>>476

> 隻腕の御人が鳴らす拍手とは実在しないもので構成されていますね。

ただ分かっていることは形では見えないけれど拍手を鳴らす意思があり、その意思が伝わっているということが公案にある。
耳から音は聞こえないけれど意思が伝わっているなら音が聞こえなくとも脳で処理され聴こえてくます。
実在がなくとも。
真実は形なくとも私の頭の中で真実足り得る。
私の認知領域の外側でも、勿論そうなのでしょう。
この公案は空虚、有無の分別と正しい情報の抽出ということで宜しいのでしょうか。 』


公案と言うもの、
これは中国のある時代
時の王が禅を弾圧したことがきっかけです。
寺は焼かれ、禅僧は斬首され、仏教聖典は焼かれました。
それで、禅僧は命からがら、中国全土の奥地へ奥地へと逃れました。
そこで追跡の目を逃れて農耕しながら、その土地の民謡、里謡、を用いて、真理(さとり)をしからでしへとつたえていました。
ですから、村人がそれを聞きつけたとしても、まったくわからないためです。
問答(もんどう)と言う形式でした。
師が問い、弟子が答える。弟子が問い、師が答える、と言う形式です。
これをまず、頭においてください。
片手の人がたたく拍手の音を聞いてこい。
時に、っ片手の人が二人、手を打てば、片手の人がたたく拍手の音は、聞こえるぞ、とハウツーもののように走る人がいますが、そういう頓智教室まがいのものではありません。
一般に物事の極意は、相手の立場に立って考えれば、答えは出てくる、と言う人生訓、がありますね、
相手そのものになってしまうのが禅の言う真理(さとり)です。
かならず聞く瞬間がありますから、これを体験してください。