは大声で泣きだした。
我に返った岡松はあせってゆまから離れた。
「今日のこと誰にも知られたくないよね、僕も黙っているから、君も黙っていようね」と卑劣にも岡松は言った。
泣きじゃくりながらゆまは部屋を出て行った。(続く) 霧の中の風景(その3)
あの日以来、廊下とかでばったり岡松と顔を合わせたときには急いでその場から遠ざかった。
また、岡松の件とは別の心配事もゆまに持ち上がった。
登下校中に不良グループからなぜか絡まれるようになった。
学校の中でも外でも気を休める場所がなくなった。
社交的で明るかったゆまだが、そういうことが重なり、人間不信となっていた。
ある日の下校中だった。
人気のない道を歩いているとき、突然、その不良集団に口を塞がれ、車の中に押し込まれそうになった。
そのとき、手をかけている不良と自分との間に割って入るものが現れた。
その顔を見て、ゆまは驚いた。それは岡松だった。
顔面を拳で強打されて倒れ込んだが、岡松はひるむことなく立ち上がり、堂々と言い放った。
「この子は僕の生徒だ。だから、何があっても守り抜く」
岡松の剣幕に押されたのか不良集団はおずおずと引っ込んだ。
吹き飛ばされた岡松の眼鏡を拾い上げ、血が出ている岡松の顔をハンカチで拭きながら、まゆは言った。
「私のためにこんな怪我をして・・・。ありがとうございました」(続く) 霧の中の風景(その4)
その日以来、不良グループからゆまが狙われることはなくなった。
ゆまは登下校中の不安から解放された。
そんなある日、学校からの帰り道の途中に車が停車していた。
あの事件がフラッシュバックし、ゆかが引き返そうとしたとき、車から出てきた男が、「田原さん」と呼び止めた。
それは岡松だった。
数学研究室でのおぞましい出来事をゆまは忘れたわけでもなかった。だが、身を挺して自分を守ってくれたことに対する恩義を感じないわけにもいかなかった。
戸惑いながらも、ゆまは岡松に近づいて行った。
「君から借りていたハンカチを返そう」と言いながら、岡松はゆまの手を引っ張り車に引き入れた。
小刻みに震えているゆまを見て、岡松は謝った。
「あのときの僕はどうかしていたんだ。どうか許してほしい」
深々と頭を下げる岡松にゆまは緊張が解けた。
「もう気にしていません。それに、先生は私を守ってくれたじゃないですか。
私がお礼を言ったすぐ後、黙って立ち去られたので心配していました」
「もし、君が許してくれるというのなら、連れて行きたい場所があるんだ」
ゆまがたじろいでいると、間髪を容れず、岡松は話を続けた。
「大丈夫、二人っきりになるんじゃなく、大勢の人がいるところに行くから」
不良から殴られた顔の傷跡を岡松が痛々しく手で押さえるのを見て、ゆまは同意せざるを得なかった。(続く) 霧の中の風景(その4)
岡松が車を止めたのはみすぼらしい商店の前だった。
店の前の道路は何度も通たことはあったが、その店を気に留めることは今まで一度もなかった。
岡松の後に続いてゆまは店の中に入った。
乾物か何かを売っている店で、そのときには客は一人もおらず、薄暗くカビくさい臭いがした。
「こんばんは」と岡松は店番の老婆に明るく挨拶した。
うつろな視線を岡松からゆまに老婆は移動させ、興味なさそうにすぐにそっぽを向き、黙ったままであった。
外から見たら間口は狭かったが、奥行きがあり、店内は意外と広かった。
店の奥で、靴を脱ぎ、三和土から床に上がった。
細長く急な階段は黒檀のように黒かった。
岡松に続いてゆまが登ると、一段ごとにミシミシという音が足裏を通して耳に響いてくるようだった。
階段を登って、岡松が襖を開けると、部屋の照明の光は異常に強く、ゆまの目は一瞬くらんだ。
店の二階は壁を取り壊したと思われる畳敷きの大広間となっていた。
中には30人ほどいて、岡松と同じくどれも自信満々な表情で堂々とした態度であった。
以前と違って、今のゆまには薄気味悪かった。
その広間の真ん中に座るようにゆまは指定され、座るや否や、全員が一斉に「南無妙法蓮華経」と大声で唱えだした。(続く) 霧の中の風景(その6)
実は岡松は広域カルト教団に所属していた。
そのカルト教団は豪勢な専用施設をいくつも所有していたが、さらに信者の持ち家も集会の場所として使っていた。
とにかく隙あらば誰でも入信させることを是としているため、活動する場は多ければ多いほどよいというわけである。
ゆまが連れてこられたこの商店の二階もその一つだった。
全員で題目を唱えるのが終わったら、ゆま以外の全員は部屋の四方の壁を背にするようにさーっと移動した。
ゆまだけが部屋の真ん中に取り残され、取り囲んだ全員から一斉にゆまは見つめられた。
恐怖のあまり息が詰まるような思いだった。
異常な言説がゆまに向かって次々に投げかけられた。
「人間は死亡するとその魂は大宇宙へ溶けこむ」
「前世から今世へ、今世から来世へと魂は輪廻転生する」
「今世の悪条件は前世の悪因だから、今世で良い行いを行って来世に良い報いを求めることだ」
不安にさせてから洗脳することをこの広域カルト教団は常套手段としていたのである。(続く) 霧の中の風景(その7)
カルト集団に追い込みに危険を感じ、天井も床も壁も引き裂くほどの悲鳴をゆまは上げた。
入信させるまでは手を休めないように調教されているカルト信者であったが、
ただならぬゆまの異変に怖気づき、部屋を飛び出そうとするゆまの道を開けた。
急な階段をあと少しで下り終えようとするとき、足を踏み外して転んだ。
そのときの音に気づいて、店番の老婆がやって来て、言った。
「あんたは正気なようだね。あんな連中と関わるものではないよ」
何が何だか訳が分からなくなっているゆまは泣くだけだった。
「偉そうに指示していた男が上にいただろ。それがあたしの息子だよ。
地区部長とかいうのに祭り上げられていい気になって、あたしの反対を押し切って、この家を巣窟にしてしまっている。
変な宗教に関わったせいで孫もぐれている」
そのとき、「おばあちゃん、あいつらもう帰ったかな?」と店の表のほうから声がした。
その声の主を見て、ゆまは腰を抜かした。
自分に絡んでいた不良グループの一員だったのだ。(続く) 霧の中の風景(その8)
老婆が厳しく問い詰めた。
「あんた、この娘になにか悪さをしたのか?」
「親父の命令だよ」
そのあまりにも予期せぬやり取りに泣くのも忘れ、ゆまは呆然としていたが、勇気を振り絞って声を出した。
「どういうことなんですか?」
「お前をストーカーして脅えさせるように言われたんだよ。
さらに、あの日、車の中に押し込こむようにも言われた。
ただし、そのときに止めに入る男が現れるから、そこで最後には引き下がるように指示された」
「そんな、あれはお芝居だったんですか?でも、先生は顔から血が出て腫れあがっていました」
「そりゃそうだろ、本気で殴ったんだから。それはあいつからの指示だった。
何度も予行演習したが、そのときに『演技だというのが絶対にばれないように本番のときには本気で殴ってくれ』と、さ」(続く) 霧の中の風景(その9)
老婆がゆまに向って言う。
「許してやっておくれ。これもかわいそうな子なんだよ。元々はいい子だったんだけどね。
これが小学生のときに父親があの変な宗教に入信して、それ以来、活動への参加を強要されてこんな風になっちまった」
「もう参加していないけどな。だから、今日もあいつらがいなくなりそうな時間を見はからって帰ってきた。
洗脳されて熱心になってる親父のダメっぷり見てたら、あの宗教がクソだというのは分かるわな」
「じゃあ、なんで言うことをきいたのさ」
「活動に参加しなくなったときから、高校の学費を出さないと親父が言いだしていた。
高校やめたくねえしと思っていたら、活動への参加を不問にする代わりに一芝居やってくれと言ってきたから、それに乗った」
「『あいつら』というのは二階にいる人たちのことですか?」とゆまは尋ねる。
「その通り。キショくなかったか?本当は気が小さい連中ばかり。
あの薄気味悪い笑顔は自信に溢れているんじゃなく、洗脳された成れの果て」(続く) 霧の中の風景(その10)
ゆまは大きくうなずいてから、尋ねた。
「私を襲ったのはあなた以外にも大勢いましたよね?」
「ああ、全員、俺と同じように、カルトにハマっている親から言いつけられたのさ。他の地区の所属だけどな」
「そんな怖ろしいことやるのが本当に宗教なんですか?」
「驚くには当たらないぞ。もっと上の幹部だと、政治家の殺害依頼を暴力団組長にしたのもいるという噂だから。
でも、お前もそんなこと言えた義理か?可愛い顔してやるもんだな」
「どういう意味なんですか?」とゆまは不快感をあらわにした。
「自分のほうから二人きりになる場所に誘って、色仕掛けして、あの教師から金銭を脅し取ろうとしたんだろ?」
そのことばを聞いて、ゆまは泣き崩れた。
「その教師が言ったのかい?だったら、出まかせに決まっているじゃないか。馬鹿だね、あんた」と老婆は叱りつけた。
「そうか、そうか。で、どうする?俺を訴えるか?
俺は全然かまわないが。あのクソ親父の言質もスマホに録音しているし、お前の画像があの教師から送られてきたというログもある。
『地獄に落ちるぞ』がクソ親父の口癖だが、あいつら全員を一緒に地獄に引きずり落とせるなら、それはそれでありがたい」
「家に帰って、両親と相談して決めます」(続く) 霧の中の風景(その11)
ゆまが自宅に戻ると、父親はリビングでくつろいでいて、家の中は平穏だった。
なかなか話を切り出せなかったが、意を決してゆまは話し始めた。
ただし、猥褻な行為を岡松からされたということは羞恥のため言えなかった。
また、不良グループのこともなぜか言う気にはならなかった。
岡松から騙されて、妙な宗教の会合に連れて行かれたとだけ打ち明けるのが精一杯だったのだ。
しかし、ゆまの父親の怒りを爆発させるにはそれで十分であった。
「絶対に許さん」と言って、カルトの巣窟に父親は向かった。
父親が家を出てからは、ゆまは気が気でなかった。
あれこれと起こりえる事態に考えを巡らしてみた。
だが、父親に対しあのカルトがどのような対応をしてくるのかがまったく予測がつかなかった。
父親が自宅に戻ってくるのは遅かったが、ゆまは寝ないで待っていた。
どのような話し合いが行われたのかを尋ねるためであった。
しかし、「今日はもう寝なさい」と父親は言うだけだった。
話し合いの内容を教えてくれないことにはわだかまりが残ったが、
その反面、プライベートに必要以上に入り込まない父親をゆまはありがたくも思った。(続く) 霧の中の風景(その12)
何事もなかったように岡松は教師を続けていたし、カルト教団の件で父親から改まった話もなかった。
その一方で、変な新聞紙や変なグラフ雑誌がゆまの自宅に届くようになった。
理由を聞いたら、「素晴らしいものだから、読みなさい」と父親は言うだけだった。
また、聞いたこともない人物の名前を挙げ。「××××先生はガンジーやキング牧師と同じくらい偉大な人だ」とか、
「××××先生は近々ノーベル平和賞をとられるお方だ」とか変なことを父親が言いだすようになった。
ある日の夜、「さあ、行こう」と父親から車に乗せられた。
嫌な予感はあったが、父親には逆らえなかった。
到着した先を知って、ゆまは脅えた。
前に岡松から連れていかれたカルトの巣窟となっている商店だった。
嫌がってしゃがみ込んだゆまの手を父親は引っ張り、二階に連れて行った。
前と同様に、全員で題目を唱えるのが終わったら、ゆまだけが部屋の真ん中に座らされた後、
矢継ぎ早の質問を浴びせられて、「そんなこともわからないのか」と恫喝された。
そんなゆまの様子を見ても、父親は黙って見ているだけだった。(続く) 霧の中の風景(その13)
カルトの会合に連れて行かれる日々が続き、ゆまの精神は崩壊する一歩手前だったが、突然、変化が起こり、心が痛まなくなった。
凄まじい暴風雨が吹いていたが、急に凪になったかのようだった。
ストックホルム症候群というものがある。
ストックホルムで起こった事件に発する言葉で、長期にわたる監禁状態のため、
人質が犯人に対して好意を持ってしまうという不可解な現象である。
そこには人間の心理の不思議な働きがある。
人はある程度の災いなら、現実的に解決しようと努める。
ところが解決不可能な災いに見舞われたときにはその不条理感や不安感から逃れるために心理学でいう合理化をはかる。
つまり、自分の不安の源泉となっているものを受け入れようとする。
それによって自分を納得させ不条理な事態を認めようとするのだ。
もし、父親が一緒に戦ってくれたなら、現実的に解決するという手段をゆまは採っただろう。
しかし、父親までが取り込まれてしまっている状況にあっては、カルトを受け入れて合理化を図るしかなかったのだ。(続く) 霧の中の風景(その14)
カルトの集会所に行って、お題目を唱えることがゆまの日課となった。
単純な言葉を延々と唱え続けると、頭が空っぽになってくるものである。
そんなゆまの様子を見て、自分を告発することはないだろうと岡松も高を括るようになった。
そうすると、成長期の女子中学生の体をもてあそびたいという最低な欲望がまたわいてきた。
空っぽになった頭というのは何でも詰め込める瓶のようなもので、
身に覚えがない明らかな嘘であっても吹き込むことが可能となる。
あなたは最初から僕のことが好きで、僕を求め続けていたんだよ。
数学研究室でのこともあなたはなにか思い違いしているんじゃないないかな?
あなたのほうから僕の膝の上に乗って来て、僕の手をあなたの胸に導いたのはあなた自身なんだ。
そういう具合に、ゆまは完全に洗脳され、岡松の意のままとなった。
二人でキスをしているところや乳房を揉まれたりもしているプリクラまで言われるままに撮った。
そのときの画像でゆまが楽しそうに笑っているのは洗脳のためだった。
ゆまが高校に進学しても、岡松に玩具にされる状態は続いた。
また、父親の洗脳はより深刻で、家の権利書の所有はカルト教団に移されていた。(続く) 霧の中の風景(その15)
洗脳され続けていたゆまであったが、心の奥底に何かがうごめくのを感じていた。
それは子供のころから抱いていたアイドルになりたいという夢だった。
カルトへの帰依心のため今は小さく萎んでいても、その真摯な思いはときおり洗脳されている心をも揺るがした。
大手のプロダクションのアイドルグループの募集要項の記事を目にしたとき、その思いを押さえることはもはやできなかった。
一縷だった光は内側からゆまの心を満たしていき、洗脳されていた心を溶かしていった。
子供のころから評判の美少女であったゆまはオーディションに合格し、
ハードなダンス特訓にも耐え、そこで知り合った仲間とデビューを楽しみに待った。
このときにはもう完全にゆまの洗脳は完全に解けていた。
だが、その矢先、予期せぬところからまた災難がゆまに降りかかった。(続く) 霧の中の風景(その16)
岡松から性的な玩具にされている様子を映したプリクラが流出したのだった。
しかもゆまは嬉しそうに笑っていたので弁解のしようがなかった。
プリクラの流出には思い当たる節があった。
岡松はゆま以外にも複数の教え子にも手を出していて、しかも自分への忠誠を競わせるため、当人どうしをあえて引き合せた。
岡松から寵愛を受けているという優越感を見せつけるため、例のプリクラを競争相手にゆまは見せつけた。
そのとき、ゆまには無断で持ち出されたのだった。
完全に洗脳されていた時期だったとはいえ、取り返しのつかないことをしてしまった愚かさをゆまは後悔した。
しかし、もう遅かった、マスメディアやネットが劣情をそそるように大騒ぎした。
栄光を約束されていたグループをゆまは脱退せざるを得なかった。
その後、快進撃を続けるグループの光景をテレビで見たとき、その中に自分がいないことの理不尽さにゆまは大粒の涙を流した。
あの教師に、あのカルト教団に関わることがなかったなら・・・・と何度も何度もゆまは悔やんだ。
食事も喉を通らず、底なしの苦しみが何日間も続いた。(続く) 霧の中の風景(その17)
自身に関するあらゆる情報を遠ざけるようにゆまは心掛けてはいた。
だが、遠ざけようとすればするほど知りたいという欲求が沸き起きあがるのだった。
ある日の朝に目覚めたとき、衝動的にスマホでエゴサをしてしまった。
週刊誌の中の記事を転載した父親の言葉を見つけた。
「娘と先生との交際は保護者である自分も認めている」
え?私がこんな仕打ちに遭っているというのにお父さんは誰を庇っているの?
また、辞めた自分と入れ替わるように一人入って来て、グループのメンバー数は21人で変わっていないというのも知った。
さらに、メンバーの一人が「21人の絆」を強調している記事まで見てしまった。
その数にゆまは含まれていないことになる。
え?私はもともと存在していなかったことになっているの?
家を飛び出して、街を彷徨っていたら、東京湾の埠頭に来ていた。私だって死にたくはない。
でも、こんな人生は馬鹿馬鹿しくて生きてられない。
もう何の未練もないと思い、ゆまは身投げした。(続く) 霧の中の風景(その18)
埠頭に仰向けで寝ていたゆまに意識が戻った。
びしょびしょに体は濡れていることに気づき、身投げしたことを思い出した。
自分のそばにいる女性を見てゆまはぎょっとした。
広域カルト教団と決別したとき、「地獄に落ちるぞ」としつこく脅されたこともあり、ここは地獄なのかと思った。
「ごめんね、驚かせた?顔の骨が十分に発育しないトリーチャーコリンズ症候群という先天性の障害があって、私はこんな顔なの」と女性は優しく言った。
自分を助けてくれたのがその女性だという状況を理解し、一時でもそんな失礼なことを思ったことをゆまは恥じた。
「助けてくださってありがとうございました」
「生きていると辛いことがあるよね。こんな顔だから私なんていつもそう。あなたも何か悩みがあるの?」
「あのう、・・・」と言いかけて、ゆまは言葉を中断した。
「よかったら、何でも聞いてね。できる限りのことは答えるから」
ゆまは言葉が出なかった。
「じゃあ、私のほうから話そうか。ジロジロ見られたりすることもよくあって、私は外出するのが怖い。
でも、親は先に死ぬことになるんだし、いずれは自分一人でいきていかなければならない。
怖がっていたら何もできないから、嫌な思いをすることがわかっていても私は外に出て行くの」(続く) 霧の中の風景(その19)
「・・・あのう、ご自分の人生を恨まれたことはないんですか?」とゆまはおそるおそる尋ねた。
「人間って不平等よね。その人生に当たり外れがあるんだから。
運命は自分ではマネージメントできず、私なんてこの姿で生きていかなければならない。
でも、大事なことはそれを受け入れるという覚悟を持つことだと思うの」
ゆまは感銘を受けた。
ああ、この人はこの世界に不公平があるのは当たり前と悟っている。
私の場合は不幸に呑み込まれてしまったが、この人は逆に自分の不幸をも呑み込んでしまうほど大きい人なんだな。
「あのう、何か夢とかは持っていらっしゃるんですか?」
「夢か・・・。それとはちょっと違うかもしれないけど、せっかくこの姿で生まれたんだったら、自分にしかできない使命があると思うの」
「『せっかくこの姿で』ですか?」とつぶやいてしまい、ゆまは失礼なことを言ってしまったことに申し訳なさそうな顔をした。(続く) 霧の中の風景(その20)
海を挟んだ数キロ先にある向こう岸を女性は指さした。
ガントリークレーンの群がその指さす向きにあった。
「あのキリンさんのような機械を真下から見上げたことがあるの。
階段がいっぱいあり、ワイヤーや照明器具なんかも複雑に配置されていて、遠くから見たときと同じものには見えなかった。
で、ね、こうやって遠くから見る場合と、間近で下から見る場合とで、どちらが本当のものだと思う?」
「どちらも本当のものであると考えたらいけないんですか?」と自信なさげにゆまは答えた。
「そうよね、一方が本当で、一方が嘘だということはない。
あの機械は実在するからこそ、違った地点からは違ったもののように見える。
それと同じように、一つの真実でも、別々の人が見たとき、その生き様の違いで違って見えると思うの。
こんな私だからこそ見える景色がある。他の誰にも取って代わることのできない役割がある。
あえて、『せっかくこの姿で』と言ったのはそういうこと。
もちろん、あなたにもあなたの役割があるし、どんな人にもその人の役割がある。
私たちの一人ひとりが、手の届かない他者に代わって、世界の一角一角に手を届かすことができるあたかも触角のようなもの」(続く) 霧の中の風景(その21)
自殺しようとした自分に対する戒めの言葉のようにゆまには聞こえた。
この人に隠し立てはしたくないと思い、自分に起こったことの全てをゆまは打ち明けた。
「その宗教団体なら知ってる。
『障害を持って生まれた人間は、前世で悪いことをしたからだ。だが信心を持てば、その業を断ち切れる』とうちの親に入会を迫ってきたのよ」
「無神経で、非常識ですね。洗脳されてたとはいえ、あんなとこに入っていたことが恥ずかしい」
「もう決別しているのなら、もう振り返らず、前を向いて歩きなさい」
だが、宗教への根源的な懐疑がゆまに沸き起こってくる。
「神様や仏様っていると思います?」
「もしいらっしゃるとしても、公正無私な神様の視点を通して普遍的な真実を私たちが知るというのは違う気がするの。
むしろ逆で、様々に異なっている私たち一人ひとりの視点を通すことによって、抽象的な真実に生(せい)の次元が与えられる。
そして、そういう私たちの視点を神様のほうこそ欲しているんじゃないかな?」
話が難しすぎて、すべてを理解できなかったが、大切な何かを教わっているとゆまは思った。(続く) 霧の中の風景(その22)
だが、どうしてもゆまの頭にはこびりついているものがある。
「じゃあ、悪魔はいると思いますか?」
自分を悲惨な目に遭わせた広域カルト教団のことを思い浮かべながら、ゆまはそう尋ねた。
「悪魔がいるのなら、すべての幸運を私から奪い取ることができるでしょうね。
でも、たくさんの不幸を引き受けていても人生を諦めていないのが私の強み。
生きたいという意欲までは悪魔でも奪い取ることはできない」
「私はダメな人間ですね、そんな厳しい運命と闘っていらっしゃる人の話を聞いても、
アイドルになるという浮ついた夢がないと生きる気力がわかないんです」
そう言って、ゆまは泣きだした。
「そういう夢を持てばいいじゃない。
あなたはそんなにも綺麗な顔をして生まれてきたんだから、きっとアイドルになれるよ」
そのことばを聞いたゆまは泣くだけだった。
「ごめんね仕事に戻らなくちゃ、あなたをテレビで見る日を楽しみにしている」
そう言って、その女性は去って行った。(続く) 霧の中の風景(その23)
海水に濡れているスマホだったが、電源をオンにしたら、無事に作動した。
父親からのメールが着信していた。
ゆまには黙っていたが、父親自身もだいぶ前から洗脳は解かれ、広域カルト教団をすでに脱会していたという内容だった。
広域カルト教団から騙されて奪われた家の権利書の件の裁判で勝訴したということも書かれていた。
また、週刊誌の取材でああいう弁明をしたのは岡松を庇うためではなく、真剣な付き合いをしていたというように装ってておけば、
ゆまが世間から好奇の対象にされることを避けられるだろうという苦肉の策だったということも述べられていた。
女性の話を思い出しながら、無機質なガントリークレーンが遠くに整然と並んでいるのを眺めていたら、ゆまは目眩を起こした。
突然、巨大な手の彫像が海の中から急に浮かび現れ、しかも海面を過ぎても重力に反しどんどん上昇した。
そして、どこからやって来たのかもわからないヘリコプター数機がいつの間にか彫像にロープを取り付けて、見えなくなるまで遠くに運んで行った。
ゆまはその様子を傍観することしかできなかった。(続く) 霧の中の風景(その24)
埠頭に座ったままでどうやら白昼夢を見ていたのだということをゆまは悟った。
おかしな夢を思い返しながら考えた。
私の不幸はああいう宗教にかかわったことにあるけど、避けようと思えば避けられた。
また、社会の意識が変われればああいうのは駆除できるし、駆除しなければならない。
社会に害となるああいう宗教を放っておいて、私だけでなく多くの人を不幸にしているのは社会の責任だ。
でも、あの人の不幸は社会のシステムに還元できず、人の手がおよばないところにある。
どんなに良い社会をつくったところで、絶対的な不幸から逃れられない人たちはいる。
この世界はどうしようもなく不条理だ。
あの人に何をしてあげればよかったのかさえ今も分からない。
私は傍観するしかないのだろうか?
でも、一つだけはっきりしていることは、あの人はご自分の人生を諦めていないということだ。
そんな人から救わた命だ。
絶対に無駄にはできない。
ゆまは力強く立ち上がった。(了) >>343
最初に登場人物の名前を見たときから「え?大丈夫なのこれ?」って思ってしまったんですが(笑)
でもストーリーがそれに輪をかけて深刻な展開でハラハラしながら引き込まれました
でも読み終わって
結果として
何だか生きていく勇気を与えられた気分です
ありがとうございました >>344
欅坂にも日向坂にも乃木坂にも全く関わったことがない架空の人物を主人公にしました。
全くの想像上のそんな物語でお褒めの言葉、ありがとうございます。 霧の中の風景(後書き)
参照にしたのは以下の通り。
ギリシャ人の映画監督テオ・アンゲロプロスの「霧の中の風景」
日テレ「NNNドキュメント」の2016年11月7日に放映された「トリーチャーコリンズ症候群に生まれて」
オルテガ「現代の課題」の最終章「視点の理説」
オルテガ「傍観者」の「真理と遠近法」および「エル・エスコリアルについての黙想」 アンゲロプロス「霧の中の風景」に出てくる白昼夢のシーンはそのまま使った。
巨大な手の彫像が海から浮かんでくるというのは、
世界は自分の意志ではどうにもならず、訳の分からない何かが潜んでいるということの象徴。
どこからやってきたのかもわからないヘリがいつの間にかロープを取り付けた後に遠くに運んで行くのをただ傍観しているというのは、
自分の卑小さを思い知らされると同時に悪意の正体すら知ることができないということの象徴。
そのように解釈したことをこの物語にも当てはめてみた。 「NNNドキュメント」では、不幸な境遇にある人がよく取り上げられる。
最近に限定しても、次のようなものがあった。
・脳梗塞になり半身に麻痺が残りパラリンピックを目指す妹とサポートする姉。
・三歳のときに癌のため両目を摘出しても、逆に両親を慰める勇敢で心優しい少年。
・19歳のときに癌で死の宣告を受け、余命を必死に生きた中国から帰化した美しい女性。
だが、その人たちは、ある意味、幸福な面もある。
取り巻く全ての人たちの心温まる善意に支えられているからだ。 トリーチャーコリンズ症候群の放送回で登場した女性の両親の深い愛情は疑うべくもないが、
周りには人間の屑のような輩もいるようで、面と向かって惨たらしい差別的な嘲笑を浴びせられる現実をその女性は述懐し、
「私は何も悪いことしていないのに」と嘆いていた。
誰よりもつらい現実を生きているのではないかと思わせる。
それでも、「辛いけど外出する」や「せっかくこの病で生まれてきたんだし」と生きることを諦めない真摯な態度には深く心打たれた。
その言葉をここでは使わせてもらった。 「視点の理説」および「真理と遠近法」の論点はほぼ同じで、悟性的な遠近法を視覚的な遠近法に譬えて論を組み立てている。
つまり、同じものであっても、別の人が見れば違った判断をすることを別の地点から見れば違ったものに見えることに譬えている。
そういうロジックをこの物語に援用した。 「エル・エスコリアルについての黙想」では、オルテガが「ドン・キホーテ」から引用している次の部分を援用した。
>幻術師なら拙者から幸運を奪い取ってしまうことも出来はしようの。
>だが、努力と活気、これは不可能でござろうて。
「ドン・キホーテ」を読んだことはないので、孫引きというのも情けないのだが、
気力をなくしたときにいつも思い返す大事にしている言葉である。 5月22日に放送されたTBSのクイズ番組「東大王」の勝利チームが決定する最後の問題の答えが「エル・エスコリアル修道院」だった。
世界遺産を答えさせる問題で、上空から徐々にズームアップしていき、分かったところで早押しするという形式である。
イベリア半島が中心の状態の画で、マドリードと読み、
その中の世界遺産で上空から見て特徴のあるものしか出題されないという判断をして、水上颯が見事に正解した。
イベリア半島が中心といっても、まだ地球全体が見えている状態で、
アフリカ中北部やインドや北極点を挟んだグリーンランドやアラスカが見えている状態だった。
オルテガの本で読んだこともあり、エル・エスコリアル修道院は思い入れがあったのに、
解答VTRでその形がはっきりと映し出されるまではその判断ができなかった。
驚異的なスピードで答えた水上に脱帽。 アンゲロプロスについて
長回しが冗長となって、観るのが苦痛となるものが多い。
長回しの映画が嫌いだということでは決してない。
たとえば、アンドレイ・タルコフスキーの長回しはとても好きだ。
ワンカットがゆっくり進むことによって、心の奥底にあるものが呼び起こされ、
映画の哲学的なテーマと個人的な体験とが融合して、他の監督では不可能な深遠なところまで連れ去ってくれる。
アンゲロプロスも映画史上に残る名監督であるのは間違いないが、タルコフスキーほどの才覚はないように思う。 ただし、「霧の中の風景」では、美しい抒情的な映像の長回しはとてもいい。
明りが輝くホテル全体をバックと夜の風景や荒涼とした山道。
他には誰もいない夜の街灯に照らされたどこまでも続くようかの夜の道路。
それらは印象深かった。 昨日、登戸駅近く起きた通り魔殺人事件の犯人の動機が明らかになりつつある。
どうやら恵まれない自分の境遇を呪った上での凶行ということのようだ。
人生は自分ではマネージメントできない。
容姿とか境遇とかは自分で選び取ることはできない。
長濱ねるのように見目麗しい姿で生まれてきた者もいたり、裕福な家で愛情たっぷりに育てられた者もいたりする。
その一方で、それらとは正反対の者もいる。
つまり、その人の人生には当たり外れがあるということ。
でも、どんな人生であっても、どんな自分であっても、
それこそが自分のかけがえのなさということが分かれば、他人の生もかけがえのないものだというのは分かる。
それを奪うということがどれだけ残酷なことなのかを考えれば、犯人には1ミリの同情もできない。 輪廻転生などの死後の世界を主張することを批判的に書いたが、それはあくまでカルトが悪用するということにおいてである。 日テレ「NNNドキュメント」で「わが子を看取る おうち診療所ですごした3か月」という回が一年前に放送された。
その中で、難病のため余命いくばくもないという子供とその両親を取り上げていた。 難病の自分の子供に対し、次のようなことを話したと母親が医師に告げる。
「同じ病気のお友だちがなくなるたびに天国の話をしていて、いつかみんなが行くところだから、行ったらすごく楽しい。
パパとママはまだ行けないからそこに行ったら待っててね。
でも私らはアナタのことをずっと忘れないし、また会えることが必ず約束されていて、それを楽しみにしているから」
その是非について医師は答える。
「死に対する恐怖は大人とは違って、空に飛んでいくとか、楽しいところに行くとかいう想いでそこで収まると思うんですが、
何が不安かというとお父さんやお母さんと会えなくなるということ。
だから、『天国に行ってもお父さんやお母さんと一緒だよ』と言うこともありかもしれません」 「天国」なんて実在しないと思うし、個人的には不要だが、「天国」は実在してほしいとも思う。
どうしようもなく不条理に死んでいく幼い子供が「天国」の存在を信じることで、
最後の最後まで希望を失わないのなら、「天国」の実在は福音となると思うからである。
そういう文脈で、死後の世界の実在が語られるのなら、尊いことである。
だが、死後の世界とか前世とかでカルト宗教が善男善女に恐怖を煽るのには反吐が出る。
「障害を持って生まれた人は、前世で悪いことをしたからだ」
「信心を持てば、その業を断ち切れる」
そういうことを平気で言う宗教者は、相模原の障害者施設で大量殺傷事件を起こした植松とメンタリティーの上では大差はない。 途中で詰まって苦しみたくないので、新作を投稿するときには最後まで書き終えてからという方針に変えたため、
新作を投稿しなくなってから二か月近くも経っている。
このままだとこのスレの存在意義がなくなってしまうので、再度、方針を変えて、
何とかなるだろうと楽観してとりあえず書き始めることにします。
いま中途半端な物語の構想が三つほど頭の中にはあるけど、どれもはっきりとした形がまだ見えてこない上に、つまらないものになるような気しかしない。
ストーリーが破綻したり、袋小路に入り込んだりしたときには、投げ出してdat落ちさせるかもしれませんが、
ウィークエンドには書き始めて、一日に一投稿を基本に継続させる予定です。 ハーツ(その1)
秩父の奥まった山の尾根に俺はいた。
前日に見かけた赤いセキレイを見つけるためだった。
本州に棲息しているセキレイはハクセキレイ、セグロセキレイ、キセキレイの3種類である。
サイズやフォルムはほとんど同じだ。
どのセキレイも東京23区の水辺でも普通に見ることができる。
ハクセキレイは背中側が灰色で腹側が白色、セグロセキレイは背中側が黒色で腹側が白色、キセキレイは背中側が灰色で腹側が薄黄色である。
日本はおろか世界中のどこにも赤いセキレイはいない。
だが、たしかに背中側が深紅で腹側が薄赤色のセキレイを見たのだ。
すぐに急降下していったので、一瞬だけではあったが。
赤いセキレイが急降下した先は、急な崖で、林に隠されているため下の様子は分からないが、おそらく谷底になっている。
そこを見通せる場所を歩き回って探したが、うっそうと茂る木の葉っぱが邪魔をした。
ただ、太陽光を反射した水面のようなものが葉の隙間からちょっとだけ見えた。
谷底に降りることができるポイントを探したが、どこも急な崖に阻まれていた。
そこで、クライミング器具を持ってこの日に出直したというわけである。(続く) ハーツ(その2)
しっかりと根を張った大きな木の回りに8mmロープをダブルフィッシャーマンで結び、
それに通したザイルを八の字結びをして、二つのユマールの一方だけを交互にゆるめながら、安全を確保しながら降下した。
勾配が急になるにつれて、木の数は減っていき、ほぼ垂直になったときに、木は全くなくなって、下方の視界が開け、谷が見えた。
ザイルの長さが尽きたところで、オーバーハング、つまり、下から見たら岩が覆い被さっている状態になっていた。
引き返そうかとも思ったが、後3メートルくらいだし、トラバースすれば、オーバーハングを避けることはできる。
ユマールをザイルから外し、登攀器具の確保なしで降りるのを強行した。
その途中で岩が崩れ、地面に落下した。
骨折には至らなかったが、その衝撃で右足を挫いてしまった。
足を引きずれば、なんとか歩ける状態ではある。
下から上を見上げると、この谷底が見えなかった理由が分かった。
四方が崖に囲まれ、しかもどこでも途中で高い木が覆い茂っているので、どの方向にも尾根は見えない。
ということは尾根からはこの谷底が見えないというのは道理である。(続く) ハーツ(その3)
谷底は草野球のグラウンドくらいの広さで、別世界のように美しい場所だった。
短く柔らかい緑の草で一面がおおわれて、バニラのような芳香が漂っている。
谷の東側には小川が流れていて、太陽光を反射してキラキラ輝いていた。
川の上流に行くと、高さ2メートルくらいのところから地下水路を通った水が岩から滲み出し、下に落ち、川をつくっているのだった。
これほどの大量の水が湧き出ているのは信じられなかった。
岩に濾過された水はとても綺麗で飲料水としても十分すぎるほどだ。
下流では岩壁が侵食されて洞窟となり、川の水はそこに注ぎ込んでいた。
小川にはたくさんの岩魚や山女魚がいたが、それらはその洞窟を遡ってやって来たと考えるしかなかった。
どれもこれも信じられないような光景だったが、もっとも信じられないのは家があったことだ。
緑色の瓦で屋根はおおわれていて、側面は黄色に塗られ、山小屋と呼ぶにはお洒落で大きすぎる。
家は谷の北側に位置し、さらにその北側に大きな木が一本だけあった。
その樹皮には漆黒と銀色とが交互に輝く斑点があった。
南に向かって枝を伸ばした木は家の上部を完全に覆っていた。
しかし、その伸び方が奇妙で、どの枝も必ず三本に分かれ、別れた枝もさらに必ず三本に分かれ、さらに三本に・・・という状態だった。
木の枝がかくも完璧なフラクタルとなっているのは今まで見たことはない。(続く) ん?
いつもと同じ東京都の自宅から書いているのになぜか「神奈川県」となっている。 >>366
こんばんは
いつもチワン族だった者です
このたび5ch全体で県名表示の方法が変更になったようで
今までと表示名が変わったり住所地と表示が合わなくなったりなどの報告が頻発していますが
まあ私たちになすすべはないので受け入れるしかないみたいです
ちなみに今回の変更の目的のひとつはスレ荒らしがよく使っていた『地震なし』『玉音放送』などの表示ができなくすることみたいです(推定) わざわざどうも。
なるほどシステム変更するときに、その副作用で県名表示が正しく機能しなくなったというわけですか。
以前に小説総合スレで、「東京都」被りしたときに!ken:15(東京MX)で書いた以外では、
常に名前欄は空欄にして、自動的に「東京都」表示としていたので、そういう事情には不案内でした。 都道府県については今日になって正しく表示されるようになった方が確かに多いみたいです
私は多分これで固定だと思います(笑)
スレチ失礼しました ハーツ(その4)
家のドアノブを回したら、鍵はかかっていなかった。
中に入ってみると、手入れが行き届いていて、とても綺麗だ。
少なくとも今は誰もいるわけもないな。
挫いた足も明日には治るだろう.
無断で使用するのは気が咎めるが、今日はここで休ませてもらおう。
玄関から上がってすぐにリビングがあり、大きなソファに横になり、うとうとしていたら、誰かが入ってきた。
びっくりして起き上がり、罪悪感から早口になって、相手も見ずに頭を下げて非礼を詫びた。
「すみません。ここに来る途中で足を挫いてしまい、誰もいないと思って・・・」
頭を上げると、年齢は16、17歳くらいの熾天使のような美少女が立っていた。
テラコッタカラーのTシャツに黒のオーバーオールを身に付け、バケットハットをかぶっている。
切れ長のややつり目は和風テイストだが、目全体が大きく、アニメのヒロインのような顔立ちのようでもある。
他に誰もいない部屋で初対面の男に対し、美少女は臆することなく、自然体で答えた。
「かまいませんよ。足が治るまでどうぞゆっくりしてください」(続く) ハーツ(その5)
「それはありがたいです。では、ご両親がご帰宅されるまで、外に出ています」
「ここに住んでいるのは私だけです」と美少女は微笑した。
「え?一人でこんなところに住んでいるのですか?」
「はい」
「何のためにですか?」
「わかりません。気づいたときにはこのお家の中に一人でいました。そして、ずっと今まで一人です」
からかっているのだろうか?
いずれにしても邪な欲望が膨らんで、自分自身が制御不能となる前にここを離れたほうがいいな。
「そうですか。そういう事情ならこの家からは出て行ったほうがいいですね」
立ち上がって、右足が痛んでいるのを悟られないように歩いた。
しかし。美少女はそれに気づいたようだ。
「ここでじっとしていてください。捻挫に効く薬草を採ってきますから」
家を出て、戻ってきたときには美少女は草を手にしていた。
それをすりつぶし、ガーゼに付けて、腫れあがっていた足に塗ってくれた。(続く) ハーツ(その6)
足の腫れがひどいことを美少女に指摘されて、結局、この日はこの家に泊まることにした。
リビングを借り、ソファで寝た。
俺だけではなくおそらく殆どの男の性欲の衝動はときとしてコントロールできないと思えるくらい強い。
ただし、法的制裁や社会的制裁への恐れのため暴発することを押さえることができている。
だが、もしたとえば無人島のような場所で、とびっきりの美人と二人きりになって、
しかもその美人がこちらの思惑を拒否したとき、俺は欲望を押さえることができるのか?
ときどきそんなことを考えていた。
でも、想定していたのよりもはるか上を行く美少女とほぼ同じ状況になっても、耐えることができている。
いや、耐えているというのはちょっと違うかな。
疑うことを知らないあんな純粋そうな娘に暴行を働いてはいけないという倫理観が性衝動より優勢となっている。
でも、邪な気持ちが大きくなりすぎないように気を付けないと。
俺自身からあの娘を俺は守ってあげなければならない。
そんな変な使命感にかられた。
天井に映った蝋燭の明りが揺らめいている。一つだったものが分裂したり、また一つになったり。
それを目で追いかけていたら、いつしか眠っていた。(続く) ハーツ(その7)
翌朝、ノックされてからリビングのドアが開いた。
この日は、くまのパーカーとバーバリーチェックのスカートの服装で音符ヘア―という出で立ちだ。
こんな隔絶した場所に一人で暮らしていてもお洒落の習慣は欠かさないようだ。
「森のくまさん」を歌いながら美少女は入ってきたので、思わず俺は笑ってしまった。
「笑われるほど音痴でした?」
「いや、いや、歌はとても上手。そうじゃなくて、その歌詞の内容がおかしくて」
「どういうことですか?」
「『お嬢さん、逃げなさい』と言ったのはくまさんだよね。
でも、お嬢さんは何から逃げるのかといえば、そのお嬢さんを食べようとしているくまさんからだということになる。
つまり、自分自身からそのお嬢さんを守ってあげようとするのが妙だと思って」
美少女は大きな声で笑い出した。笑った顔もとても可愛らしい。
「ああ、なるほど。言われてみれば、変な歌詞ですね。初めて気づきました」(続く) ハーツ(その8)
こんな人を阻むような場所にうら若きこんな美少女が一人で暮らしている状況が不思議でたまらなかった。
「いつからここに住んでいるの?」
「はっきりとは覚えていないんです」
「その前はどこにいたの?」
「それが・・・それ以前は記憶がないんです」
「名前と年齢は分かるの?」
「『2002年9月10日 美玖誕生』と書かれたノートが部屋にあったので、たぶんそれが私の生年月日と名前だと思います」
一点の曇りのない目で見つめている。嘘はついていないと直観した。
「この谷から外の世界へ出てみたいとは思わないの?」
「考えたこともありません。ここがいいんです。ここに居たいんです」
「あなたが塗ってくれた薬のおかげで、足も治ったようだ。
もうすぐ出て行こうと思うけど、足の治療と一晩の宿のお礼に何か俺にできることはないかな?」
「あちらのお部屋には本がいっぱい置いてあって、それでお勉強しているんですが、
数学の参考書で解答がなくなっているものがあって、答えがわからないんです。教えていただけたら幸いです」(続く) ハーツ(その9)
外から見るよりも家の中は広かった。二階には美少女の寝室の他に蔵書を兼ねた広い勉強部屋があった。
そこには大きな本棚が三つあり、かなりの数の本があった。
「この問題なんです」と美少女が指したのは、「a^4+4b ^4を因数分解せよ」という問題だった。
「A ^2−B ^2=(A+B)(A−B)の公式を活用すれば解けるよ」
「ああ、そうか」と美少女の眼は一段と輝きを増して、続けて言った。
「(a^2+2b ^2)^2―(2ab)^2と式変形すればいいんですね!」
「その通り。もう答は言う必要はないね。じゃあ、これは因数分解できる?」と言って、
「a^4+b ^4+c ^4−2 a^2 b ^2−2 b^2 c ^2−2 c^2 a ^2」と書いてから、続けて言った。
「この谷を出て行く前に確認したいことがあるから、ちょっと川を見てくる。すぐ戻ってくるから、それまでに解いてみて」
玄関で靴を履き、家を出ようとしたとき、「できました」と美少女は駆け寄ってきた。
「(a^2−b ^2−c ^2)^2―(2bc)^2と式変形してから、
(a^2−b ^2−c ^2+2bc)(a^2−b ^2−c ^2−2bc)と因数分解すればいいんですね!」
「早いね。さらに因数分解できるけど、後は言う必要もないね」(続く) ハーツ(その10)
川に向かいながら、「あの子たちならいっぱいいますよ」と美少女は言った。
川の辺に来たら「ほら」と指さした。
信じられない光景だった。赤いセキレイが何羽もいる!
セキレイは縄張り意識が強く、普通のセキレイなら同種でも異種でも群れることはないというのに。
「カメラを取ってくる」と断って、まだ家に置いていたリュックの中から一眼レフを取りに戻った。
再び川に向かうとき、美少女はこちらを向いて微笑んでいる。
そのとき、赤いセキレイたちが一斉に警戒の鳴き声を上げた。
上空を見上げると、小型の猛禽類であるチョウゲンボウが舞っている。
さらに信じられない光景が起きた。赤いセキレイたちは美少女の周りに集まった。
猛禽は人を恐れて近寄らないので、理には適っている。しかし、猛禽同様に、小鳥も普通は人を恐れるものだ。
珍しい綺麗な小鳥と美少女とのコラボはまたとないシャッターチャンスだ!とカメラを取り出した。
しかし、落下のときの衝撃で一本しか持ってきていなかったF値5.6焦点距離100mm−400mmのズームレンズが壊れていた。(続く) ハーツ(その11)
チョウゲンボウはいなくなり、赤いセキレイたちは川に戻った。
「へえ〜、あの子たちってそんなに珍しいんですね。そういえば、図鑑にもああいう赤い色のセキレイは載ってなかったですね」
美少女の話を聞きながら、写真を撮らなくてよかったなと思った。
もし世間に報告したら、大きな騒ぎとなるだろう。
そうすると、ここで平穏に暮らしている美少女も赤いセキレイも居場所を追われることになる。
写真を撮るか撮らないか以前に、この谷のことはいっさい口外しないようにしよう。
「もっといろいろとご教示していただけたら嬉しいです」
正直、ここを出たくなくなっていたが、向こうでの生活もある。
それ以上に、思うところがあった。
この谷の清らかな水と澄んだ空気がつくった環境が、この美少女をより美しくより純粋にしているんじゃないのか?
だったら、俺なんかがいると、その調和を乱すことになるのではないのか?
未練を断ち切って、この谷を出る決意を固めた。(続く) ハーツ(その12)
ハーネスを身に付け、ユマールをそれに取り付けたが、ザイルが垂れている高さ3mのところまでフリーで登らなければならない。
垂直となっていて、手のホールドや足のスタンスとなりそうな出っ張りや窪みが多い場所を見定めた。
クライミングのデジマルグレードで5.9といったところか。
5.12dをオンサイトで成功させたことはあるので、落下するようなことはまずあるまい。
ところが、岩が脆く、出っ張りや窪みを掴んだら、すぐに崩れてしまう。
意地になって岩壁の場所を変えてトライしたが、結果は同じだった。
何か登攀の手助けとなるものがないかを尋ねるため、美少女のいる家に引き返した。
玄関のドアをノックしても返事がなかったので、あわてて家に入った。
リビングのテーブルに両肘をついて手で顔を覆って泣いている。
足音に気づき、こちらを見ると、「戻って来てくださったんですね」と声を張り上げた。
泣き腫れていた目を嬉しそうに輝かせて、続けて言った。
「二つの心は一つの心よりもよいことですよね」(続く) ハーツ(その13)
夢のような生活だった。
短く柔らかい緑の草の手触りは、美玖の頬を除いては、これまで触ったどんなものよりなめらかだった。
日を浴びた川は、美玖の眼を除いては、これまで見たどんなものより輝いていた。
川にやって来る赤いセキレイの鳴き声は、美玖の声を除いては、これまで聞いたどんなものより心地よかった。
自分で獲ってきたものを谷の中の岩塩から採取した塩で調理して食べることで、食と大自然との一体感を味わうことができた。
清流で獲れる岩魚や山女魚も、家の裏の奇妙な木の周りに自生する多種多様な山菜や茸も、これまで食べたどんなものよりも美味かった。
夜になると外は真っ暗となり、輝く星々が綺麗だった。
柔らかい緑の草に寝転がると、柔らかい感触が心地よかった。
いろんな話を聞かせてほしいと美玖はよくせがんだ。
ギリシャ神話の星座にまつわる物語や恒星の一生のことや宇宙の始まりやダークマターやダークエネルギーのことなどを話してあげた。(続く) ハーツ(その14)
美玖の学習意欲は高く、それまでも一人で学習参考書も読み漁っていた。
ただ、独習の弊害があり、抜けがあるとそれがネックとなって、そこから先には進めることができていなかった。
「なぜ、この行列の中の角度はθではなく−θなのですか?逆行列というなら−θというのは分かるのですが」
「固定された座標平面上で点Pを角度θだけ回転させるケースとは区別する必要があるよね。
この場合は、点Pは固定されていて、座標平面のほうが角度θだけ回転する。そうすると・・・」
美玖は賢く、こちらの意図をすぐに理解した。
「あ!分かりました!相対的に見れば、点Pが−θだけ回転することになるんですね。
回転した座標平面での点Pの座標をx´、y´とすれば、座標x、yを−θだけ回転した行列で座標x´、y´は表されるというわけですね!」
「その通り」
「私、ダメですね。こうやって教えていただくまで、こんなことを混乱していたなんて」
「そんなことはない。誰でも一度は勘違いするところだよ。実際、専門書でも同じようなミスをしているものもある」(続く) ハーツ(その15)
美玖の質問は多岐にわたった。
「果糖は鎖状構造のときでもアルデヒド基を持っていないのに、なぜ還元反応を起こすのですか?」
「アシロイン縮合というものも還元反応を起こす、鎖状構造のときの果糖のC(=O)CH(OH)の部分がそれに当たる」
「関係代名詞の二重限定というのがよく分からないんですが」
「There is the girl who lives in the ravine and who loses memory.
という場合の二つの関係代名詞節は並列であって二重限定ではない。
二つのwhoの先行詞はともにthe girlとなっている。
それに対し、She is the only person that I know who lives in the ravine.
という場合の二つの関係代名詞節は並列ではなく、二重限定となる。
一つ目のthatの先行詞はthe only person だけど、二つ目のwhoの先行詞はthe only person that I know全体となる。
『自分が知っている』中でと限定したうえで。『谷間に住んでいる』とさらに限定していることになる」
抜けがある箇所を埋めると、あたかも堰きとめられた水が一斉に流れ出すかのように、わずかな期間で広範囲を美玖はマスターした。(続く) ハーツ(その16)
美玖の関心が最も高かったのは物理や宇宙に関することだった。
「重力場にいるだけで非慣性系となるといったようなことが書かれている本がありましたが、なぜ非慣性系となるんですか?」
「高校物理の範囲だと慣性系だけど、等価原理を認めれば非慣性系ということになる。
慣性力と重力とを区別しないというのが等価原理。
重力場では下向きの重力が働き、それを慣性力と見なしていいとすれば、上向きに加速度が生じていることになるので、非慣性系となる」
「重力場では上のほうが時間は進むということとそのこととは関係あるんですか?」
「小さい箱を考えて、床から天井へ光を一定間隔で発射したとする。
箱が一定速度で上昇しているなら、床から天井まで光が到達する時間は変わらないので、天井でも一定間隔で光を受け取ることになる。
ところが、上向きに加速度が生じているなら、時間が経過するほど床と天井の距離は大きくなるので、
光が到達する時間は長くなり、天井での時間間隔も大きくなる。
ここで、重力場の中で静止した箱を考える。
等価原理を認めれば、下向きの重力場は上向きの加速度を持っているということだから、その箱は上向きの加速度を持つことになる。
そうすると、重力場では高いほうが時間が進むということになる」
重力場における時間の進みを数式で導き出すと、美玖は興味深そうに何度もその計算を繰り返した。(続く) ハーツ(その17)
孤立した生活を送っていたためか、他人には考え付かないとても独創的な見方を美玖は披露することがあった。
「人は死んだら、どうなると思いますか?」
「う〜ん、死後の世界とかは信じていないかな。無に帰するだけのような気がする。美玖ちゃんはどう考えているのかな?」
「幼虫から成虫へと蝶がメタモルフォーゼするように、肉体を持っている状態から持たない状態へと人もメタモルフォーゼするんじゃないかと思っています」
「でも、さあ、幼虫から成虫へと蝶が変化するのは我々は知っているよね」
「ええ。でも、蝶自身はどうなんでしょうか?芋虫のころには美しい蝶に変化するというのは思いもしなかったかもしれませんよ」
「なるほど、つまり、芋虫の知覚器官は芋虫の状態にだけに対応していて、成虫となった蝶には対応していない。
それと同じように、生きている人間の知覚器官は生きている状態にだけに対応しているので、死んだ後のことはわからないということか。
でも、死んだ後には肉体は持っていないので、死後の人間は何によって知覚するんだろう?」
「ああ、そうですね、じゃあ、やっぱり、死後の世界なんてありえないんですかね」と言って、美玖は悲しそうな顔をした。(続く) ハーツ(その18)
初夏の美しい満月に照らされた川辺に二人で足を運んだ日のことは忘れられない。
この夜、美玖はメルヘンチックな魚貝柄の浴衣で、金平糖のようなイヤリングを付け、チークを塗り、いつもよりルージュは赤かった。
あれほど話し好きの美玖が朝からあまり喋らなかった。
体調が悪いようでもなかった。
何か嫌われることでもやってしまったのかと思い、美玖の瞳の中を覗き込んだが、いつものように信頼と敬意で溢れていた。
目の前の川には真ん中に大きな岩があり、二つに分かれた水流が再び出会って絡み合っていた。
意を決したように美玖が口を開く。
「いつも近くに居るのだから、あの川の水のように、私たちはもっと心が絡みあってもいいんじゃないでしょうか。
私を愛してください。私を導いてください。私を知ってください」
川底の石が真珠色に輝きだした。
夜は活動しない赤いセキレイたちがやって来て、舞い踊り始めた。
家の屋根を覆っている木に星型の不思議な花が一斉に咲き始めた。
満月に照らされた雲は、深紅と黄金色とが溶け合うような幻想的な色に染められた。
その夜、俺は美玖と愛の契りを結んだ。(続く) ハーツ(その19)
あの日以来、美玖の部屋で一緒に寝るようになった。
美玖を激しく求めて疲れ果てて、俺が眠ってしまった後に、美玖は寝室を抜け出し、勉強部屋で自習をしているようだった。
こんな狭い場所で二人だけだというのに、美玖の姿がちょっとの間でも見えなくなるだけで、堰かれているという気分になった。
だから、目覚めたときに、美玖がいないときには不安だった。
美玖の学習意欲はますます高まってきて、高校の履修内容は終えていた。
「なぜ、そんなに頑張るの?」
「学問というのは人類の叡智ですから。知らずにいるというのが我慢できないんです。
一つ知るたびごとに、一つ理解するたびごとに、世界が拓かれていくような気になるんです」
「でも、そんなに先走ることはないと思う。もっとゆっくりと着実に構えたほうがいいんじゃない?」
目を伏せ、一瞬、黙り込んだ後に、気を取り直したように言った。
「そうですか、やっぱり急いているように見えますか」(続く) ハーツ(その20)
なぜ美玖がそんなに焦っているのかは理解に苦しんだが、美玖の心を満足させてあげたいと思った。
特に宇宙のことは根源的に知りたいという様子だったので、美玖の今の学力で楽に算出でき、それでいて深遠さを感じることができるものを思案した。
特殊相対論をざっと教え終えたばかりで、一般相対論はやっていなかったので、
フリードマン方程式を天下り的に書き、文字が表している物理量と式の意味を説明した。
「インフレーションの話は覚えている?」
「ビッグバンの前に、宇宙が急激に膨んだというものでしたね」
「この式からそれが導ける。インフレーションのときには、ダークエネルギーを表す宇宙項Λが支配的なので、物質項や曲率項は無視できる」
「そうすると、この微分方程式は簡単な変数分離形ですぐに解けますね。
その解から、宇宙の大きさを表すスケール因子aが指数関数で表されるので、宇宙は急激に膨むことになるんですね!」
美玖は満足した様子だったので、先走る気持ちを押さえられたかなと思った。(続く) ハーツ(その21)
翌日、日が昇る前に目が覚めた。ベッドの中に美玖はまたいなかった。
気づかれないようにドアをそっと開けて、勉強部屋を除いてみたら、蝋燭の光で美玖は自習していた。
美玖が家から出たときを見計らって、美玖の自習ノートを見てみた。
フリードマン方程式で、物質項は0で曲率項が−1の場合の算出が書かれていた。
a√(Λ/3)をtanθと置いて、高校レベルの学力ではかなり面倒な計算を自力で解いている。
物質項は0で曲率項が+1の場合は、どうやったらいいか分からず、途方に暮れていたようだ。
その執念めいた試行錯誤の計算が数十ページも続いていた。
一晩中、おそらく眠らずにその解を求めていたのか。
一人でこんなことを延々と続けると体を壊しかねないと案じ、とことんまで付き合ってやろうと決めた。
家に戻ってきた美玖は元気いっぱいで、寝不足の兆候は全くない。
「美玖が知りたいと思うことには何でも答える。だから、勉強は必ず二人でやろう」
「ありがとうございます。嬉しいです。
もっともっと先のことまで今すぐ知りたかったんです」(続く) ハーツ(その22)
三角関数と指数関数とが虚数域では近い関係にあることを示し、
虚数域での三角関数の特性を実数域で使えるようにうまく定義した双曲線関数を教えた。
「sinh、cosh、tanhはハイボリック・サイン、ハイボリック・コサイン、ハイボリック・タンジェントと読む」
その後、基本的な関係式を算出させ、特殊相対論に対応するミンコフスキー空間が双曲線関数を使って表せることをまずは教えた。
「フリードマン方程式で物質項が0で、曲率項が−1の場合にはa√(Λ/3)をtanθと置いてもいいんだけど、
sinhθと置いたほうがはるかに速く算出できる」
目を輝かせて美玖は計算し始める。
「うわ〜、比べ物にならないくらい簡単に計算できますね。
そして、曲率項が+1の場合にはcoshθと置けば、これも簡単に計算できますね。これ、できなかったんですよ」
「前に、等価原理を用いた一定の重力場での時間が進む式を導いたけど、あれはおおざっぱなものだった。
厳密な論理展開をしていくと、二つの系の時間の関係が、物質項が0で曲率項が−1の場合と式の形が同じになる。いずれ教える」
「今すぐ、教えていただけないでしょうか?」
特殊相対的な速度の加法則と時間の延びを考慮して式を立てることから始め、リンドラー変換式を導くことを教え終えたら、朝になっていた。(続く) ハーツ(その23)
俺は眠くて仕方なかったが、美玖は元気いっぱいだった。
「重力場側の時間とスケール因子とが物理的に同じ意味となるので、微分方程式の形も一緒になるんですね」
その二つが同じ式の形になることは数学的には理解していても、直観的な意味は俺には分からなかった。
素直で見栄を張ることなど一切しない美玖なので、その二つが同じであることの物理的な描像を描いているのだろう。
美玖の学力の成長には驚かされるばかりだ。
愛する美玖の価値が高まっていくことには嬉しい反面、気がかりもあった。
このままいけば、いずれは俺の学力を美玖は超えてしまうだろう。
あの程度の因数分解すら美玖ができなかったときには、俺と美玖との学力差が縮まるということは夢にも思わなかった。
男女で格差のある体力や運動能力を除けば、俺が美玖を上回っているのが学力くらいだ。
容姿においても気品においても心の豊かさにおいてもつり合いがとれていない。
学力で追い抜かれたら、美玖の心は俺から離れていくんじゃないか?
そういう不安が心の奥底で渦巻いた。
俺の表情から何かを察知したのか、怪訝そうに美玖は見つめ、俺の手をしっかり握った。
大丈夫ですよ、私は貴方をずっと愛しますよと、その混じりけのない純粋な瞳は語っていた。(続く) ハーツ(その24)
9月の始め、夜明け前の空には冬の星座が見えた。
緑の草は少し冷んやりとして、季節の変わり目を感じさせた。
美玖は南東を指さして言った。
「あの赤い星はオリオン座の一等星のベテルギウスですね。もう寿命が尽きようとして赤色巨星となっているんでしたね。
超新星爆発を起こしたとき、地球は巻き込まれないですか?」
「640 光年も離れているから大丈夫」
「でも、この前、教えていただいたγ線バーストはビームのように放出されるので拡散されず、遠方の距離まで影響するんじゃなかったんですか?」
「ああ、そうだったね。でも、ベテルギウスは超新星爆発してもγ線バーストは起こらないんじゃないかと言われている。
また、γ線バーストは自転軸の方向に放出される。仮に起こったとしても、ベテルギウスの自転軸は地球の方向に向いてないので大丈夫」
「じゃあ、安心ですね。だったら超新星爆発をぜひ見たいものですが、いつ爆発するのですか?」
「ベテルギウスの寿命は一千万年ほどで、その9割を終えているのは間違いないけど、今の天文学ではそれ以上の詳細は判断できない。
百万年後かもしれないし、この後すぐかもしれない」
「この後すぐなら私も見ることはできるのに」
「でも、もしかすれば、すでに爆発しているかもしれない」
「ああ、なるほど、光の速さは有限ですものね。そういう可能性もありますよね」
「うん、地球に光が届くのに640年かかるのだから、今から640年前よりも後に爆発しているなら、その様子を地球では見ることはできない」
「ロマンですよね。ベテルギウスは死に絶えていても、そこから出た光はまだ生き続けているんですね」(続く) ハーツ(その25)
それは、突然に起こった。
朝食を取り終えた後、少し疲れたので、寝ていたいと美玖は言った。
なぜだかかなり衰弱している。このまま傍にいてあげるべきか?谷から出て医者を呼んでくるべきか?
窓から身を乗り出して、外に目をやると、異変を感じた。
川底の石はどす黒く変容し、赤いセキレイたちは一羽も見当たらなくなり、木に咲いていた星型の不思議な花はすべてが枯れていた。
不吉な何かを感じた俺は美玖の耳元でささやいた。
「この谷から外に出て医者を呼んでくる」
振り絞った力で俺の手をつかんで、やっとの思いで美玖は言った。
「行かないでください。私の命が尽きるのは防ぐことはできないと思います」
「あれほど元気だった君がなぜ?俺がやって来てこの谷の調和を乱したから?」
「いいえ違います。私の運命だからです。貴方がいらっしゃったあの日の前にはそのことを悟っていました。
何があってもそれは変えられなかったと思います。
徹夜でお勉強してご心配をかけましたね。でも、命が尽きる前にできるだけ多くのことを知りたいと必死でした。
一人だけだったなら、私は無知のままでした。
いろんなことを私にご教示してくださってありがとうございました」(続く) ハーツ(その26)
美玖は続けた。
「でも、貴方が私に授けてくださった最大の贈り物は愛です。
あの川の流れのように、私の心は愛を求めてさまよい続けていました。貴方を一目見たときに、それが見つかりました。
こういう思いで最後を迎えられるのはせめてもの救いです」
何を言ってあげるべきなのか、何をやってあげるべきなのかが俺は分からなかった。
「肉体が消え去れば何も知覚することもできなくなってしまうんですよね。
私はもうすぐ無になります。私は自分自身を失います。それが怖いんです」
君が死んだら、この世には何の価値もない。俺もその後をすぐ追う。
そう伝えようとしたとき、握りしめた美玖の手に一瞬だけ力が入った。
「でもその後も『私』は実在します。貴方の心の中で再生されます。貴方の心の中に『私』はいます。
一億光年先の星の光は地上に届くのに一億年かかる。
もう星は燃え尽きているかもしれないけど、光は宇宙を駆け巡る。時の中では私は生を終えます。でも、あなたの鼓動が響く限り、貴方という宇宙の中で『私』という光は駆け巡ります。
時の内でも外でも私の心は貴方の心といつも一緒です。
お願いです、私の後を追うというような馬鹿なことは考えないでください。生き続けて、私のことをときには思い出してください」
「約束する」というのが精一杯だった。
その言葉を聞いて、美玖は安らかに目を閉じた。
蝶のように美しい美玖は蝶のように短い一生を終えた。(続く) ハーツ(その27)
三日三晩、一睡もせず何も口にせず遺体の美玖に寄り添った。
やっとの思いで、美玖の亡骸を外に運んで、土に帰した。
木のざわめき、水のせせらぎ、日のゆらめき、土のささやきの中に美玖がいるような気がして、この谷間から出る気にはならなかった。
だが、生身の美玖がいない虚無感は打ち消しようがなかった。
突然、俺は叫んだ。
「全智全能の神よ、この宇宙の支配者よ、証人になってくれ。ここに誓う。美玖以外の女を愛することは金輪際けっしてない。
万一それを破ったときには、どんなに怖ろしい罰でも下してくれ」
まさに青天の霹靂で、雲ひとつない空から雷が落ち、凄まじい閃光が辺りを真っ白にし、鼓膜を破ろうかというくらいの轟音が鳴った。
俺の誓いを神が承諾した徴だと信じた。
雷は家を直撃して、あっという間に火の海に包んだ。
もし美玖との最後の約束がなければ、俺は喜んで、その火の海に飛び込んでいっただろう。
バケツで川の水を汲んで何往復もしたが、炎の勢いを止めることはできなかった。
家も奇妙な木も全焼した。(続く) ハーツ(その28)
湧水が出なくなり、川は涸れ、魚はいなくなった。
奇妙な木の周りに自生していた山菜や茸もなくなった。
生きるという美玖との約束を守るために、この谷を出て行かなければならないようだ。
しかし、なかなか決心がつかなかった。
この谷の中で美玖の思い出を抱きながら死んでいければ、どれだけ仕合せなことか。
そう考えているとき、赤いセキレイが現れ、美玖の化身だと思った俺は後を追った。
赤いセキレイは岩壁の一角に飛んで行ったが、そこに俺のリュックがなぜかある。
家が消失したときに燃えたはずではなかったのか?
そうか、死期を悟った美玖が、俺がこの谷から出るのを促すためここまで運んでくれていたのか。
その場所から岩壁を登った。あれほど脆かった岩が崩れない。
難なく3mの高さを登り、トラバースしてザイルのあるポイントまで移動した。尾根まで辿り着き、下山した。(続く) ハーツ(その29)
大学には無事復学でき、元の生活をするようにはなった。
だが、身の回りのことは何もかもが希薄で、俺の中で反響もせず、感激させてもくれなければ、苦しめられることもない。
直に接している目の前にいる人間さえも流れゆく風景のようにしか感じない。
理論物理の修士課程にそのまま進むという以前の考えを改めた。
この希薄な現実を変え、実感を求めるため早く社会に出ることにしよう。
大学卒業後、世界規模のアメリカのテクノロジー企業の日本本社に入社し、量子コンピュータの開発に取り組んだ。
しなくてもいいほどの仕事をし、引き受けなくてもいいほどの分担を引き受け、費やしなくてもいい時間を注ぎ込んだ。
だが、相変わらずこの世界は希薄のままだった。
高級寿司店や高級ステーキ店に行ってみたが、あの谷間で食べたものと比べると、たいして美味いとも思えなかった。
きらびやかな女たちと接する機会はいくらでもあったが、美玖に比べると色褪せたものにしか見えなかった。(続く) ハーツ(その30)
ある日、会社の同僚から、合コンに誘われた。
断ったが、人数の帳尻が合わないからと深々と頭を下げて頼まれ、出席に同意した。
相手方は女子大生のグループだった。
女性陣が席に着くと、同僚らは色めきだった。そのうちの一人が有名なミスキャンパスらしい。
男どもは気に入ってもらおうとして、必死に取り入っていた。
そのミスキャンにも他の女性たちにも全く心を動かされなかったが、
礼儀だと思い、あぶれた他の女性たちを相手に懇切丁寧に話を合わせた。
ただ、いかんせん退屈で時間の無駄な気がして、早々と退散することにした。
一次会で切り上げるのは俺だけだった。
「もう帰るのか」
「相変わらず付き合いが悪いな」
同僚たちの言葉を尻目に一人で最寄り駅に向かった。
その途中で、後ろから誰かが追いかけてきた。(続く) ハーツ(その31)
振り返ってみたら、先ほどのミスキャンである。
何事なのか?と尋ねたら、彼女は唐突に言った。
「お付き合いしてもらえませんか?」
「あなたとはあまり喋っていなかったから、他の男と勘違いしているんじゃないの?」と戸惑いながら言った。
「いいえ、勘違いではありません」
彼女は持論を熱く展開し始めた。
「私は、私と対面していないときの男の人たちの振る舞いも観察することにしています。
さっきの合コンでもそうでした。
本当に頼りがいのある男の人というのは私にだけに振り向いてくれればいいというわけではありません。
私以外の全員の女の子にも気配りができるかどうかで私は品定めしています。
メインターゲトである私に対しては気持ちを抑えられずガッツくけど、
他の女の子に対しては上の空で接するということでは、余裕がなさすぎます。
往々にしてストーカー気質の傾向があり、一度自分のものにしたと思ったら、豹変して自分の所有物かのように束縛しにかかり、
ときとしては暴力を振るうようになるのもそういうタイプの人たちです。
そういうのとは真逆の人を私は求めていました」(続く) ハーツ(その32)
なるほど、ちょっと思い上がったところもあるが、広く視野を持って、男の価値をその包容力にも求めている。
回りくどい恋の駆け引きは使わず、自分の思いをストレートにぶつけるのも清々しくていい。
この俗世の中の女性としては申し分ない。
しかし、内面に価値を求めるのも、金や容姿を求めるのと同様に打算ではないのか?
結局は、自分にどういう便益をもたらしてくれるのか、どういうリスクがあるのかで値踏みしているだけじゃないのか?
そういう損得勘定を超越した魂の深い部分で美玖は俺を愛してくれた。
美玖とあの谷間のことを思い出すと、目の前の女性は白々しいものにしか見えなかった。
「ありがたい話ですが、思っている人がいるんです、すみません」
「え?」と聞こえるか聞こえないくらいのかすかな声を彼女は上げた。
この私をないがしろにする男がこの世にいるなんて信じられないとその目は驚いていた。(続く) ハーツ、毎日楽しみにしています
美玖ちゃんの死が物語の終わりかと思いきや、これはもうひと悶着ありそうですね
ますます目が話せません
この間『君の名は。』の再放送を見てて思ったんですが、谷底の雰囲気が御神体に似てるように感じます
https://imgur.com/psPNaEA.jpg >>400
どうもお久しぶりです。
『君の名は。』は観ましたが、それを意識しては書いてはいないですね。
書き終えた後には、いつも通り、参照にしたものは挙げるつもりです。 ハーツ(その33)
美玖と生活した記憶の世界にプラグインした状態で現実を生きていた。
ここではなく、コネクトした記憶の中に俺の本体はあると思っていた。
そうしないと無味乾燥な現実に意味を与えることができなかったのだ。
そのありようは一生変わらないと思った。
この日もいつものように白い靄がかかったような現実の中で目が覚めた。
出勤する準簿をしていたら、休日ということに気づいた。
なにもやる気は起きなかったが、とりあえず外出してみることにした。
河川敷を散歩していると。「チッチッチ」という鳴き声が後ろから聞こえた。
振り返ろうとした刹那に赤いセキレイが俺を追い越していった。
全力疾走してなりふり構わずに追いかけたら、ジョギング中の女性とあわや衝突しそうになった。
先に危険に気づいた彼女のほうがあわてて体を翻して、正面衝突は避けられた。(続く) ハーツ(その34)
危険な目に遭わせたことを俺は詫びた。
「いえ、前をよく見ていなかった私も悪かったんです」と彼女は許してくれた。
だが、危険回避のとき、無理に体をひねったため、右足を捻挫したようで、彼女は立ち上がるのもままならなかった。
タクシーを呼ぼうとしたが、車は入れない場所だ。
「近くに私のアパートがあるんです。よかったら、そこまで連れて行ってもらえますか?」
その要望を呑んで、抱きかかえて運んだ。
アパートに到着してから、名前と連絡先を俺は彼女に告げた。
怪我の治療費、休んだことで遺失することになる賃金、精神的や肉体的な苦しみに対する慰謝料などを申告通りに支払うと一方的に約束した。
湿布薬と当面の食料を持ってくるためアパートから離れることにした。
あの谷間からは何も持ち出さないように決めていたが、一つだけ例外があった。
美玖がリュックを崖下に持ち運んだときに、捻挫に効く薬草を中に入れてくれていたのだ。
そのことを思い出し、いったん薬草を取りに自宅に戻った後に、食べ物をコンビニで買った。
彼女のアパートに行き、腫れあがった足に塗ってあげた。(続く) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています