この教会の牧師は田舎でもインターネットで礼拝動画を流したり、Twitterなどを使い、街頭で抽象的な
ゴスペルソングを歌えばチラシを配らなくても神の愛は伝えられると思っている。この教会は会堂すらない
のにわざわざインターネットでキリスト教について検索してこの教会を探し当てる物好きかわんさといると
本気で思っている。信じないと地獄に行くという教えの宗教なのに楽観的すぎてついていけない。
牧師がいう通りに聖書を読み、祈り、感謝する習慣を実践してきたが、生活面で特に大きな変化はない
ように思える。この教会の前任の牧師は会社が倒産して聖書が買えないので無料でくれませんかと言った
新来者に「二度と来なくていいです」と言って帰らせた。バカなことをしたものだね。教会に来る力が
ない精神障害者の兄のために家か病院に来て祈ってほしいと頼んだら、「示されていない」とか「病院は
悪霊の巣窟だから行きません」と返答された。こういう一匹の羊さえも大事にしようという精神が欠けて
いて自分の言いなりになる信者だけで教会を作りたいと思ってる牧師を何人か見た。母も「精神病者がクリ
スチャンの家庭に生まれるなんてきっと悪いことをした報いだろう」と昔言っていた教会で言われたことがある。
現実にはキリスト教を信じていようがいまいが、幸福な人は幸福な人な人生を送り、不幸な人は不幸な
人生を送るのではないだろうか?放蕩三昧な生活を続けた悪人でも信じれば救われ、善人はいくら善行を積もうが
救われないにしても、律法的精神を全く無価値と言い切ってしまうのはどうか?今自分が通っている教会がそうだが、
プロテスタントの教会の説教にモラルの欠片すら感じられないのは不思議だ。「嫉妬(他人の幸福を羨む)はいけません」
という説教すら聞いたことがない。牧師も信者たちも(私と同じように)嫉妬する人間だから都合の悪い説教をしないの
ではないかと思う。キリスト教も布教し初めは己の罪深さを実感する人の共感を得たと思う。しかし、神の国はすぐには
到来せず、彼らの多くは結婚して家庭を築いた。二世代目、三世代目の子どもたちは清い生活を心がけようとしたはずで、
罪の意識が薄まっていったのではないか?そこで予定説では不十分で行いも大事にするカトリックの教えが生まれたのだろうか。
そんな気さえする。