日常生活でも、観察地点に立っている事が増えて、無自覚に同一化する時間が減り、殆どその状態で居られるようになると、良いのでしょうか?
そのようになれば、不動心にも近づいて、自我を見えるチャンスも増えるのではと思っていますが、合っていますでしょうか?

この観察地点にいること、気付いていることというのは、観念との同一化と何が違っているのでしょうか?
自覚的、自分に気付いている、感じだとも思います。
また、その方が印象により残ったり、ちゃんと生きている感じがします。
観念の中で何時間も過ごす事は本当に夢を見ているようなものだと思います。