普通親死別で天涯孤独(兄弟無) 6
普通の親元で育ち、親が亡くなり兄弟などの身寄りもない一人暮らしの方が対象です。
親・兄弟・子供以外の親戚(おじ/おば、いとこ等)はいても構いません。
家族はいるけど友達や恋人がなく孤独…という人は「天涯孤独」に該当しません。
ご注意ください。
また、毒親の元で育ち親と縁を切ったという人や、施設で育ち親兄弟の生死を知らない様な方は下記のスレへどうぞ
【親無】天涯孤独で実家がない人Part22【兄弟無】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/homealone/1647419771/
また、次のようなスレもあります。
天涯孤独で友人皆無の人が人生を模索するスレ Part.2
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/homealone/1543933765/
特に、話題の制限はありませんが、sage進行でお願いします。
また、荒らしや煽りレスはスルーしてください。
次スレは>>970が宣言してから立てて下さい
前スレ
普通親死別で天涯孤独(兄弟無) 5
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/homealone/1567600312/ >>1
新スレ乙です
前スレ最後はメンヘラでマジうざかった。天孤スレだからある程度は仕方ないとはいえ短期間で何回も似たようなこと書かれたら見ている方も参る。自分の個人SNSでやってくれ 【永久保存版】55歳までにマジで知っておきたい10選!!!『50代でしなければならない55のこと』究極のまとめ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gEA5tN04rl4 父の臨終に立ち会った際、周囲の大人たちに促されながら「さよなら」の一言を言えなかった経験が、中学生・高校生時代「人と挨拶するのが苦手」な性格に影響したと自己分析している。
父という大切な存在にもできなかった挨拶を他人にするわけにはいかないと思っていたのだ。
その因果関係に気づいたのは40歳を過ぎてからの通勤途中の地下鉄のホーム上であり、その後、地下鉄の中で涙しながら「そのとき初めて自分の中で父が死んだ」と自著で告白している あなたがもし死んだとします。
死んでしまった後の世界はどうなるのか?
と考えてみるとわかりやすいかもしれません。
世界が自分の表象であるとするならば、自分が死んでしまった後は、表象である世界はなくなることになります。
普通に考えると違和感がありますよね。
しかし、こう考えてみてはどうでしょう。
私たちは自分を取り巻く【モノ自体】を直観して対象を生成している。
そして、その生成している根拠は自分自身の認識方法にある。
であれば、自分が認識している世界と、他者が認識している世界が同じであるかどうか?については判断することができません。
これは、クオリアの問題と近いですね。
極端に言えば、『私』が認識している世界は、私の認識においては他の誰でもない私だけの世界だと言えるのです。
ですから、仮にその根拠である私が死んでしまったら、当然それまで続いてきた認識はなくなり、
それと同時に『私が認識していた世界』は消えてなくなりますよね。
これを私の表象が消えた。といっても大きな違和感はないと思います。
このようにして、ショーペンハウアーはこの世界の【一方の側面】は表象であると考えたのです。
ここまではドイツ観念論と近い考え方です。
ちなみに彼は博士論文で『根拠の原理の4つの根について』という人間固有の認識方法についての研究を発表をしています。
このとき、若干25歳です。ガチの天才です。
そして、彼はここからさらに一歩踏み込んだ考え方をします。
私が死んでしまったとして、私が表象していた世界が消えてなくなる。のは分かったと。
では、本当に自分が死ぬと世界そのものが無になってしまうのか?
ここまでの話でもこれは考えられないわけですね。
そもそも表象を生み出していた大元のものがあったはずです。
そうです。いわゆるモノ自体です。
私たちはモノ自体を直感することで認識によって対象(表象)を生み出していたはずです。
であるならば、認識の後にある表象が消えたところで、その手前にあったモノ自体は消えないと考えるのが普通です。
カントはモノ自体を理解することはできないといいましたが、ショーペンハウアーはこれをなんとか理解しようとしました。
でも、モノ自体を認識することはできないのは間違いないので直接観測して何かを判断することはできません。
そこで彼は、表象の方に着目しました。
モノ自体が認識できないとしても、その現れである表象を観察しまくれば何かの共通点などが見つかるのではないか?
そこから逆算してモノ自体の本質に近づくことができるのではないか?
そのように考えたんですね。
そして、モノ自体は『意志』である。という結論にたどり着きます。 臨死体験をした人々
その結果、私は「寿命が来れば肉体は朽ち果てるが、霊魂は生き続ける。その意味で、人は死なない」という考えに至りました。
つまり、人間というのは肉体とエネルギー体、いわゆる「霊魂」に分かれているとしか思えなくなったのです。
このことをふまえて考えれば、不可思議な遺体も理解ができます。
本来ならとうに亡くなっていてもおかしくないような遺体と対面した時、私は「もうこの人は、肉体の中にいなかったのだ」と、理屈抜きに直感で感じることがありました。
それはつまり、死を目前にして霊魂が肉体から離れつつあったということではないでしょうか。
人が住まなくなった家はすぐに傷むと言います。
それと同様に、人の肉体は魂を宿すための「器」であり「入れ物」だから、魂が抜けかけた体はどんどんボロボロになってしまうのだと理解したのです。 一体、人の生死とは何なのでしょうか。
私はこれまで入院中の患者から臨死体験(本人は臨死体験と認識していない場合もある)を告白されたことが何度かあります。
また、臨死体験をした人の話を詳しく聞いたこともあります。
それを聞いた時、まさに人には霊魂が存在するという私の考えの裏付けになるものだと確信しました。
50代男性のAさんは、今から28年前、妹を乗せた車で事故を起こし、その直後に臨死体験をしました。
ふと気がつくとAさんは妹と2人、大破した自分の車を空中から見下ろしていたといいます。
すると隣にいた妹が突然、「お兄ちゃんは戻りなよ」と言い、その言葉を聞いた瞬間、Aさんは車の運転席に横たわったままの状態で目が覚めたそうです。
「戻りなよ」と言った妹は即死状態でした。
現場検証した警察官からAさんが聞いた現場状況は、臨死体験中に見た光景そのままだったそうです。 また、私は知人の医師から興味深い話を聞いたことがあります。
彼は担当する患者から夢で別れを告げられることがあるというのです。それも、一度や二度ではなく、数年の間に何度もそうした夢を見たという。
こうした夢は正夢だったということが多く、その場合、患者が彼に別れを告げた時間と、病院で息を引き取った時間がほぼ一致していたそうです。
別に彼に限ったことではなく、担当していた患者が夢枕に立ってお別れを言われたという経験をした医療関係者は、他にも何人もいます。
これは一般的に「予知夢」と呼ばれるものですが、私はこうした現象は、霊魂が生きている人の意識と繋がることができる、という事実を示していると思います。
つまり、人は亡くなると肉体という枷が外れ、霊魂は自由になり、他者の意識にも共鳴できるようになるのではないでしょうか。 死の間際、人は何を見るのか
このような臨死体験については、
「単なる脳内現象に過ぎない」と否定する向きもあるようですが、実は臨死体験の中には「臨死共有体験」というものが幾つも報告されています。
ある方が亡くなりかけていて、ご家族が臨終を看取ろうと周りに集まっている。その時、患者が見ている「あの世からのお迎えの光景」を家族の人たちも同時に見てしまうというものです。
これは、西洋では既に認知されている現象です。
科学的検証こそできていませんが、患者本人ではない第三者までもが同じ体験をするのですから、「脳内現象」というよりは、意識(霊魂)の同調を起こしていると考えるのが自然です。
人間には霊魂がある、と言うと理解できない人がいることは百も承知です。
しかし、これは過去に多くの患者を看取ってきた私の偽らざる実感なのです。
また、霊感が強い人は、死ぬ直前の人間の体から何かが抜け出していく、言い換えれば「見えない体」が肉体から出ていくのが分かるといいます。
患者の臨終に何度も立ち会った私も、それは分かるような気がします。
言葉ではなかなか説明しにくいのですが、いわば肉体から何かが「外れかけている」感覚があるのです。
早い方だと、亡くなる3日ぐらい前から少しずつ外れていき、遅い患者さんでも臨終の直前に外れるそうです。私はそれを、いわゆるあの世からの「お迎え」が来たのだと捉えています。 また、こうした「お迎え現象」の一つに、患者の顔の変化があります。
死の数日前になると多くの末期患者の顔が、なぜかほころぶことがあります。
2~3日前から亡くなる直前の間、患者は周囲のことにすっかり無関心になり、いよいよ最期の時を迎える瞬間、まるで別の世界にいるような感じで、顔がほころぶのです。
よく観察すると、その表情は「えっ」と何かに軽く驚いているようにも見受けられます。
残念ながら患者の全員が亡くなってしまうので、彼らがなぜ顔をほころばせ、何に対して驚いたのかは確認できません。
でも、私にはあの世から来た「お迎え」に患者たちが反応しているように思えてならないのです。
私の考えをバカバカしいと全否定する人もいるでしょう。しかし、現在、我々人間が解明できている「世界」はごく一部でしかありません。
この世界には我々の理解を超えた現象はいくらでもある。
言ってみれば、人間は巨大なゾウの体の上を這い回っているアリに過ぎません。
アリがいくらゾウの体を探検したり、研究をしたところで、結局、それはミクロな発見でしかありません。マクロなゾウの全体像は、アリの能力では決してつかみきれない。それと同じことなんです。
では、「死」によって肉体から解き放たれた霊魂はどこへ行くのでしょうか。
私は、霊魂が向かう先は我々とは別の次元の意識世界、いわゆる「あの世」であると考えています。 死後の世界として、古来から天国や地獄などの概念がありますが、
私が考えるところ、「あの世」は決して悪いところではなさそうです。
なぜなら、臨死体験をして死後の世界を垣間見てきた人は、その後死を恐れなくなるようなのです。
臨死状態に陥った人は、その間、安らぎや解放感を覚えたり、強烈な光を感じたりするようですが、いずれも不快な現象ではありません。
そのため、「死は、ただただ恐ろしいものではないのかも」という安心感が芽生えるのです。
しかも、「あの世」に行った霊魂は「現世」と完全に断絶してしまうわけでもありません。
これは私事になりますが、私はかつて亡くなった母の霊と会話する貴重な体験をしています。
私の母は'07年、独居先のアパートで亡くなったのですが、その2年後、強い霊能力を持つ知人女性のBさんから「お母様があなたと話したがっている」という連絡をもらい、迷った末にBさんを霊媒として、母と交信を試みたのです。
結果からいうと、母との交信は圧倒的な体験でした。
様々な会話を交わしながら、私は確かに目の前に母がいるのだと感じざるを得ませんでした。
以来、私はあの世は決して遠い場所ではないのだと感じるようになりました。 魂は永遠に生き続ける
では「現世」と「死後の世界」はどのような関係にあるのでしょうか。
私なりの考えでいうと、我々の生きている世界はいわば競技場のようなものです。
私たちはこの競技場の中で、人生という苦しい競技に参加し、お互い競い合っているわけです。
その中で、「あの世」はいわば競技場の観客席です。
観客席と競技場の間にはマジックミラーがあって、こちらから向こうは見えないが、向こうから私たちの様子を見ることはできる。
やがて競技が終わると、つまり肉体的に死ぬと、私たちは霊魂となって観客席へと移るのです。
そして、もう少し競技をしたいと思う人は、競技場の中に戻るように、再びこの世に生まれ変わることができるのだと考えています。
そこで、「人には霊魂がある」という考え方を受け入れたらどうでしょう。
「人は必ず死ぬのは確かだけれど、人間にとって死は終わりではなく、魂は永遠に生き続ける」……。
この考え方は、現代人にとって大きな救いとなるのではないでしょうか。
また、「魂は死なない」というイメージがインプットされれば、この世では自分は理不尽な人生を送っていたけれど、悠久の生の中でみれば、そうした理不尽さという意識を解消することもできるだろう、という視点に立つことができます。
そうすれば、死を無意味に恐れることもなくなることでしょう。
繰り返しますが、私は長いこと救急医療の現場にいて、様々な死を目の当たりにし、嘆き悲しむご遺族の姿を見てきました。
しかし、死後も霊魂は消滅しないという考え方に立てば、亡くなった人はなんらかの自分の役割を終え、あの世で幸せに暮らしており、中には次の転生に備えている人もいることになる。
この考え方に立ったほうが、遺族を含め、多くの人がより幸せになるのではないでしょうか。
日本人は古来より、霊的感覚に鋭敏な民族と言われてきました。
このような時代だからこそ、私たちは魂の大切さについて理解を深めるべきだと思います。
そうなってこそ、我々は本当の意味で、心の豊かさを掴むことができるのではないでしょうか。 【ショーペンハウアーA】西洋哲学解説【意志と表象としての世界】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=lQHMKjocdqs ショーペンハウアーは著書『意志と表象としての世界』にて
世界は人間の意志と表象であると言いました
ちなみに本著が出版されたのは彼が25歳のときです。
ガチの天才です。
表象である。の方に関しては前回の動画で解説させていただきました。
彼は世界の表象を徹底的に観察することによって、
その裏で蠢く【モノ自体】の本質を探ろうとしました。
そして、世界のあらゆる表象は絶え間ない努力を続けていることに気づきます。
しかも、その努力の目的は【生きること】に終始していると。
このことから、ショーペンハウアーは
『モノ自体とは【生への盲目的な意志】ではないか』
と考えるのです。 この意志があらゆる生命現象と物理現象の背後で働いて
物質においてはそれが客体化されていると言ったのです。
例えば、性器はそのまま生を繋ぐための意志の客体化ですし、心臓は生きるために血液を循環させるという意志の客体化であると考えられます。
つまり、カントがいう【モノ自体】とは【意志】のことであり、その意志が表象として現れたものを我々は世界として認識している。
そのように主張したわけです。
さらに、その意志が表象として私たちの前に姿を表す際には段階がある。とも言いました。
ショーペンハウアーはこの段階を【イデア】として表現しましたが、これはプラトンの主張するイデアとは少し違った意味なので
混同しないようにしましょう。 まず、自然法則などは【低位のイデア】と表現されます。
例えば、重力などが意志していることはわかりやすく『落下』ですよね。
『下に落ちたい!!』という意志がありありと感じられます。
このように、低位のイデアほどその意志が剥き出しになっています。
同時に重力に種類や個性はありません。
「特にこの重力は最高だね!」みたいなものは存在しないのです。
植物はどうでしょうか。
ショーペンハウアーは自然法則よりは高位のイデアであると考えます。
植物が存在するためには低位のイデアである自然法則が複雑に絡み合う必要があります。
そのため、植物は自然法則よりも意志を感じるのが難しいと言えますね。
また、自然法則ではあり得なかった【個性】が植物には現れます。
さらに高位のイデアとして動物があります。
動物は植物よりもさらに様々な低位のイデアが絡み合っていて
その分、意志の滲み出し方もわかりづらくなっています。
同時に、植物には存在しなかった【性格】が現れます。 そして、最上位のイデアが人間です。
人間は様々な低位のイデアを含み込んでおり、
同時に【理性】というものが現れます。
この理性は他の存在とは違い『観念を想像する』力を持っています。
そのため、過去や未来、またはここではないどこか、他者などを想像することができます。
それによって、自己犠牲など、他の存在では考えられない『本能に背いた行動』をすることがあります。
それだけに『生への盲目的な意志』が見えづらいのです。
植物が性器(おしべとか)を剥き出しにしている一方、
人間がそうでないのは理性があるからですよね。
そして、それぞれの意思は無根拠に闘争を繰り返します。
長い闘争の中では、低位のイデアが高位のイデアに勝つことがあります。
これが、死です。 高位のイデアである人間が、低位のイデアである自然法則や生物などに負け
最後には低位のイデアである物質に還っていくのです。
このように個体レベルでは高位のイデアと低位のイデアの逆転現象が起こります。
しかし、全体で見れば、常に高位のイデアはより高みに登ろうと努力を続け
十分に長い時間をかければ、さらに高位のイデアになっていくと考えられます。
これは、進化論にも当てはまる考え方でしょうし、
ヘーゲルの絶対精神の概念にも一致するような哲学ですよね。
ショーペンハウアーはこのように、この世界は我々が認識している表象と
その裏で蠢いている生への盲目的な意志によって成り立っていると考えました。
そして、この前提から彼は『生き方』について言及します。
一言で表すと『生きるのは苦痛だ』と。
そして、その苦痛から脱却するためには
『生への盲目的な意志』を否定しなければならない。と。
この思想が彼がペシミスト(悲観主義)と呼ばれる所以です。 ショーペンハウアーは、世界とは意志と表象であると考えました。
我々が認識している表象の裏では、生への盲目的な意志が蠢いており
それが客体化されることで様々な表象を認識しているのだと。
そして、その意志の性質は【なんの根拠も目的もなく、無際限なもの】であると。
その意志が複雑に絡み合った形で客体化されている人間は、まさに生への盲目的な意志に満たされていると考えたんですね。
そのことから『人生は苦痛である』という結論が導き出されるのですが、これは冷静に考えると誰でも思い当たる節がある結論かもしれません。
人間には根源的に生に対する盲目的な意志があるとすると、努力によってそれを達成しようと行動します。
もしその意欲が満たされなければ、それは苦痛となって表れます。 また、仮にその意欲を充分に満たしたならば、それ以上に意欲することが見つからなくなり、今度は激しい退屈に苛まれるようになるのです。
そして、生きる意志を持っている人間にとって
その意志に対してやることがないという退屈は明らかに苦痛に感じるものなのです。
つまり人間は、生きたいという意志を満たせない苦痛と、それを満たした退屈による苦痛を
振り子のように揺れ動く存在なのです。
満たされなくても苦痛。満たされても苦痛。
形は違えど、そんな経験をしたことがある方は多いと思います。
このことからショーペンハウアーは
『人生の一切は苦痛なのである』 と考えたのです。 仏教に少しでも触れたことがある方ならば、
この思想が仏教における『一切皆苦』と非常に近い考えであることに気づくと思います。
彼は、この前提のもと
「じゃあどのように生きることでその苦痛から開放されるのか?」
についても試行錯誤します。
まず、音楽や芸術はどうでしょうか?
ショーペンハウアーは音楽や芸術にはイデアが宿ると考えていました。
プラトンは芸術はイデアを曲解して広める存在だとして否定的だったのですが
ショーペンハウアーはそれなりに肯定的だったことが見て取れます。
芸術はイデアを直観できるものだから、それに触れている間は確かに苦痛から逃れられるかもしれない。
しかし、それは一時的なものであり、根本の解決にはつながらない。 では、他者への共感はどうでしょうか?
他者も当然ながら人間ですから、生への意志による根源的な悩みを抱えています。
他者の内部に自分と同じ悩みを見出して共有することで、それは愛につながると考えられます。
これ自体は非常に重要な考え方だと思います。
今日からでも実践できる行動ですね。
しかしながらだからといって私の今の苦痛を根本的に消し去ってくれるものではありません。 このように様々な試行錯誤をした結果、ショーペンハウアーは『禁欲』にこそ解決の糸口があると考えるのです。
ここでいう禁欲とは、性的な行動を慎むことや節制をすることとは少し意味合いが違います。
禁じるべき欲は『生への盲目的な意志』が持つ欲求なのです。
先ほども述べた通り、人間は生への盲目的な意志によって、生きることに対して逃れようのない欲求を持っています。
そしてその欲求が満たされなかったり、満たされて退屈が訪れることで振り子運動が止まらないかのように、常に苦痛を感じる存在なのです。
であれば、その振り子運動が止まれば良い。
つまり、生への欲求を捨て去ってしまえば良い。
このような意味での『禁欲』です。 例えば、いろいろな宗教で『断食』というものが取り入れられています。
これは、単に苦しい思いをしているわけではなくて
『生きるために食べる』という当たり前のことを一瞬でも捨てることで生への執着から逃れ、心の平静を得ようとする行動に他なりません。
苦行なども、本来はそのような目的がありました。
ショーペンハウアーはそのプロセスを西洋哲学的アプローチで達成しようとします。
つまり、『意志が欲望として盲目的に自分に作用している』と【哲学的に理解すること】によって、
意志と、それと同時にその表象も消え去り、当然世界への執着もなくなり苦痛から完全に脱却することができる。と考えたのです。
アプローチは若干違いますが、この考え方は仏教でいうところの『諦念』と非常に近い考え方です。 また、般若心境などに見られる『色即是空、空即是色』の考えとは
「この世のあらゆるモノや現象は、実体がない」
「実体がないことが、この世のあらゆるモノや現象を形成している」
となり、まさにショーペンハウアーの思想と一致を見ることができるのです。
西洋哲学と東洋思想は、真逆と言って良いほどのプロセスを経てお互いに発展してきました。
(東洋思想の方を発展と言って良いのかは微妙ですが)
しかし、その積み重ねの一点で、こうして明確な交わりが確認できることは
ここまでこのチャンネルを追っていただいた方なら、それなりの感動を覚えるのではないでしょうか。
逆に言えば、その思想に紀元前に至った釈迦がヤバイとも言えるのですけど。
とにかく、このようなショーペンハウアーの思想は【ペシミズム(厭世主義)】と呼ばれ、
後に現れるニーチェや実存主義の哲学者に多大な影響を与えます。
特にニーチェはショーペンハウアーが否定した『生きる意志』を肯定することでその哲学を発展させました。 >>1
スレ立て乙です
>>3
あれは荒らしだから
上にまた来てるがこんな所荒らしても無意味なのに阿呆 孤独であることの利点、1人でいる人はどうして成功するかを解説【ブッダの教え】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RkPxVE4OpQc 【40代50代】朗報!実は最高なぼっち!孤独を最強にする方法【うわさのゆっくり解説】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WFPWyuhNyeE パンセが想定しているターゲットが現代に近い
想定している社会が現代と似ている
パスカルは350年前のフランス人 です。遠い存在かと思われます。
しかし、パスカルのパンセが想定している社会は、はるか未来のユートピア的な社会。
というのもパンセは「キリスト教護教論」というタイトルで出版されることを予定していました。
そこでは物が満たされ、食べ物に困ることもなく、職業も好きに選べる。
そういうときになったとき、人間は「自分とは何か」「何をしたいのか」ということに直面します。
そのとき、初めて神の存在を自覚するだろうということを目論んで書かれています。 人間は何もしないことが一番の苦痛になります。
なぜなら、何もせずにじっとしていると、思考がどんどん活性化していき、どんどん不幸になっていくからです。
事実、多くの人は1人で家に籠ってずっと何もせずにいることができないでしょう。
これは、何もせずにじっとしてることが苦痛であるからです。
だからこそ、色々なイベントが人生にはあります。
恋愛や仕事、趣味や人間関係など、人生には色々な出来事があります。
これらは全て、死に対する気晴らしに当たるのです。
死についてできるだけ考えたくないがために、色々なイベントを作り出して、意識を死から遠ざけることで、気晴らしをしているのです。
パスカルは次のような表現をしました。
人間は生まれた瞬間から死という壁に向かっている。
そして彼らはその壁を見ないように、気晴らしをしているのだ。 人間は、何もしないでいると、自分が「か弱く」、「慰められないほどみじめ」な存在であることに気がついてしまいます。
だからこそ、私たちは独りでじっとしていられないのです。
人間の不幸は、現実を直視できずに逃避し、自分と1対1で向かい合うことができないことからやってくる。
このような人間が、自分のみじめさから目をそらすために、辿り着いたのが「5ちゃんねる」なのです。
5ちゃんねるとは、趣味や遊びの板ももちろんですが、仕事板であろうが、雑談板であろうが、ニュース板であろうがなんであろうが、
現実を直視することから逃れることができるありとあらゆるスレッド群に人々が集まっている場所のことなのです。
人々は、老いも病も死もみじめさも貧困も免れることができないので、そんなことを考えずにすませることで幸せになろうとした。
そんな5ちゃんねるの孤独スレを見て人生がうまくいくとでも思っているわけ?
そこに行けば自分と同じ惨めな境遇の人たちがいて、自分はまだましだと安心出来るから、ついつい行ってしまうんじゃないの?
あなたの求めていることは現実逃避であり、問題の先送りです。 独身者が生き抜くのに50歳でリーマンやってたら危ない…
独身状態で会社人やるのも50代まではなんとかなってはくれます。
ただし、50代で会社人やってたら人生の終焉は刻一刻と近付いているんじゃないかなと思いますよ。
少なくとも日本の社会設計は身寄り無しには厳しいです。そして親はいつか死にます。それも大抵は自分より先に、です。
例えば私の実家の面々はどう生き抜いているのかと言うと、夫婦間で相互に身元保証人やって生き抜いてるわけです。
そう言うのを加味すると、私は50代でまだ会社員やってたら60代になった時が恐ろしいですね・・・。
少なくとも50代で自給自足するなり会社を興してるくらいには持っていっていないと、60代での死が確約されます。
50代の転職はスキルや資格の有無以外にも、既婚か未婚かでも置かれるステージが変わってしまうと思いますので、少なくとも40代になった瞬間から彼是準備しないと、定年退職後の人生は詰んでしまうでしょうね…。 こうしてズルズルと現職を続けることになると定年後に荒野に立たされた瞬間に詰むんですよね。
実はコレも私が今、不安に感じていることの1つです。
繰り返すと、既婚であると何とかなる問題も、独身であり続けることによって、どうにもならなくなることがあります。
私に限ったことではないと思うのですが、恐らく多くの独身者は定年後に荒野へ放り込まれた瞬間に自害するかホームレスになるしか道はないです。
成田悠輔氏の「高齢者は集団自決するべき」発言が物議を醸してますが、そんなん言われるまでもなく、日本の社会設計は身寄りのない人間は自害しろという設計になっております。 会社にしがみつく独身人生こそお先真っ暗
ただ一方、既婚者(子持ち)は理不尽に耐えながらも、まだ会社という存在にしがみつ付けることが出来る材料があります。
逆に、独身者が会社にしがみ続けるると、結構危ない未来が待っています。身元保証人(人質供出)問題です。
というのも、40代、50代になってくると、求人の有無以上に深刻なのが身元保証人問題なんですよ。
特に就職時身元保証人は安定した収入のある親族を1人目に求めてくることが多いです。
ところが40代、50代で独身だと、親は生きていても年金暮らし。
身元保証人サービスを使おうとしても「親族」という条件が加わった途端に頓挫します。
逆に言うと、この身元保証人問題こそが転職の自由を制限しているとも言えまして、身元保証人(人質)供出よって今の会社も簡単には辞められなくなってしまうわけです。 そういうやつは賃貸暮らしも不可能になる
持ち家なし、無職 & 金なし & 身内なしの4重苦のおっさんはホームレスか刑務所しか選択肢はない
(老婆やシンママなら福祉が丁寧に扱ってくれる)
職 金 身内
@ × × × ホームレス or 刑務所
A × × 〇 身内に居候・プア充
B × 〇 × 限界集落一戸建て一括購入
C 〇 × × 借上げアパートの派遣社員(入社時身元保証人不要)を探す
D 〇 〇 × 通勤便利な分譲マンションをローン+頭金で購入
E 〇 × 〇 普通に賃貸マンションを借りる
F × 〇 〇 限界集落一戸建て一括購入 ぼっちは老後に頼れるのが金だけだから十分な蓄えが必要
妻子持ちよりも金蓄えてないと詰む
紀州のドンファンを見て哀れだと思った人も少なくないはず
年を取るとお金くらいしか武器になりえませんがそれすらもないとなると・・・・
それ以上に哀れな身になるのが破綻老人なのです
真面目に働いて年金を払っていても、誰もが老後に貧困化する現代では、老いた先に待っている現実は悲惨だ。
貧困から始まる「孤独」「不安」「無気力」に苛まれ、年齢を重ねるたびに病に体を蝕まれつつ、どこにも行き場のない老後――
これこそが、近未来のあなたの姿なのかもしれない。 【炎上覚悟】「〇〇な人は老後つまらない人生を過ごし、確実に後悔しながら死んでいく...」を世界一わかりやすく要約してみた【本要約】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Cr8qocD-G7c ワイドショーでも活躍している弁護士の八代英輝さんから。
なんと、八代さんは2度の脳死体験があるという。1度目は高校生のときのバイク事故。2度目は弁護士になってからの心臓手術。
バイク事故では、車と正面衝突し、2台の車の上を飛び越えて電柱に突っ込んだ。
「死ぬだろうな」と感じた瞬間、すべてがスローモーションになり、子どもの頃からの光景がフラッシュバック。そして気を失った。
次に目が覚めたところはお花畑だった。
「いかにもといった感じ」で、川が流れていて、川の向こう側で受付しているのが見えた。並んでいる人たちが「帰れ、帰れ」の素振りをしている。
川を渡ったら「まずい」と思い、引き返そうとしたところで目が覚めると、病院にいた。
心臓手術で幽体離脱を体験したときも、お花畑と川を見たという。2度の臨死体験を、八代さんはこう振り返る。 持久力がある聴覚
次に、日々多くの人々の死に立ち会っている臨床医の志賀貢さん。
患者を診る医師の立場であり、世間で言うような「空想めいた話」はない。ただ、患者の話を通して「いまの科学では説明できない現象」を体験しているという。
人間の脳の中で、もっとも持久力があるのは聴覚。耳から入った刺激は、大脳の下の視床を通って側頭葉へ行く。心臓と呼吸が止まっても、ここは完全に死んでいないことがわかってきたそうだ。
心臓が止まって医師が「ご臨終です」と言うまで、4分ほど。ところがこの4分の後に、家族の声が患者に聞こえているのではないか、と感じることがしばしばあるそうで......。
「家族には、意識を失っても、患者さんの手を握って、『お父さん』、『お母さん』、『あなた』などの声を掛けてくださいと話します。たとえ、生き返ることはなくても、声を掛けられたという意識をもって、旅立って行くんです」
もう1つ、「三途の川」についても興味深い。これは世界共通だが、東洋人と西洋人でディテールが異なるという。お花畑は同じ。日本人は菜の花畑のイメージで、歩いていくと必ず川が現れる。一方、外国ではお花畑の向こうは川ではなく、大きな壁なのだとか。
いざ、そのときを迎えるまでたしかなことはわからないが、本書には死後の世界のヒントが散りばめられている。「決して怖くない世界」かもしれない、と思えてくるだろう。 3回の心停止から生き返りました(ホントの話)。
死の淵で考えた不動産投資に関するあれこれ。|不動産投資の健美家
https://www.kenbiya.com/ar/cl/mikao/86.html ベストアンサーen christoさん
2017/3/29 17:48
理由として考えられるのは、以下の通りです。
1:はじめから臨死体験をしていない。
2:臨死体験をしたが、覚えていない。
【1】はじめから臨死体験をしていない。
まず、人が臨死体験をするまでの過程は、次のようなものです。
1:何らかの原因で危篤状態へ進んでいく。
2:心配が停止し、臨床的に「死亡」の状態となる。
3:体外離脱が始まる。〜臨死体験へ
臨死体験を証言する人は、2〜3の状態へ移行した後に、生還をした人です。
はじめから臨死体験をしていない人の場合は、2の状態まで行ったが、3の状態に行く手前で、回復をした人です。両者の違いに深い意味は無いと考えられます。
【2】臨死体験をしたが、覚えていない。
当人が本当に臨死体験をしている場合、その体験はかなりリアルなものとなっているはずです。
多くの体外離脱体験は、鋭い五感の感覚を伴うからです。
しかし、臨死体験において、地獄体験をした多くの人は、生還した後に、その時の記憶を忘れる傾向があります。
アメリカ人の心臓の専門医で、モーリス・ローリングスという人がいますが、彼はこの問題について詳細な調査を行った人物です。
彼は、自身の職業的立場を活かし、奇跡的に生還をした多くの患者に対して、記憶が薄れづらい生還直後にインタビューをすることができました。
彼の研究によれば、臨死体験を忘れる生還者の多くが、実際には地獄体験をしていることがわかっています。
調査が進むに連れ、その割合は50%に近づいている、というデータもあるようです。
人間の脳は、耐えられないような体験に関しては、忘れるようにできていますが、その脳の仕組みが、体験の記憶喪失の原因だと考えられます。
臨死体験の多くが、「良い体験」であるのは、そのためだと考えられます。 その他の回答(4件)
urm********さん
2017/3/29 13:07
体験しているけど大部分の人々は臨死体験を忘れているっていうのが1つの解釈ですね。
海外のとある臨死体験の研究では、2060人の心停止の患者の内、140人が蘇生され、わずか9人だけが臨死体験の基準を満たしたそうです。
(結構厳しい基準でふるい分けたみたいなので、9人という数字が多いか少ないかはなんとも言えないですが…)
その研究を主導したサム・パーニア氏は、「本来はもっと多くの人々が臨死体験を経験しているが、脳の損傷や薬のせいでその体験を思い出せないのではないか」と推測してます。
詳しくはsam parniaとかaware studyでググると出て来ます。日本語のページは少なくてどれも同じような事しか書いてないので、英語版で読むのをお勧めします。
他の解釈としては、酸素状態や脳内物質、側頭葉への刺激が患者によって異なるから、それらの条件が不足していた患者は臨死体験をしなかったというのもあります。 死の間際の脳の働き
ここでちょっと、放送後に視聴者から寄せられた手紙を紹介します。
差出人は、東京薬科大学名誉教授の工藤佳久氏。工藤氏によると、1991年放送の「臨死体験」を見て、この現象に興味を持ったそうです。そこで工藤氏は、ラットの脳細胞を使った次のような実験を行いました。記憶に関係があるとされる海馬の切片を虚血状態(局所的な貧血状態)に置いてみたのです。
すると神経細胞の活動はどんどん低下していきましたが、驚いたことに5〜10分程度経過したところで猛烈に活動しはじめ、その状態が数秒間続き、突然、すべての反応が消えたと言います。まるでロウソクの火が消える直前に激しく燃えるような現象でした。 ボルジガン博士の研究ではマウスの個体レベルで死の間際に生じた脳波が記録されましたが、工藤氏の研究では、ラットの細胞レベルでも死の間際の脳活動の活発化が見られたわけです。工藤氏は、この実験は非常に再現性が高く、「たった数秒程度の活動だが、これが臨死体験の実体かもしれないと考えている」(工藤佳久著『もっとよくわかる! 脳神経科学』羊土社)と言っています。
ボルジガン博士や工藤氏の研究結果は、現行の脳死判定にも影響を及ぼすかも知れません。心臓が止まった後、だんだん弱くなっていく脳活動が、わずか数秒とはいえ突如、活発になる可能性が示されたからです。もしその間に臨死体験をしているとしたら、臨死体験の途中で生の最終段階が断ち切られてしまう恐れがある。脳死判定は相当の時間的余裕をもって行うべきです。 死の間際に脳が働くことは確かとしても、なぜ臨死体験の証言者たちは似たような光景、幸福感を語るのか。
その謎を解き明かすためには、「人間の心のメカニズム」に踏み込まなくてはなりません。
私たちは、身体感覚の錯覚を利用して、体外離脱現象を人工的に起させる、スウェーデンのカロリンスカ研究所のH・アーソン博士の実験を紹介しました。
被験者はまず、ヘッドマウントディスプレイをかぶった状態でベッドに寝かされます。
番組では私自身が被験者となりましたが、目の前のディスプレイには私の足が映されています。アーソン博士は棒を使って、私の足をさすります。
くり返し棒で撫でられ、その様子を見ているうちに、視覚と触覚が合わさってディスプレイで見ていることがリアルそのものだと思いこみます。
だから、アーソン博士がナイフを持ち出して私の足を斬りつけようとしたときは本当にビックリしました。
しかし実は、私の脇には人形が寝ていて、ディスプレイに映っていたのは、すべて人形の足に対して行っていたことで、リアルな私の足に対してではありませんでした。
それを実験が終ったときにタネ明かしとして見せられてビックリしました。視覚と触覚を切りはなすと、人間は簡単にあり得ないことを信じるようになるのです。
同じ装置を使って体外離脱の疑似体験ができるようになっていました。
こんな単純な実験で、体外離脱によく似た現象を起せるとは私自身、驚きました。 この実験でわかったのは、自分の身体内部に自分がいるという感覚は、脳によって作られるということです。
アーソン博士は、「体外離脱は、自分の身体を認識する脳内のモデルが崩壊することで起る」と指摘しました。その通りでしょう。
さらに番組は、日本人初のノーベル医学生理学賞を受賞した利根川進さんによる、マウスに「偽の記憶(=フォールスメモリー)」を植え付けるというショッキングな実験や、
ウソの写真を何日もかけてくり返し見せることで、体験したことのない体験を実際に体験したかのごとく人が語り出す心理実験の解説へ進みます。
脳が高度に進化した結果、人類は豊かな想像力を獲得しました。しかしそれとともに、フォールスメモリーを作る危険性まで背負いこんでしまったという利根川さんの指摘にハッとさせられた視聴者も多かったはずです。
人間がこれが真実と思いこんでいる相当部分が、実は自分のリアルな記憶と、学習記憶や、文化文明が与える思いこみやらで合成されたフォールスメモリーのかたまりである可能性があるということです。 山崎元、余命宣告されて伝えたかった「幸福」の正体
「豊かさ・お金」と「自由」があればいいのか? | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/733415 孤独な人ほどハマりやすい自己承認の落とし穴
「すべての」と言い切る自信はないが、多くの宗教は、信者が来世的な幸福をリアリティを伴って信じているからではなく、現世においてグループ内で自己承認感を得られる「現世利益」を得ることによって成り立っている。
経済評論家の父から息子への手紙: お金と人生と幸せについて
『経済評論家の父から息子への手紙: お金と人生と幸せについて』(Gakken)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします
ある種の信者にとって、これを急に失うことは、自死をもってでも避けたい事態だ。
「来世」は、ただ「そうであるかもしれないことが否定はできない状況」として精神的な逃げ道として存在するならそれでいいのだ。
若者でも高齢者でもいい。孤独な人物を見つけたとしよう。彼(彼女)に「場」と「役割」を与えて、仲間内から評価されるような仕組みを作ると、いわゆるマインドコントロールはそう難しくなく可能なのではないか。
厄介なのは、対象者側でもそうした場を求めている場合があることだ。退職した高齢者についてしばしば問題になるのは、会社という場を失った彼(彼女)に居場所がないことだ。 『世界は4つの階層に分類される』貧困層の人ほどハマる思考の罠を解説します【岡田斗司夫 切り抜き サイコパス 貧乏 階級社会 アッパー層 貴族階級 マス層 岡田斗司夫ゼミ 】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=oisvRC_-sF8 【ホリエモン】これを見逃すと10年後のあなたの人生は大きく変わります。この真実を知る人は一握りの天才たちだけです - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MCpmwJc9xn0&t=724s 「引き取り手のない遺体」は誰にとっても身近な話 『ルポ 無縁遺骨』森下香枝氏に聞く | 話題の本 著者に聞く | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/730225 賃貸契約や就職の身元保証は人をフィルターにかけているのだと思う。
身元保証人がいない人は皆何かあるわけではないのは承知だが、前科者や表に出ない犯罪まがいのことをした人は親族から絶縁されていたりする場合がある。
そういう人は身元保証人を立てる人ができないのでそこで困る。
保証人をつけなくてもよい職場や共同住宅はそういう人の比率は自然と高くなる。
職やアパートを転々として来た人もそのように疑われてしまうこともある。 一人暮らし世帯が全世帯の4割に迫ろうとしている今、誰もが孤独に陥る可能性があります。
今回印象的だったのは、「身寄りがあっても無縁状態にある人」が増えているということです。
ある自治体に安置されている引き取り手のない遺骨は、以前ならば「身元不明者」が大半でした。
しかし、今では身元が判明して親族に連絡を入れても、引き取りに来ない人が増えているというのです。
親の介護や葬式の手続き代行をする、家族代行業者の需要も高まっています。
相談の多くは「親の面倒を見たくない」という子どもたちから。「家族頼み」の自助・共助の社会は崩壊しつつあると感じました。 >>59
60代、仕事あっても入居拒否 貸し渋り深刻化「10年後は悲惨」:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASR7372T8R73ULFA008.html
65歳以上で部屋探しをした経験がある500人を対象に調査したところ、4人に1人が「年齢を理由に入居拒否」を経験していた。
年収200万円以上と未満とで傾向は同じで、収入による差はない。
5回以上断られたという人も1割に上った。 家賃が保証されようが高齢者には貸したくないということ https://youtu.be/Tkn0uSvwNcs?t=663
「孤独思考」孤独について語るのでINTJとINFJは集合〜プロぼっち どんなに辛くとも、それを認めれば道はひらけますよ。
変えられることは変える努力をしましょう。
変えられないことはそのまま受け入れましょう
孤独を嘆いているよりも、これからできることを皆で一緒に考えましょう
他人にどう思われているかは、重要ではありません。
肝心なのは、あなたがどう考えるかです。 人生には二つの悲劇がある。一つは願望が達成されないこと、他の一つは、それが達成されることである 「孤独死の現場は盗り放題」
ブラック業者がのさばる特殊清掃業界の闇。
高額請求やずさんな掃除をする業者も | 日刊SPA!
https://nikkan-spa.jp/1974812 特殊清掃業界の5つの闇
@現場からの金品の盗難
現金や貴金属があっても依頼者がわからない場合がある。盗まれたことがわかっても、取り返すのは非常に困難
A不法投棄
個人の情報が詰まったゴミをそのまま捨てられるため、警察から連絡が来る場合も
B高額請求
作業を途中でやめ、続けてほしかったらカネを払えと言うケースも。女性の一人暮らし、知的障害や境界知能の人はターゲットに
C遺品の買い取り
買い取らないか、二束三文で買い叩かれる。そもそも目利きができない。リサイクルショップは目利きができるが、清掃ができない
D技術力が低い
数万円で取得できる「民間資格」を取っている業者に多い。遺体の臭いや染み出した体液などをまともに除去できない 現在、一人暮らしの65歳以上の高年者は、日本では670万人を超えています
単身の高年者が大きな事件・事故などを起こすと、高年者の孤立や孤独の問題がメディアで大きく取り上げられます。
しかし、実際には、独居の高年者全員が孤独感に苛まれているわけではありません。
一人暮らしで誰にも看取られず、何日も経ってから発見される、という「孤独死」を恐れる人も多いでしょう。
しかし、よくよく考えてみれば、数日経ってから発見されるということは、死ぬ直前まで元気だった可能性が高いわけです。
今は、要介護認定を受けた高年者であれば、ほぼ例外なく、なんらかの福祉サービスとつながっています。
日常的な支援が行われているので、体調が悪ければすぐに病院に連れて行かれて、孤独死はなかなかできないのです。
孤独死したということは、自殺などのケースを除き、理想の生き方とされる「ピンピンコロリ」が実現できたということ。
直前まで寝たきりにもならず、元気に生き、眠るように最期を迎えるという、なかなかできない死に方ができたわけです。 人に対して「自由に生きなさい」と言うことの矛盾もひしひしと感じます。
自由にはどんなメリット・デメリットがあるのかを説明されないと「自由であること」について考えることができない人は、もはや永遠に「自由になれない発想」に縛られ切っている人なのではないだろうか?
「人生の助手席ではなく運転席に座る」という、あるイギリス人の演出家の言葉になぞらえるなら、自分は果たして本当にハンドルを握っているのか。
それとも、実は運転手付きのクルマの助手席や後部座席からサファリパークを楽しんでいるだけなのか。
そのことを、特に若い世代の人には考えてほしいと思います。 私たちはしばしば、友達がいないことや一人で過ごすことが悪いことのように感じさせられがちです。
しかし、ドイツの哲学者ショペンハワーは、このような一般的な見解に反対しています。
彼は、「群れたがる者に真の価値はない。本当に幸せなのは、一人でいることを楽しむ人だ」と言っています。
ショペンハワーによれば、人々は他人と群れるほど不幸になり、孤独を愛する人ほど幸せになるとのことです。
この考えに直面すると、多くの人は疑問を持つかもしれません。「孤独が幸せだなんて、本当か?」と。
友達といる方が幸せだと考えるのは普通です。しかし、ショペンハワーはこう指摘します。
幸せとは、ある体験をしたかどうかではなく、その体験をどう感じるかによって決まるのです。
どんな状況でも、それを幸せと感じることができれば、それが幸せなのです。 40代・単身世帯の貯蓄(金融資産を保有していない世帯を含む)
・金融資産非保有:35.7%
・200万円未満:20.6%
・200〜400万円未満:7.8%
・400〜700万円未満:7.5%
・700〜1000万円未満:5.0%
・1000〜1500万円未満:6.1%
・1500〜2000万円未満:4.5%
・2000〜3000万円未満:3.9%
・3000万円以上:5.8%
・無回答:3.1%
平均値:818万円 中央値:92万円
50代・単身世帯の貯蓄(金融資産を保有していない世帯を含む)
・金融資産非保有:35.7%
・200万円未満:14.6%
・200〜400万円未満:7.5%
・400〜700万円未満:9.3%
・700〜1000万円未満:7.1%
・1000〜1500万円未満:5.3%
・1500〜2000万円未満:5.9%
・2000〜3000万円未満:5.9%
・3000万円以上:7.1%
・無回答:1.6%
平均値:1067万円 中央値:130万円 【そもそも解説】増える「身寄り」がない高齢者 どんな問題が?:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASS314F36S2HUTFL001.html?iref=comtop_list_01
Q 身寄りがない高齢者が増えている背景は。
A 厚生労働省の国民生活基礎調査によると、65歳以上の一人暮らし世帯は2022年に全国で873万世帯。
01年の317万9千世帯から倍以上に増えており、65歳以上の人がいる世帯のうち3割を超えている。
高齢化や核家族化に加えて、未婚の人も増えており、今後さらに高齢の単身世帯は増えていくとみられる。
「おひとりさま」という言葉もあるが、身寄りが全くないケースだけでなく、親族がいても疎遠で頼れないという人も少なくない。
また、高齢の夫婦世帯でも、1人が体調を崩して入院・施設入所などをすれば、もう1人は日常生活で頼れる人がいないという意味で「おひとりさま」になることもある。
マンションで孤独死、親族は? 管理組合が抱えた難問「身寄り捜し」:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASS31340MS2QUTFL009.html?iref=pc_extlink
東京都内にある築50年ほどの分譲マンションで、1人の男性が孤独死した。
同じマンションには、別の部屋に、男性の高齢の父母が住んでいる、はずだった。
しかし、別の階にある父母の部屋には家財が残されたまま、誰もいなかった。
父母はどこにいったのか。ほかに親族はいないのか――。管理組合による「身寄り捜し」が始まった。
一家は、マンションの新築時に入居した。そのときの記録には、父、母、長男、次男の4人家族と残っている。
管理組合理事長の女性(76)は、父と通勤の時間が同じだった。駅まで歩きながら、よく世間話をした。ハンチング帽をかぶり、パリッとスーツを着こなす。
ニコニコ笑って明るい人、という印象だった。外国籍で、出身国の大使館に勤めていると話していた。
ただ、家族のことは知らなかった。女性が15年ほど前に退職してからは、会うこともなくなった。
住民から管理組合に、「隣室から異臭がする」と連絡があったのは2021年2月のことだ。
管理組合は警察に通報。そこで暮らす50代の男性が亡くなっていることがわかった。
一家の次男だ。死後2カ月ほど経っていたとみられ、病死だった。
住民の高齢化が進むマンションでは、孤独死はそれほどめずらしいものではない。
通常は、入居届で記載を求めている連絡先にあたり、相続の手続きを進めてもらう。
次男の連絡先は、父になっていた。もう90代になっている。
しかし、父母の部屋は、その半年前から管理費などが滞納されており、連絡がとれなくなっていた。
そして、父の連絡先は、亡くなった次男になっていた。
警察の立ち会いのもと、父母の部屋を開けた。テーブルの上には薬が、クローゼットには洋服が残っていた。
しかし、人が暮らしている様子はない。父と母、そして長男はどこに行ったのか。
突然ふってわいた管理組合による「身寄り捜し」。
その結末は。こうしたケースに備えて管理組合にできることは何か、後半では専門家の助言も紹介しています。 >>78
老人ホームも子どもなどの身元連絡先を書かされるよ
居ないとなると門前払いや後回しにされる 60代後半までに「100歳まで住める家」に引っ越す必要がある…
住まいのない「漂流老人」が急増する本当の理由
孤独死で「事故物件化」する賃貸住宅が続出 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
https://president.jp/articles/-/79248 賃貸借契約は財産権なので、契約を結んだ賃借人が亡くなった場合、その相続人に相続されます。
賃借権だけでなく、部屋の中の物もすべて相続人の財産となります。
ところが荷物を全部撤去してから亡くなる賃借人はいません。
家主側は勝手に他人の物を撤去できないので、荷物は相続人に片づけてもらうか、処分の同意を得ることが必要になります。
たとえば身寄りのない単身高齢者が亡くなった場合、家主側はまず相続人を探して、その方と賃貸借契約を解除して部屋を片づけ終わらないと別の入居者に貸すことができません。
ましてや相続人が複数になる場合、法律上は相続人全員と解約手続きをしていくことが求められています。
しかし、個人情報の保護が叫ばれる現代では、利害関係者であったとしても相続人を探して連絡を取るのは非常に難しいことです。
それなのに、民間の家主が相続人を探さなければならないとなると、これは大変な負担です。
ようやく相続人を確定できたと思っても安心はできません。相続人が行方不明の場合があるからです。
行方不明だからといって、手続きがすぐに終わるわけではありません。
この場合には、不在者財産管理人を選任して、その管理人と手続きしていくことになってしまいます。 ・ 孤独死が発生したが身寄りがなく、ご遺体の対処、滞納された賃料、リフォーム費用などがすべてこちらの負担となった。
賃料を下げても風評被害でその後の入居者を見つけることができなかった。
不動産の売却依頼を受けたが、やはり売れず、苦労した
・ 浴室で孤独死が発生。死亡翌日に発見され、病死だったことから本来次の入居者への告知義務はないが、入居後に知ることになる可能性が高いため、告知をしている。
浴槽の交換をして家賃も下げたが、入居希望がなく、ずっと空室のまま。このようなことがあると、高齢者への紹介には二の足を踏んでしまう
・ 木造2階建てアパートで高齢女性が浴室で孤独死。原因は心不全。
ご子息が母親と連絡が取れないことを心配して入室確認し、死亡が発覚した。
死後2週間ほど経っていた。
残置物は処理業者に依頼して処分。しかし腐敗臭は残ったため、賃貸物件として貸すことが不可能に。
他の部屋の入居者も徐々に退去。その後、家主の希望もあって募集はせず、建物は解体して更地に。
もともと家主は貸さないと言っていたにもかかわらず、死亡した高齢女性がどうしても借りたいと申し出て貸した経緯があったため、
家主は今後中高年の単身者には貸さない方針を明確にした 仕事もない、話し相手もいない、やる事もない…
これから日本で大量発生する「独り身高齢男性」という大問題
毎日がヒマだから「迷惑なクレーマー客」になる | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
https://president.jp/articles/-/78129 今学ばないといけない。晩年に後悔しないための人生名言90選【モチベーションアップ動画】 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TtEvSEVcKJg 「老後ひとり暮らし」心を病む人病まない人の差 自分の思うままに生きる「スナフキン」に学ぶ | 健康 | 東洋経済オンライン
https://toyokeizai.net/articles/-/738997 誰にも干渉されない老後のひとり暮らしを謳歌している人はたくさんいます。しかし中には、定年退職で職場という居場所を離れたり、長く連れ添った配偶者に先立たれたりして、喪失感を抱えてしまう人も少なくないでしょう。とはいえ、新しい人間関係を築くのも億劫なもの。
孤独も悪くないけれども、孤立してしまうことにはリスクがある。そう語るのは生前整理や遺品整理で何千軒というひとり暮らしの家を見てきた山村秀炯さん。近著『老後ひとり暮らしの壁』の中から、一部を抜粋・再編集して紹介します。 実は、日本は社会的孤立に陥りやすい国です。過去に行われた調査では、OECD諸国の中で、人付き合いが滅多にないと答えた人の割合がもっとも多かったのが日本でした(「Society at a Glance」2005年)。
(『老後ひとり暮らしの壁 身近に頼る人がいない人のための解決策』より)
これは、人との関わりがなくてもある程度は生活できるという、日本社会の成熟を示しているのかもしれません。
しかし歳をとれば、話し相手や相談相手、身元を保証してくれる人、日常生活の世話や介護を頼める人、死後の手続きを頼める人など、セーフティネットとして必要な人間関係というのが出てきます。
おひとりさまには「人に頼りたくない」「迷惑をかけたくない」と言う方が多いのですが、できないことは人にやってもらって当然ではないでしょうか。
ただし、自分ができることを積極的に人にも提供する。それが共同体を支える相互扶助だと理解できます。
自立することは孤立することではありません。 おひとりさまが所属するコミュニティを探すときの条件はたったひとつ……居心地がいいことです。
それさえ満たしていれば、どんなものでもかまいません。
その場所を自分自身が好きであるかどうか、居心地がよいかどうかを重視してください。家族でも仕事でもないのに、イヤイヤ人間関係を築くことほどストレスになることはありません。
では具体的にどんなやり方があるか、いくつかヒントを紹介します。
・近い友人、知人を大切にする
人がもっとも孤独を感じるのは、どんなときだと思いますか?
ある研究では「言葉の通じない知らない町をひとりで歩いているとき」だとされています。
部屋にひとりでいるよりも、知り合いのいないパーティに放り込まれて手持ち無沙汰にしているときのほうが、強い疎外感を感じますよね。つながっている他者と、たったひとりの自分を比べてしまうからでしょう。
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新しいコミュニティに飛び込んでいくのもいいことですが、その前に、いま周りにある友人・知人関係を見直してみて、関係が途切れないようにすることをおすすめします。 どうしても対面での人付き合いが苦手であれば、いまはオンラインという手もあります。
『老後ひとり暮らしの壁 身近に頼る人がいない人のための解決策』(アスコム)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします
70代でX(旧ツイッター)を始めた「ミゾイキクコさん」や「大崎博子さん」をご存知でしょうか? 10万人、20万人というフォロワーを抱え、本の出版までしているスーパーシニアです。
実はユーチューブやインスタグラムを使いこなすシニアもいます。
使い方を覚えないといけないですし、最初はひとりでコツコツ続けるだけになるので、使いこなすのは簡単ではないでしょう。ただ、やってみるだけなら黙々とひとりで取り組めるので、向いている人もいるはずです。
ネット上のつながりであろうと、誰かが見てくれていたり、ときにはメッセージをくれたりすることで、意外とたしかな居場所になります。それに、新しいことへの挑戦は刺激に満ちていて、認知症の予防や生きる活力になったりもするでしょう 首都圏の人口10万以上の自治体では、身寄りがない人や身元がわからない人などを行政が火葬するケースが増え、昨年度、2022年度は合わせて2万件を超えていたことがNHKのアンケート調査でわかりました。
これは、1年間に亡くなった人のおよそ15人に1人が行政によって火葬されていたことになります。
首都圏では、近年、亡くなったあと、火葬する家族や親族が見つからない人たちなどを行政が代わりに火葬して、遺骨を保管するケースが増えています。
そこで、NHKは、ことし1月から2月にかけて東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県の人口10万以上の93の区と市に、家族や親族に代わって費用を負担した火葬の件数を尋ね、89の区と市から回答を得ました。 その結果、昨年度は、合わせて2万1227件で、過去5年間で最も多くなりました。
これは、これらの区と市で昨年度、亡くなった人の6.7%、およそ15人に1人に上ります。
都県ごとに見ると
▽東京都が最も多く8.3%
次いで
▽神奈川県が6.9%
▽千葉県が4.9%
▽埼玉県が4.1%となっています。
行政による火葬の現状に詳しい長野大学社会福祉学部の鈴木忠義 教授は「家族間の関係の希薄化や経済的な負担の問題が背景にある。
今後も増加が予想される」と話しています。
遺骨の引き取り手見つからないケースも
千葉県市川市では昨年度、市が火葬した件数は271件に上りました。
多くの場合、葬儀は行われず、市の職員が立ち会って市内の斎場で火葬しているということです。
身元が分かる場合は、戸籍を調査して子どもや兄弟などに遺骨の引き取りを依頼しますが、引き取り手が見つからないケースも多いといいます。
現在も、市が160体以上の遺骨を保管していて、中には数年間、置かれたままのものもあります。
市川市では遺骨の保管期限を5年とし、引き取り手が見つからなければ市内の霊園にある無縁者の墓に納めています。
市川市生活支援課の海宝睦 主幹は「従来の日本の弔いの仕組みが崩壊しつつあるような印象を受けています。
今のままではこうしたケースが増えていくのではないか」と話しています。 忌明のお返しやら何やらで疲れたし結構お金もかかったよあとはお盆と年忌かぁ