0654名無しって、書けない?(やわらか銀行) (ワッチョイ ca62-fhLu)
2018/11/15(木) 07:14:04.77ID:F+Hb4MyB0これで「セカアイ」が
「恋」曲ではなく、「愛」曲であることを
ある程度説明できたのではないかと思う
つまりMVとは違って
詞の中には、恋=ドキドキ体験は
どこにも描かれていない(と思う)
たしかに、「この胸に溢れる君への想い」は
部分的に恋の表現と読むこともできるが
詞全体の文脈の中では愛の表現だ(と思う)
また、「僕は君を探しに行こう」という部分も
「僕は君に会いに行こう」とは書かれていない
恋というより、愛の表現である(と思う)
両者の何が違うのかというと
会いに行く場合、「僕」が世界の中心だが
探しに行く場合、「君」が中心になるだろう
>>597の疑問に答えよう
なぜ「セカアイ」MVの再生回数は
他のMVよりも圧倒的に少ないのか?
それは、「セカアイ」が「愛」曲のはずなのに
MVは学生の「恋」映像表現だからである
と、考えられる
「あれ?」、「ん?」という違和感
学園ドラマの主題歌でなかったならば
全く違ったMVになっていたであろう
かくして前スレ893で分類したように
「セカアイ」はA-a1「学校」ではなく
C「社会」に属す曲なのだ(と思う)
学校で繰り広げられる恋物語ではなく
世界(=全ての社会)の人々に
愛と勇気を届けに行くのが「セカアイ」だろう
それを裏付ける証拠のひとつとして
(「別カ」)定量分析論文(の図9)では
公的(私的でない)曲という結論である
論文中の語の定義と厳密には異なるが
粗雑に整理すれば
「私的」なのは恋曲、「公的」なのは愛曲
言い換えれば
恋の関係は基本的に他者を排除するが
愛の関係は他者に寛容的ということである
これが「カッコイイ」欅坂像の源泉であろう
もっと踏み込んで言えば
欅坂は未完成のアンパンマンである
以上で「セカアイ」のMVと詞の分析終了
最終目標地点にもう少しで辿り着く(と思う)
苦しいが、急勾配の道を歩き続けよう