子供を作る事が一番子供の事を考えていない!98
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人は自分の為に生きている
親が子供を一番に考えてるなんてありえない
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お互いに相手の考え方や価値観を尊重し合うようにしましょう。
子作り否定者のみのスレ進行を希望される方は下記スレへどうぞ。
子作りは大罪82(ワッチョイ)
https://krsw.5ch.net/test/read.cgi/mental/1586708558/
前スレ
子供を作る事が一番子供の事を考えていない!97
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/jinsei/1586861796/ 我々が誕生を喜び 葬式を悲しむのは何故か
我々がその当人でないからだ
マーク・トゥエイン 子を産む事の罪
世間では出産のことを「おめでた」と呼びます。
私たちは普段から、言葉というものを深い意味も知らずに
ただ何気なく使っていることが多いものですが
よくよく考えてみると、誰に対して、何がめでたいのでしょうか?
それはカップルに対しての「おめでとう」にも聞こえます。
子供に対して「生まれてきておめでとう」という解釈もあるでしょう。
ですが、それほど出産というものはめでたいことなのでしょうか?
1・出生は本人の意思ではないこと
2・命を授かるということは、いつかは死を味わうということ
3・生物は根本的にエゴイストであり、出産はその数を増やすこと
1と2の項目を合わせて考えると
「生き死には苦しくても、とにかく生まれてきてくれ」
という親の都合があるのがわかります。
「都合なんて空虚なものじゃない、愛の結晶だ」と言う方もいるでしょう。
しかし、我々が普段口にする「愛」というものは
冷静に見ればただの性愛であったり、所有欲であったりします。
愛とはそもそも一方的で身勝手なものです。
相手が思うように受け止めてくれなければ冷めてしまったり
見返りがこなければ逆上しかねない程度の感情です。
3については、それがわかっていて産むということは
自分の子ぐらい何とかなるだろうという図々しさでしょう。
一般的に生命誕生は素晴らしいことのように言われていますが
創造する側に罪はないと言えるでしょうか?
私はやはり罪があるのではないかなと思います。 見返りを期待する親
何かしら苦痛を伴う行為を行う時、人は必ずそれ相応の見返りを求めます。
ボランティアも決して例外ではなく、他人に施した際の感謝や笑顔などを
心のどこかで求めているはずです。
そうでなければ、わざわざ無償で他人の世話などしません。
感謝の一言どころか、恩を仇で返されても奉仕を続けるのは
献身というより、一種のマゾヒズムでしょう。
それは子育てにも同じことが言えるのではないでしょうか。
あれだけ養育費がかかるものをわざわざ産むのは
それ相当の見返りを期待しているはずです。
そうでなければ、誰も育児というリスクを背負わないでしょう。
「生きていてくれるだけでいい」という親は稀でしょう。
稼いだお金で学校に通わせるのも、タダでご飯を食べさせるのも
すべては見返りの為であって、親孝行とはおそらくそのことでしょう。
なつかないというだけで幼い子供をなぶり殺しにする虐待親は
あまりに極端な例ですが、他の親も殺すか殺さないかの違いだけで
恩を仇で返された時の反応、子に対して頭に血が上った時の心理。
それらはやはり自分の思いどおりにならない苛立ちという
同じ動機に支えられていることは確かと思います。
子供に何を期待するかなんて親の勝手かもしれませんし
他人の私が文句を言う筋合いではありません。
でも、子供は親の道具ではありません。
社会適応や親孝行という、半ば義務である使命を背負わせるのは親です。
自分から甘い蜜を与えておいて、後に子供が反発したときに
「誰がここまで育ててやったと思ってるんだ」というのは理不尽ですね。
己のスケベ根性も忘れて、思い通りにいかない相手を罵倒するというのは
みっともないことですからやめたほうがいいと思いますよ。 奇麗になど生きられない
子供というのは、確かに小さい時は非常に可愛いもので
「汚れなき」とか「天使」と揶揄されるのもわかる気がします。
ですが、いつまでも天使ではいられませんね。
この世の中を生きていくには、ある程度の不条理は割り切る冷酷さと
「殺られるくらいなら殺る」という闘争心がなくてはいけません。
子供がよく「罪なき」と表現されるのは現時点では無力だからであって
成長するにつれてズルいことも覚えますし、力もどんどんついてきます。
自分が負けたくなければ、当然他人を脅かすでしょう。
まさか「自分の子だけは奇麗に生きていくはず」と思って産んだわけでもないでしょう。
だいたい、天使のまま成長されて一番困るのは親ですからね。
だから私は「罪なき子供」とか「罪なき一般市民」なんてものは、はっきり言って存在しないと思ってます。
原罪という観念は人類の作った勝手な罪悪感に過ぎませんが、被害者がいる以上それは”罪”でしょう。
自分の子が競争社会の被害者になると、競争を恨み、不条理を嘆く癖に
逆に自分の子が出世したら、よその子の犠牲も忘れて、親は大いに喜ぶでしょうね。
「私の天使は他人の悪魔、他人の天使は私の悪魔」とでも言っておきましょうか。
親孝行について上記で書きましたが、お寺の家系はともかく(最近は寺も立派な企業ですが)
自分の子に悟りを開いて欲しくてわざわざ産む親などいないでしょう。
この世に子供を産み落とすのは、欲を捨てた後の清々しさを体験させる為ではなく
もしろ子供には「大いに欲を満たして欲しい」と願って産むわけで
それによって間接的に自分の欲求も満たしたいからこそ親になったはずです。
そもそも「自分(と自分の子供)にはその権利がある」と思っているから産むのでしょう。
上記の3で「図々しさ」と書いたのは、そのことなのです。 善人ぶるのは愚か
私は事件や事故、病気などで我が子を失った親に対して
感情的に同情することはあっても、理性的に同情したことはありません。
なぜなら、世の中にはそういった不幸があることを承知の上で産んでいるはずだからです。
だから、可哀想だと「思った」ことはありますが
可哀想だと「理解した」ことは一度もありません。
以前、ある人が「本当に自動車事故を起こしたくない奴は、そもそも車に乗らない」と言っていました。
彼の言葉は確かに極論ですが、ある意味正しすぎる極論です。
本当に子供を不幸な目に遭わせたくない気持ちがあるならば、そもそも産まないはずです。
いくら身内がその子の幸福を望んでいようとも
この世の中は損な役目を負う者が必ず出てくるわけです。
しかしそのことを忘れてしまう。幸福をつかむ為に忘れようとする。
「自分は大丈夫だろう」「世の中そのうち良くなるだろう」
誰もが最初はそう思うのです。
そして、その期待が見事に裏切られ
いつしか自分が損な役目に見舞われた時になって、ようやく思い出すのです。 理由がどうあれ、人がなんと謂へ
悲しみが自分であり、自分が悲しみとなつた時
人は思ひだすだらう、その白けた面の上に
涙と微笑を浮かべながら、聖人たちの古い言葉を
(中原中也「冷酷の歌」)
被害者は被害者で人生を閉じたからこそ、生前の人格や失われた将来が美化されるのであって
もし長く生きていたら、逆に加害者になったかもしれません。
それは事故の加害者という意味だけではなく、広い意味での”競争社会の加害者”にも当てはまります。
「夢を持っていた」と言っても、夢の実現は競争であり、イス取りゲームです。
その子が生き延びてそのイスに座っていたら、誰かはイスから漏れていたでしょう。
不謹慎かもしませんが、死んだ人の夢だけは美化するというのはくだらないと思います。
世の中には不幸とは無縁なように見える人もいるわけですから
「なぜ私の子だけがこんな目に?」という気持ちも良くわかります。
しかし、平安に生きたいも立派な要望であり、欲です。
自分の欲を満たせなかったことを怒っても、本人が思ってるほどの正当性はありません。
でも、そんなことよりも問題なのは、親がそのことを覚悟していようとしていまいと
実際に辛い思いをするのは、被害に遭う子供自身なんだということですね。
「産む事は暴虐への献身である」という詩もありますが
この世界にはどうにもならない不条理があり、また誰の心の中にも
理不尽な欲望が備わっていることを忘れてはいけないと思います。 生まれてくるということ
生物は、誕生する以前はあらゆる可能性を持っていますが
生まれた瞬間にそのほとんどを失います。
遺伝子によってある程度の宿命が決まり、その後の環境や境遇で
徐々にパーソナリティが限定されていきます。
「責任」や「意志」というのは、自我によって生じる観念ですが
その自我の形成には、幼少期の生育環境が大きく影響します。
その生育環境に対する幼児個人の反応の仕方は、もって生まれた性格
そして資質によって大きく左右されます。
成長して自我が芽生える頃には、もうほとんど自分という基盤が出来上っています。
「わたし」とは作られたようなもの。私という運命の結果に過ぎないでしょう。
個人にとって世界とは「自分が思うようにしか存在しない」もので
自分と価値観の違う人間を軽蔑したり、否定することは一種の処世術でもあるので
別に非難はしませんが、それを真理だと思うのは愚かですね。
他人とは、自分がそうなっていたかもしれない、もうひとりの自分の姿ですから。
自由意志とか魂というものを信じて疑わない人の気持ちもよくわかるのですが
我々はそもそも自分の意志でこの世に誕生していません。
無意識だとか本当の自分(霊性)の意志だと言うのなら
なおさら”人間としてのわたし”には制御不能です。
シェークスピアは「この世はひとつの舞台だ」と言いましたが
我々は、ただ与えられた役を「自分で勝ち取った」と思い込みながら
演じている虚しい役者なのでしょうか?
よく「人生そんなもんだ」と愚痴りながらも、子供を持つ親も多いですが
妥協と矛盾の世界だと自分でわかっているのなら
わざわざ我が子を産み落とすこともないと思います。 子供には見せられない素晴らしき行為
以前、ある女性が「子供たちに生命誕生の素晴らしさを見せてあげたい」という意向で
何人目かの子供を自宅出産する様子を追ったドキュメンタリー番組が放送されていました。
予想通り「命の尊さ」や「親子の愛」が繰り返しナレーションされ
目の前で陣痛に苦しむ母親を、好奇心の入り混じったような表情で見つめる子供たちの姿が
大きく映し出されたのを見た後、私はチャンネルを変えました。
全編きちんと見ていないので、個人的な「番組へのご意見・ご感想」は避けますが
こういう番組を見るたびにいつも思うのは、そんなに生命誕生が素晴らしいと言うのなら
その入り口である繁殖行為、性交の現場もきちんと見せてあげるべきではないでしょうか?
出産は見せても性交は見せない理由は一体なんでしょうか?
彼女たちが言う「素晴らしい瞬間」を作る礎となるものなのに
なぜ子供にはそれを見せないのでしょうか?
で、ここまで読んだ時点で呆れ果て、ページを閉じる方もいらっしゃるかもしれませんから
もうちょっと補足してみましょう。
交尾というのは生命を誕生させる行為なわけですから
生命誕生を素晴らしいと思う人たちにとっては、何も恥じるようなことではないでしょう。
でも、生命誕生を素晴らしいと思わない私のような人間だけでなく
生命誕生を素晴らしいと思う人たちでさえもが
「性」というものにどこか後ろめたさを感じているのは何故なのでしょうか? ひとつは、私たちが日頃から性というものを
興味本位や快楽として捉えていることへの後ろめたさでしょう。
各種風俗店の繁盛やアダルトビデオの多様化など、
性は立派な娯楽産業として今日も活躍しています。
強姦というのは昔からありましたから
レイプビデオを規制してもレイプはなくならないと思いますが
そういった性を扱った娯楽が、古代では神聖であった性というものを
卑小なものにし、さらに歪めてきたことは確かでしょう。
その他にも性というものは”恥”という側面もあり
政治家やタレントの下半身スキャンダルへの反応もそうですが
私たちは自意識の中で性を「マヌケなもの」「かっこ悪いもの」と捉えています。
海外では無修正のポルノを子供に突きつけ
「ここからお前は生まれてきたんだよ」という国もあるそうですが
その親でさえ、快楽に悶える自分たちの姿は子供に見られたくないでしょう。
「子供には見せられないような行為で生まれた子供」というのもなかなかの皮肉ですが
私たち人間が”性悪説”を唱えられ、いつまでたっても愚かなことばかりしているのは
もしかしたら「人生の出発点が自慢するような行為じゃないから」かも知れませんが
まあ、それは私個人の論理の飛躍ですからあまり気になさらずに。 このスレからは、なるべくコピペ荒らしには絡まない方向性で行きたいのですが
よろしいでしょうか? もちろん、相手が真剣に対話を試みるようなスタンスに昇華するのなら話は別ですが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています