『ドクターナーコ』

全身麻酔を打たれ中枢神経にまで作用するような女性に出会うことがある。
些細な動きで大変な量の微睡みを周囲へ振り撒き、何気ない言葉で男を支配してしまう。
チームに加わった女性外科医は、底なしの謎に包まれていた。
「長沢、失敗しません」その一言で命の全責任を担い、宣言通り失敗しない。
人呼んで『ドクターナーコ』、弱冠三十歳にも満たない天才外科医である。

その日、僕は麻酔医としての激務を終え、午後二時を回った頃に昼食へありつくことができた。
疲労の溜まった眼球に、ラーメンのナルトが襲いかかる。
一瞬起こった目眩を堪え、閑散とするテーブルに目を向けた。
長沢菜々香の後ろ姿が確認できた。
「はい、ラーメンセット」
食堂のおばちゃんが、半チャーハンをトレイに乗せた。
「ありがとうございます」
僕はトレイを持ち上げ、菜々香の元へ向かう。
「おつかれ〜」と背後から声をかけ相席しようと思ったが、やめた。
テーブルにトレイが二つあり、どちらもまだ手が付けられていなかった。
どうやら先客がいるようだ。

僕は菜々香の横を通り過ぎ、二つ離れたテーブルへ座った。
菜々香はまだ食べ物に手を付けていない。おいしそうな笑顔で二つの料理を見比べていた。
手術中には見せない顔だ。
「あ、先生。一緒に食べますか」
菜々香がこちらに気づいた。
「遠慮しとくよ、誰かが一緒なんだろ?」
「いいえ、私一人です」
「じゃあ何でカレーとトンカツ定食があるんだ」
「食べるからです」

「お前、オペした後によく食えるな」
僕が半チャーハンを食べ終えるよりも前に、菜々香はトンカツ定食とカレーを平らげていた。
「そのラーメン貰ってもいいですか」
もうここまで来ると、怖い。気の狂いから食欲が暴走しているようにしか見えない。
「長沢くん、君、今日で七連勤だろ。そろそろ休んだほうがいいよ」
「大丈夫ですよ」
ラーメンをすすりながら平気な顔をしている。一体この華奢な体のどこに、別腹が存在しているのだろうか。
菜々香はスープを飲み干すと、立ち上がって言う。
「長沢、失敗しません」

そう、彼女は絶対に失敗しないのだ。
長い白衣は華麗に靡いて遠ざかっていった。

(おわり)