日本の熱心なクリスチャンは、教会主体の恣意的な教えを丸呑み。そして観念ばかりで凝り固まっていて、ナイーブなお花畑ばかりです。
私は長年、カトリックが国教の欧州に住んでましたが、信仰心以前に文化でした。
信仰心は、むしろ薄い人が圧倒的多数です。宗教心は、その国の風土や文化から自然と形成生成される側面が強く、それが本来自然で、本来の意味で「宗教的」なのです。

宗教的信仰心とは、何も特定の宗教に帰依しているから内面化されるものではなく、文化・風土・生活習慣から自然にそこに在るものだと思います。
イタリア人の宗教心とは、移民を受け入れ大らかに人生を楽しむ。それがカトリックの現在の形を作ったのです。
文化が先にあり、それを追認する形でカトリックの方向性が変遷するのです。

それに比べて、日本のクリスチャンは変なのが多いです。
私は哲学・宗教含めた人文系諸科学が好きで今まで来ていますが、
つい最近知り合ったカトリック教徒(幼児洗礼を受けるも、現在50代で、過去20年教会には行っていないという自己流信徒)も精神的奇形でした。

みんな共通するのは、人の心の機微に疎い。現実にそもそも、あまり関心が無い。それなのに自称博愛であると、臆面なく公言する。
何でもかんでも全ては神の導きであると断言する。相手が信者でなくとも、神の導きを頻繁に口にする。どうしようもない連中です。

神なるものは、そもそも論理では語れないと思います。不完全である人間が完全である神を語る矛盾に気づけない決定的な欺瞞は、脳に悪影響を及ぼし続けるのでしょうかね。