『Nobody knows her』

額は汗ばみ、頬は白く染まっていた。少女は固まった顔を南風にさらし、髪をなびかせていた。
遠い国からやって来たのであろうか、船舶の揺れる水平線をじっと眺めている。海の青さに対を成すように、赤い口紅が浮いている。
微笑みこそ無いが、柔らかい表情を保っている。不自然にも思えるほどの堅みの取れたその表情は、血の気を感じない。
穏やかに吹く南風は、少女の服と髪だけを延々と撫で続けた。

レンガ造りのホテルからは、海が一望できた。開いた窓からは、潮風が吹き込み、波音も聞こえる。
その窓から斜めに向かって砂浜が続き、海岸沿いにはヤシの木が並んでいる。砂浜の端には岩壁がそびえ立ち、打ちつける波は白いしぶきを上げている。
雨の日であれ、曇りの日であれ、起床して一番に飛び込んでくる景色は海だった。

「では、今日もお客様に最高のおもてなしをするよう、心がけましょう」
チーフの言葉で、ボーイの朝は始まる。
レストランに朝食バイキングを並べ、テーブルクロスの上にナイフとフォークを揃える。
机のなかに椅子を収め、BGMの調整が終わった頃には、午前六時半まで少し。
今日も、待ち構えていたように入り口に現れた。上村莉菜が一番乗りのお客だ。
「もう入ってもいいですか」

彼女のチェックインを手伝ったのは、僕だった。
五日前の午後一時、本来ならば一時間早いのだが、チーフに許可を取ってから手続きを済ませたのをよく覚えている。
リゾート地には不似合いのガーリーな衣装に身を包み、貝殻のようなポーチを提げていた。
「すみません、無理言っちゃったみたいで」
「いいえ、もう部屋の準備は出来ておりましたので」

七泊分のキャリーバックはカートで運んでも重さを感じるほどで、一体何が入っているのか気になった。
ただ、彼女のファッションセンスを見れば自然な重さにも感じた。そもそもこの場所に七泊もした人の前例はない。
僕が荷物を部屋へ運び込んでいる間、彼女はずっと窓の外を眺めていた。

「おはようございます、どうぞお席へ」
今朝も彼女はピンク色のポーチを提げている。僕は窓際の席へ案内した。
彼女は席に座るとしばらくの間は動かずにいる。毎日、何かを待っている表情で海を見据え、それからバイキング料理を取りに行く。
そう言えば、彼女が誰かと一緒にいるところを見たことがなかった。

その日の夜、0時半にフロントの電話が鳴った。彼女の部屋からだった。
「こちら、フロントです。どうなさいましたか」
「あの、金庫が開かなくなっちゃって…」
「すぐに向かいます」

機械トラブルかと思われたのだが、単に彼女が番号を忘れただけであった。
フロントに戻り、解除キーを持って再び部屋へ向かった。
「ありがとうございました。すみませんね、夜遅くに…」
彼女はわざわざ頭を下げて謝った。髪とパーカの紐が垂れた。
部屋着も女の子らしいものであり、昼間の世界観と統一されている。
室内にはテレビの音が響いている。

「えー、『私は今“私を知っている人が1人もいないところ”に行きたい』、大丈夫ですか(笑)」
「だいぶやられてますよね。ただここにマイナス付けることもできないので、スルーで」

「この女の子、お客様に似ておいでですね」
「ほんとですね。でも私、この子知らないんですよ」