最近はインターネットによる情報発信もふえたが、普通の市民にとって
ビラ配りは身近な表現手段として大きな意味を持つ。息子の交通事故の
目撃者を探すビラ、NPOや地域活動の案内ビラ。それらも、目くじらを
たてれば、自由に配ることはむずかしくなるだろう。
 イラク派兵反対などを訴えるビラについては、一審判決が「政治的表
現活動の一態様で、民主主義社会の根幹を成す」と、高い価値を認め
た。ビラ配りによって一部の住民が不快感を感じるにしても、社会的な表
現手段を認め合うことの大切さは否定できない。二審判決では、こうした
考慮が感じられない。
 立川の事件後、ビラ配りでの逮捕が相次いだ。神奈川県横須賀市や
愛知県小牧市では、市民団体が防衛庁官舎にビラを配るのをやめた。
市民の萎縮(いしゅく)が広がっている。
 一方で、そうした流れに抗するようにビラ配りの自由を求める市民集会
や、ビラ配りでの勾留請求を裁判所が却下する例も相次いでいる。
 今回の有罪判決が表現の自由を閉ざす方向に働かないか、心配だ。
 被告側は上告した。市民の表現の自由に十分に配慮した判断を示す
ことを最高裁に期待したい。