>>231 わしの言う意識とは唯識では第九識の阿摩羅識とも呼ぶものじゃ。
 阿頼耶識さえも滅した後に感得できるものじゃ。
 実際にはそれだけがあるものであるがのう。
 個我の認識から離れられない者には、あっても感じられないだけなのじゃ。

 記憶への依存があるからなのじゃ。
 それから観念があり、個我の観念も起こるのじゃ。
 それらは意識も忘れ感じられない故に、他人が意識に到達したとしても影響を受けないのじゃ。
 
>>232 それで助かる者も居る故に無駄ではないのじゃ。
 善事が習慣になれば慈悲も強くなっていくのじゃ。
 行いによって心も変るのであるからのう。
 
>>233 強く志せば可能じゃろう。
 修行や善事も崇高であるが、それを実現するための世間の仕事も崇高と言えるのじゃ。
 その目的のための基盤であるからのう。
 禅では作務という掃除や炊事洗濯等の雑事もまた重要な修行とされているのじゃ。
 日常の仕事をも心を磨く修行とする事も出来るのじゃ。
 
 シュリハンドクもお釈迦様に掃除の修行を勧められて、一心に努めて悟りを得られたのじゃ。
 一つの仕事に集中して、他のことを忘れるのもサマーディへの入り口になるのじゃ。
 それが作務というものなのじゃ。
 そのように心がけて仕事も励むと善いのじゃ。