完璧な虚無主義者で読書人の一人暮らし
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本って紙の本で読んでるの?電子?全部買ってるの?中古? >>145
十代、二十代にイケてなくても、それ以降でそれなりなら、
けっこうなことだと思う。
田舎で、小規模な生活でも、人は十分幸せになれる。 (´・ω・`) >>147
スレ立て主の俺は、本は全部紙で読んでいる。
新刊書店で買ったり、古書店で買ったり。
デジタルは視認性に問題があるし、機器だから、人間の肉体とは
なじみが悪い。肉体に抵抗するのだ。人間の方が機器に合わせないと
いけない。取り扱いも、床に落としたり、誤って体重をかけたり
しないように無意識に注意しとかないといけない。
これらが小さなストレスになる。
紙なら、床に落とそうが、水に濡れようが、ひん曲げようが、全然
問題ではない。
(それに、いい大人がクリックだのスクロールだの、そんなちまちま
したことをやってられるか、という感覚もある)
紙はストレスフリーで、自由で、確かな手ごたえがある。
俺には、デジタルのメリットは今のところ皆無だ。 ちょっと訂正
>>124の文中の「独身男性」板は、「孤独な男性」板の間違いだった。
>>132の
「いわゆる新訳ブームで、新進の訳者による『アクロイド』が複数出ている」
の『アクロイド』も、俺の勘違い。
新訳が複数出ているのは『アクロイド』ではなくて『オリエント急行〜』だった。
すまん。(´・ω・`) クリスティと言えば、先日、本屋に行ったら、新刊コーナーに『ミス・
マープルと13の謎』の新訳版が出ていた。
中学生の時に、昔の創元推理文庫版で読んだ気がするが、記憶が確かではない。
再読してみようかどうしようか。
仕事の関連で読まねばならぬ本、今手元にある積読本、将来的に読んで
おきたい本のほかに、こんな風に「若い頃読んだけど、あらためてもう
一度読んでみたい本」もあるわけで、時間がいくらあっても足りない。 (´・ω・`) 今日は所用で街へ。
帰る前にショッピング・モールのマクドナルドで一休み。
一応、念のため頼んでみたが、やっぱり「グラコロバーガーは
季節限定です」と冷たく言い放たれ、第二候補のベーコンレタス
バーガーに。それと、カフェラテ。
例によってフードコートの一席で孤独を満喫する。もっとも、人は
あまり多くなかった。
モール内の小さな本屋には、案の定、『今日の早川さん』の第4巻は
置かれてなかった。 (´・ω・`) >>99で、喫茶店などでの人間観察の楽しみについてふれ、>>122と
>>152では、ショッピング・モールのフード・コートで「孤独を満喫」
したと書いた。
こういう、人のいる場所で孤独の状態を楽しむというのは、ある人々に
とっては、理解し難いかもしれない。
しかし、>>124で書いたように、孤独があまり苦にならないタイプの
人間がいて、俺はそれに属する。
前に話題にした萩原朔太郎には、そういう、都市または街中での孤独
(の楽しみ)を歌ったとも解釈できる詩(散文詩)があるので、座興
までにここに紹介してみよう。
(続く) (中公文庫『日本の詩歌14 萩原朔太郎』より)
[群集の中に居て]
都会生活の自由さは、人と人との間に、何の煩瑣(はんさ)な交渉もなく、
その上にまた人々が、都会を背景にするところの、楽しい群集を形づくつて
居ることである。
昼頃になつて、私は町のレストラントに坐(すわ)つて居た。店は賑やかに
混雑して、どの卓にも客が溢(あふ)れて居た。若い夫婦づれや、学生の
一組や、子供をつれた母親やが、あちこちの卓に坐つて、彼等自身の家庭の
ことや、生活のことやを話して居た。それらの話は、他の人々と関係がなく、
大勢の中に混つて、彼等だけの仕切られた会話であつた。そして他の人々は、
同じ卓に向き合つて坐りながら、隣人の会話とは関係なく、夫々(それぞれ)
また自分等だけの世界に属する、勝手な仕切られた話をしやべつて居た。
この都会の風景は、いつも無限に私の心を楽しませる。そこでは人々が、
他人の領域と交渉なく、しかもまた各人が全体としての雰囲気(群集の雰囲気)
を構成して居る。何といふ無関心な、伸々(のびのび)とした、楽しい忘却を
もつた雰囲気だらう。
(中略)
げに都会の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人
の単位であつて、しかも全体としての綜合した意志をもつてる。だれも私の
生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全体の動く意志の中で、
私がまた物を考へ、為し、味ひ、人々と共に楽しんで居る。心のいたく疲れた人、
重い悩みに苦しむ人、わけても孤独を寂しむ人、孤独を愛する人によつて、
群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた
一つのさびしい歌を唄はう。――都会は私の恋人。群集は私の家郷。ああ何処
(どこ)までも、何処までも、都会の空を徘徊しながら、群集と共に歩いて
行かう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行かう。 それにしても、今年の冬は結局暖冬なのか。
>>110、>>111を書き込んだ頃は、この先どうなることやらと
心配だったが…
もうなんとなく光が春めいてる。 どこへも行かないし、何も買わないし、何もしない生活
やらないのではできないのだけど。バイクの足がなくなってから
マジやばいな >やらないのではできないのだけど。
意味がよくわからん (´・ω・`) >>6と>>143で話題にした、coco著『今日の早川さん』の第4巻を読書中。
読み終わるのがおしいのでチビチビと読んでいる。
主人公の早川量子(はやかわりょうこ)ちゃんが相変わらずかわいい。
読書人の間で「嫁にしたい女性」アンケートを行ったら、かなり上位に
くるのではなかろうか。 (>>158の続き)
富士見延流(ふじみのべる)ちゃんの方は、ぐっと大人っぽくなった。
妙齢の女性という感じになった。いつボーイ・フレンドができても
おかしくない(そして、そうなった時には、量子ちゃんが大ショックを
受けるという展開が容易に想像できる)。
しかし、今回は、4コマ漫画の収録数がこれまでよりも少なくて(SF風味の
中編漫画が含まれているので)、岩波さんなどの登場回数が減っているのが
さびしい。 (´・ω・`) それにしても、例によって『今日の早川さん』の第4巻もSFやホラー
小説ネタが大半だ。
残念ながら、その手のものをほとんど読んでいない俺には面白さが
ほぼわからない。 (´・ω・`)
読書・読書人「あるある」のギャグは相変わらず楽しませてもらったが。
(続く) (>>160の続き)
例えば、72ページの4コマ漫画での、日本語表記に関するこだわり。
・それと『スター・ウォーズ』は中黒つけろよおぉぉ
・「『SFマガジン』正しくは『S-Fマガジン』!
・「キングはスティーブンじゃない、スティーヴンな」
等々。
俺も日本語や日本語の表記にはウルサイ。
読書人なら、大抵は表記にこだわるようになるのではなかろうか。
その辺がテキトーであるのは、書物に対する敬意が足りないと感じられる。 (>>161の続き)
純文学ネタで言うと、
・「アメリカの州なら「バージニア州」でもいいけれど、『ダロウェイ
夫人』の作者はヴァージニア・ウルフでないと」
とか、
・「吉田健一ファンなら、ヘンリー・ミラーじゃなくて、ヘンリイ・ミラアな」
とか言いたくなる。
こんなセリフを、『今日の早川さん』の純文学担当の岩波さんに言わせたい(笑) 『今日の早川さん』は、チビチビ読んでも、あっと言う間に
読み終わってしまった。
一人暮らしは特にさびしいとは思わないが、面白い本を
読み終わるのはさびしい (´・ω・`) 長谷川櫂『四季のうた――文字のかなたの声』(中公文庫)を読了。
これは、>>35〜>>45で触れた『四季のうた――微笑む宇宙』の続編。
今回もいろいろ感心した詩歌はあるけれど、特に心に残ったのは美智子皇后
のお作。こんなにいい歌を詠める人だとは知らなかった。全部で十首紹介
されているが、二つだけここに引用する。
幾光年太古の光いまさして地球は春をととのふる大地
(いくこうねん たいこのひかりいまさして ちきゅうははるをととのふるだいち)
(続く) (>>164の続き)
スケールの大きい、おおらかな歌で、この地位にある人としては、まことに
好ましい詠みぶりである。
この歌に添えられた、長谷川櫂氏の小文は以下の通り。
「はるかな星から届く光を描いて、宇宙的な視野で地球の春の訪れをたたえる。
宇宙の時代に生まれた春の讃歌だろう。『皇后美智子さまの御歌』は最新の歌集
である。歌に添えられた鈴木理策の透明感ある写真も美しい」
(続く) (>>165の続き)
もう一首、今度は趣きが正反対のものを。
今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ失せたるものの面影の上に
(いまひとたび たちあがりゆくむらむらよ うせたるもののおもかげのへに)
長谷川櫂氏の説明は、
「『面影』は諦めと希望の交差する言葉。母の面影といえば母はすでに
亡き人だが、どこか似ているという意味になる。この歌でも要(かなめ)
の働きをしている。大震災後、復興へ動きはじめたみちのくの村々。面影
の一語、哀しく、かつ力強い」。
(続く) (>>166の続き)
以上の二首もそうだが、紹介されている後の歌も含め、これらの歌には
どこか素人(しろうと)くさいところがあるように俺には感じられる。
プロの歌人に大抵うかがわれる、隙のなさ、張りつめた緊張感、ハッと
する技巧の冴え、等々が欠けているように思われるのだ。
これは悪口ではない。むしろ、こういう立場の人であればこそ、それが
好ましく思える。
>>164の歌と、その後に紹介されている我が子を歌った歌などにうかがえる、
そういう緩さと温かさは、実に貴重だ。 『今日の早川さん』に出てくる岩波さんみたいな感じで、
街中で映画『ファースト・マン』のポスターを見ると「カミュかよ」と
つぶやいてしまう。 (´・ω・`)
(アルベール・カミュには、英訳本のタイトルが『The First Man』という
長編小説がある。新潮文庫から『最初の人間』という邦訳タイトルで出ています) 俺も最近自分がニヒリストって分かった。
この世の中辛すぎワロタ 毎日、辛いよね (´・ω・`)
面白い本を読むこと、優れた詩歌にふれること、Youtubeで猫の動画を
見ることぐらいが慰めだ。 >>167に付け足し。
この美智子皇后の>>164の歌の魅力について、ちょっと考えてみた。
どうやらそれは音韻上の魅力に一部を帰せられそうだ。
「幾光年太古の光いまさして地球は春をととのふる大地」
(いくこうねん たいこのひかりいまさして ちきゅうははるをととのふるだいち)
子細に見ると、この一首の中には、どれぐらい意識したかはわからない
けれども、結果的に韻を踏んだ形が含まれており、それが全体の響きの
ゆったりした端正な趣きを生んでいる。
つまり、「いくこうねん」、「たいこ」、「いま」、最後の「だいち」の
イ音、前半の「たいこ」と最後の「だいち」の類似音、「ちきゅう」と
「だいち」のチ音、「はる」と「ととのふる」のル音、等々。頭韻と脚韻の
組み合わせその他の音韻上の響き合いからこの一首は成り立っている。
(続く) (>>171の続き)
作歌の際に、美智子皇后がどれぐらい意識的に工夫したかはわからないが、
こういう工夫を心掛けたからといって誰でも名歌が作れるわけではない。
やはり天性、耳がよいのであろうと思われる。
この歌が>>167で書いたように「ハッとする技巧の冴え」は感じられない
ながらも、人の心に忘れがたい印象を残すのは、こういう響きの心地よさが
あるからだ。 身辺整理――最近じゃあ「終活」だとか「生前整理」だとかいう言葉があるが――
がなかなか進まない。
できるだけあとくされがないように生を締めくくりたいのだが (´・ω・`) どうせ死んだら蔵書はあらかた処分されるんだから寂しい思いをしてまで自分で捨てる必要ないんでないかなあ。 うーん。俺は元々、モノがゴチャゴチャあるのは嫌なのだ。
できるだけモノは少なく、すっきりした生活がしたい。
そういう生活は、自分の抱く虚無主義思想となじみがいいしね。
だから、俺は(大した読書家でもないし)蔵書家ではないんだなあ。
(蔵書家でないのは経済的理由もあるが)
>>174氏はやっぱり部屋の中に何架もあるの? >>175の訂正
>やっぱり部屋の中に何架もあるの?
↓
やっぱり部屋の中に本棚が何架もあるの? できるだけモノは少なく、すっきりした生活がしたい……、が、
なかなか難しい。
ちなみに、本屋でインテリア雑誌の表紙のすっきりした部屋の写真
とかを見ると、強く惹きつけられるが、一方で、
「本を読まない人間は部屋が片付いてよろしおますなあ」
(なぜか京都弁)
と心の中で毒づきたくなる(笑)
こちとら、自分の座る周囲に積読本、今現在並行して読んでいる本
2、3冊、読み終えたばかりの本複数が常時置いてあるのだ。
これで、どうやって部屋がすっきりしたものにできるだろうか。 (´・ω・`) >>177
読書家と生活のミニマリズムが共存する発想がなくて少し混乱しました。
自分も寿命を意識したら近いうちにそんな観念に至るのかもしれませんが。 >178
>〜寿命を意識したら〜
俺は自分の健康状態に自信がないから、後20〜30年も生きられないと思ってる。
ちょっと前に「50代以上」板を覗いたら、人の余命を推定してくれる
サイトが紹介されていた。
(アンケート形式で、質問に答えていくとデータに基づいてその人が後
何年生きられそうか数値を出してくれる)
やってみたら、やっぱり長生きできないという結果だった。
(虚無主義みたいなネガティブな思想の持ち主は早死にする傾向がある
らしい(笑))
昔、多少文学青年だったから、プルーストの『失われし時を求めて』を
読まずに死ぬのは心残りになる。他にも、読みたい本、読まなければならぬ
本がたくさんある。俺には時間がない。
そういう次第だから、俺はたぶんローダン・シリーズもグインサーガも、
『銀河英雄伝説』も『用心棒日月抄』も読まないまま死ぬことになるだろう。
致し方ないことである。 (´・ω・`) >>179
ユリシーズは一巻で放棄した。ブルーストは立ち読みして止めた。
アシモフの「銀河帝国」シリーズは全部読んだ。 >180
>ユリシーズは一巻で放棄した。
俺は、『フィネガンズ・ウェイク』はまあ読まずに死んでもあまり悔いは
しないと思うけど、『ユリシーズ』にはまだ未練がある。 (´・ω・`) ドナルド・キーンさんが亡くなった。
日本文化への多大な貢献、ありがとうございました。合掌。
伝記『石川啄木』は必ず読みます。 >>182
ドナルド・キーン自伝は面白いよ。いろいろな作家とのつきあいが凄いね。
東京新聞に「ドナルド・キーン下町日記」が不定期連載されてる。もう終わりだが・・・。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/ >>183
うーん。キーン氏の自伝的なことは、いろんな小文ですでに知っている
からなあ……
「下町日記」とかあったんですね。
キーン氏も下町に住んでおられたのか。
下町といえば、サイデンステッカー氏の方がイメージが強かったが…… それにしても春らしくなった (´・ω・`)
もう2月も終わりか。年が明けてからあっと言う間。
年をとると、時間が過ぎる速さが半端ない。 さて、>>179で書いたように、自分の人生の残り時間を意識しつつ、
本屋に行くと、
『老境まんが』(山田英生編・ちくま文庫)
という新刊が出ていた。さっそく購入。
タイトルの通り、老境がテーマの漫画アンソロジーである。
編者の山田英生氏は、前に買った『ビブリオ漫画文庫』、『ハモニカ
文庫と詩の漫画』の編も手がけていた人。
この人の編なら、そうハズレはあるまいと思ったが、やはり満足のいく
内容だった。
(続く) (>>186の続き)
手塚治虫の漫画からは『ブラック・ジャック』の一編が択ばれている。
「湯治場の二人」というやつで、これは、俺も昔読んで心に残った話だ。
久々の再読で、懐かしかった(『ブラック・ジャック』全巻を再読
したい気持ちもあるが、はたしてどうなることか)。
うらたじゅんの「五月の風の下」は、俺の2、30年後の姿(つまり、
ボケた老人)を予告しているようで、いろいろ考えさせられた。
収中、岡野雄一の「ペコロスの母に会いに行く」の一編にはもっとも心を
えぐられた。もっと読みたいから、単行本を買うことになるだろう。
それにしても、このアンソロジーの中の印象深い何編かは、いまだに
太平洋戦争が暗い影を落としている作品だ。
これから元号が切り替わる新しい時代の同種のアンソロジーには、
はたしてそういう作品が収録されることになるだろうか。 「50代以上」板をのぞくと、こんな書き込みがあった。
春が近くなると、三人組アイドル「キャンディーズ」の歌の「春一番」
を思い出す、と。
なるほど。
俺はキャンディーズの熱烈なファンというわけではないが、気持ちはわかる。
「実作はしなくて、ただ好きで詩歌を読んでいる」という現代日本の
絶滅危惧種中の絶滅危惧種である俺は、春が近づくと、かならず何編かの
詩歌を思い出す。
例えば、この一編。
(続く) (>>188の続き)
[失はれた美酒]
(ポール・ヴァレリイ)
一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」に捧ぐる供物にと。
おお酒よ、誰か汝が消失を欲したる?
或るはわれ易占に従ひたるか?
或るはまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密のためにせしなるか?
つかのまは薔薇いろの煙たちしが
たちまちに常の如すきとほり
清らかに海はのこりぬ … 。
この酒を空しと云ふや? … 波は酔ひたり!
われは見き潮風のうちにさかまく
いと深きものの姿を! (>>189の続き)
この詩の最初の2行、
「一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)」
は、毎年春が近づくたびに俺が心の中で唱えるお気に入りの文句である。
明るい春の陽光の下で自分も旅に出かけたいと、非常に心をそそられる。
もっとも、この詩の第2連以降は、何を言ってるのかよくわからない部分が
多々ある。しかし、わからないながらも、この詩が古今に絶する名吟である
との確信は、自分にとっては揺るがない。
詩は(広く言って文学は)、わけがわからなくても感動できる。
SFファンの人は、SFの魅力を「センス・オブ・ワンダー」と表現することが
あるけれど、俺にとっては、わけがわからなくても感動する不思議が、
純文学の魅力の一つである。 さて、暖かくなって、旅に出たい気になるけれど、実際は外出するのが
ひどく億劫である。
外出しなければならない用事がある時は、気力を振り絞ってという感じだ。
これは、単に加齢のせいなのか、それとも鬱病の前駆症状だろうか。 (´・ω・`) >>151で触れた『ミス・マープルと13の謎』を買って、読了。
(創元推理文庫の新訳版である。早川書房の「クリスティー文庫」では
『火曜クラブ』というタイトルで出ている)
>>131で書いたように、『アクロイド殺害事件』に敬服したので、その
勢いでまたクリスティという流れ。
(>>151で書いた通り、昔読んだ気がしたが、どうも勘違いだったもよう。
俺が昔読んだのは、ミス・マープルものではあっても、『クリスティ短編全集』
(創元推理文庫)に収録されているやつだったようだ)
寝る前のひと時、一編だけ読むという形で、何日間か楽しんだ。
食後のデザートの洒落た一品を味わうという趣き。 (>>192の続き)
もっとも、俺の本格ミステリの理想形はエラリー・クイーンだから、
ミス・マープルものだと、話の終わりの方で探偵が推理を披露する箇所が
物足りなく感じる。
ミス・マープルの場合は、何か些細なことを手がかりに、一挙に全真相を
洞察するという趣きで、論理的な推論の積み重ねというわけではない。
しかし、いずれにせよ、一つの事件、謎がすっきりと明確に説明がつく
ことでのカタルシスは得られる。
クリスティーが人気があるのは、やたら理屈っぽくはなく、しかし、
それなりにカタルシスが得られる、そういうバランスのとれた読みやすさ
からだろう。重くはない、胃にもたれないのである。
それにクリスティーの場合は、登場人物が作者の都合のいい駒ではない。
記号ではない。最低限の人間性はそなえていて、さまざまな人間模様が
それなりのリアリティをともなっている。小説本来の楽しみがあるわけである。
これぞエンタメ小説の見本であり、クリスティーは「ミステリの女王」と
呼ばれるけれど、冒険小説的なものやロマンス小説も書いているから、
もっと広く言って、「エンタメ小説の女王」と呼んで差し支えない(笑) 今日は所用で街へ。
帰りに、街中の小店でタコ焼きと生ビール(小)で一休み。
もう春の宵という感じがしなくもない。 最近読んだ本を心覚えに書きつけておこう。
感想はまた後日ということで。
・橘玲『不愉快なことには理由がある』(集英社文庫)
・斎藤美奈子『日本の同時代小説』(岩波新書)
・池内了『物理学と神』(講談社学術文庫)
・坂戸佐兵衛(原作)、旅井とり(作画)『めしばな刑事タチバナ』第32巻
(トクマコミックス)
・新久千映『ワカコ酒』第12巻(ゼノンコミックス)
等々。 先日、所用で郵便局に行った折り、郵便局の「みまもりサービス」の
DMを見つけた。
一日の契約した時間帯に自動録音の電話があり、電話機のボタンで
回答し、それが家族などへ転送されるものらしい。
「いかに苦痛なく完璧に孤独死するか」は俺の重要課題だから、
取りあえず参考にするためにDMを一部頂戴した。 (´・ω・`) (>>196の続き)
しかし、このサービスは、家族ではなく、市役所の「行旅死亡人」
担当者などに直接連絡がいくようにはできないものだろうか。
また、中途半端に命拾いするのは、半身不随になったり植物人間に
なったりする恐れがあるので、死ぬ可能性があるなら確実に死にたい。
したがって、あまり早く確認しに来られても困る。遅すぎても、遺体処理
その他が大変だから、それも困る。
確実に死んでからあまり時をおかずに発見されるのが一番だ。
こういう要望に当局ははたして応えてくれるだろうか。 (´・ω・`)
もちろん、俺の理想的な死に方は永井荷風である。 >>197
あはは、大賛成だな。俺も、きっちり孤独死してから乾燥してから発見されたいな、腐敗してからでもいいけどねw >>197で「俺の理想的な死に方は永井荷風である」と書いたが、ちょっと
誤解される恐れがある。
あれはあくまでも偶然、「結果的に理想的な死に方だった」というにすぎない。
荷風は死のほぼ直前までそれなりに元気であり、なじみの飯屋で好物の
カツ丼を食っていたほどだった。
死んだ時も特に苦しんだようではない。苦痛で床をのたうち回ったという
形跡はなかったようだ。
ほぼポックリ死んだと言っていいのではないか。
こういう死に方は、運任せで、自分がそういう風に死ぬことは当てには
できない。意識的にまねすることができないのである。
できれば、確実に「苦痛なく完璧に孤独死する」方法を見つけたいものである。 (>>199に付け足し)
>>144で、西部邁『保守思想のための39章』を読んだことを書いた。
実は、西部邁氏の著作を読むようになったのは、氏が自死したことがきっかけ。
「苦痛なく完璧に孤独死する」方法を知っておきたい俺にとっては、
西部氏が(弟子筋2人の手を借りたらしいが)自死したその手法と動機に
興味があったのだ。
(たぶん続くが、今日はここまで) (>>200の続き)
西部氏が自死を選ぶ動機・理由は、氏の最後から2番目の著作である
『保守の真髄』(講談社現代新書)の最後のパートで縷々述べられている。
要点的な文章を3つほど引用しておこう。
・「述者は、結論を先にいうと病院死を選びたくない、と強く感じかつ
考えている。おのれの生の最期を他人に命令されたり弄(いじ)り回され
たくないからだ。〜」
・「〜生の意義について公に語ってきた者は、その語りをおおよそ尽くし、
それゆえ『自分が周囲や世間に何も貢献できないのに迷惑をかけること
のみ多くなると予測できる段階では生の意義が消失する』と判断しなければ
ならない〜」
・「まとめていうと、人間が生きるということはつねに(Aを選びBは
選ばないというふうに)絶えざる選択の過程である。そしてその過程の
最終局面において死に方の選択が待っている。逆にいうと死に方は
生き方の総仕上げだということになる。〜」
これらの考え方に、俺はおおむね賛成である。
興味を持たれた方は、この現代新書に直接当たっていただきたい。 (>>201の続き)
さて、西部氏の自死の手法は、当初はピストル自殺を想定していたらしい。
上記のパートの文章の中に、ごく短く次のような言及がある。
「なお人生で三度めの述者の短銃入手作戦が、前二回と同じく入手先主の
突如の死によって頓挫するというほとんどありえぬ類の不運に見舞われた
ことについてここで詳しく話すわけにはいかない」
これを読むと、どうやら、西部氏は、ある人からピストルを譲ってもらう
心積もりをしていたのだが、その当人が急死してしまったらしい。
確かに、こめかみか心臓の辺りにピストルを押しつけて引き金を引けば、
確実に即死するであろうけれど……
俺には、あんまり参考にならない手法だなあ (´・ω・`) 西部邁氏の著作について一言。
氏の著作を今まで一度も読んだことのない人には、>>201で触れた
『保守の真髄』(講談社現代新書)よりも、絶筆となった『保守の遺言』
(平凡社新書)の方をおススメする。
『保守の遺言』は、人の死に方について詳しく述べていないが、
口述筆記を基にしていて、かなり読みやすい。氏の考え方の大枠を
知るにはちょうどよいのではなかろうか。西部邁入門書として最適と思われる。 (>>203の続き)
実は『保守の真髄』も口述筆記に基づいたものなのであるが、自分の
最後の著作を当初意識していたせいか、表現がかなり整っていて、
論述も本格的で、テーマも多岐に渡る。読むのがけっこう骨が折れるのである。
当初の予定が狂って最後の著作となった『保守の遺言』の方は、一応
『〜真髄』で一通り自分の言うべきことは言ったという思いであろう、
一種の余裕がある。余禄というような明るさが心地良い。
人生の最期をこのような一種の明るさで締めくくれたのであれば、
「もって瞑すべし」という気がする。 今年もあいかわらず「神のイヤガラセ」は続いている。
最近また、デカいやつをしかけられた。
イヤガラセにはそれなりに慣れっこになっているから、こちらもそれなりに
ガードを固めているのだが、神はまったく思いもかけぬ方角からパンチを
放ってくる。
その創意工夫の才には驚嘆するほかない。(´・ω・`) 今日の格言
「本は俺を裏切らない」
物は壊れるし、人は裏切る、というか、心変わりする。
活字の本だけは変わらないでいてくれる。 (´・ω・`) さて、春である。
>>188以下で書いたように、春になると決まっていくつかの詩や短歌、
俳句を思い出す。
以下の詩もその一つ。
「わがわざは」 (三好達治)
わがわざは成りがたくして
こころざしほろびゆく日を
近江路に菜の花咲いて
かいつぶり浮き沈むかな
注:
「かいつぶり」は別名「鳰」(にお)ともいう、日本全国でよく見かける水鳥。
「近江路」(おうみじ)で、「かいつぶり」が浮かんでいるからには、
作者が歩いているのは、当然、琵琶湖の湖辺である。 (>>207の続き)
「わがわざは成りがたくして」、「こころざしほろびゆく」は、
「自分の仕事が思うようにいかなくて、心がくじけそうである」ぐらい
の意であろう。
そういう鬱々とした気持ちから逃れたくて、気分転換に作者はふと
小旅行に出かけた、という風に読み取れる。作者は当時、関西に住んでいて、
琵琶湖まで足を延ばしたのではないか。
作者の内面の暗さとは裏腹に、外界は春の明るい陽光に満ち、黄色い
菜の花が咲き誇り、琵琶湖の湖面にはかいつぶりが何の屈託もなさげに
気ままに水面に浮かび、あるいは魚を捉えるために水中に身を没したり
している。湖面はキラキラと輝いている。
前半2行と後半2行の「暗」と「明」の対照が非常に印象的である。
人には誰でもこの詩のような経験があるだろう。
心に暗さを抱えたまま、春のあくまでも明るい陽光の中を歩いていく、
といった経験が。 宗教の人間が玄関にやってきて
「戦争の無い真の平和な世界にしましょう」とか言ってくるので
争いという概念があるからこそ、人は平和というものを認識できるのではないか
と言い返したら黙って帰っていった
俺が小学5年生のときだった >>209は一体どういう意図で書き込まれたのだろうか?
まったく5ちゃん(2ちゃん)にはわけのわからない人がいるものだ (´・ω・`) ウィキペディアでエドガー・ケイシーを見てみたら、どう読んでも
山師かさもなければ誇大妄想狂だった (´・ω・`) 十戒の最初に神は唯一であるってオカシイよな
ひとりだったらわざわざ自身で明言しないはず
例えば自己紹介で、私はこの世にただ一人です。
って説明されたらどう思われるかだ なるほど、それはそうだ
と、最初は思ったが、考え直してみると、やはりおかしい。
その場合の「唯一」は唯一至高の存在である、他に類のない絶対的に
神聖な存在である、とか何とかの単なる強調語であろう。
十戒はもちろん、キリスト教全般に興味がないので、原典にあたって
確かめるつもりはないが。 このスレにいる人達が自分に似ていて
なんか笑えてくる。
深い虚無主義になってくると人としての
感覚が失われていく気がする。
まぁ日常では、あまり心が動かされないから
なのかもしないけど。
恐らく、達観とか悟りとかの境地に辿り着いている人達は皆、虚無主義なんだろうと思った。 >恐らく、達観とか悟りとかの境地に辿り着いている人達は皆、虚無主義なんだろう
>と思った。
文学者で虚無主義者と思われるのは、たとえば、森鴎外、川端康成、前半生の
三島由紀夫などがすぐ頭に浮かぶ。
この人たちを扱った評論などは読む気をそそられる。虚無主義の問題が
取り上げられていることが多いからだ。
(それにしても、三島由紀夫は結局、虚無主義者に徹することはできなかった
のだろうか。なぜ天皇にすがりつくことに至ったのか、その経緯を追究したい
気がする。しかし、俺には時間がない) 宇宙の前は人間の感覚では認識できない空間だった。
空間という言葉も正しくないな。 >>221
俺はあんまり小説は読まないからなあ。
狭い読書経験からいうと、虚無主義者だからやっぱりアルベール・カミュだな。
哲学エッセイの『シーシュポスの神話』は座右の書のひとつ。
新潮文庫のこの本には、蛍光ペンであちこち線が引いてある。
例えば、こういう文章。
「生きるとは不条理を生かすことだ。不条理を生かすとは、なによりもまず
不条理を見つめることだ。」
「こうして、筋道のとおった数すくない哲学的姿勢のひとつは反抗である。
反抗とは、人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。不可能な透明性への要請だ。
反抗は毎秒毎秒世界を問題にする。ちょうど危険が人間にとっては自己を意識
する絶好の機会となるのと同じように、形而上的反抗は意識を経験の全面に
ゆきわたらせる。形而上的反抗とは、人間がたえず自己自身に現前していることだ。
それは憧れではない、それは希望をもたぬ。この反抗とは、圧倒的にのしかかって
くる運命の確信 --- ただしふつうならそれに伴う諦(あきら)めを切りすてた確信
--- それ以外のなにものでもない。」
あるいは、
「人間を働かせたり忙しく動きまわらせたりするものは、すべて、希望を利用して
そうさせている。だから、ひとを欺かぬ思想とは不毛な思想だけだ」
とか。
こうやって引用していると、切りがない。 >>222
カミュいいですね
一見不毛とも、ただの徒労思える石運びの不条理の中に自由と幸福が存在するというかのはペスト患者の看病志願と通ずるものがあるんでしょうかね
もう一度読み返してみます >>224
人間はこうも弱いものなのかというのがよくわかるミルグラム『服従の心理』
虚無の観点からおすすめするならば『フランケンシュタイン』でしょうか。頭を抱えてしまうような何とも言えない読後感です。長編ですが死ぬまでに一度読んで損は無いと思います >>225
レスが遅くなって申し訳ない。
ミルグラムの『服従の心理』かあ。
実は、「一般大衆がなぜ権力者に唯々諾々と従うのか」の問題は前から関心が
あった。
それで、最近出た、ちくま学芸文庫の『自発的隷従論』(エティエンヌ・ド・
ラ・ボエシ著)も書店店頭でパラパラめくってみたりしていたのだ。
積読本が溜まっているので、はたしていつ読むことになるかわからないが、
ミルグラムの本も心に留めておこう。
『フランケンシュタイン』の方は、悪いが、なんとなく気が進まない。映画
その他で、原作と違うイメージが出来上がっていて、そういう娯楽ものに
伴いがちなバカバカしさ、くだらなさという感覚が邪魔をするらしい。それに、
俺はそもそもロマン主義時代の小説全般にあまり興味がないのだ(詩は別として)。(´・ω・`)
まあ、今度本屋に行ったときに新潮文庫その他で文章を確認してみよう。 虚無主義って、仏教の「一切は空」っていう考え方とは違うの? >>227
うーん、そもそも虚無主義の定義自体が厳密に言うと人によってさまざま
だからなあ。
仏教の「一切は空」っていうのも仏教学者によって解釈が違うでしょう。
だから、違うと言う人もいれば、同じと言う人もいるでしょう。
自分で哲学や仏教学を勉強して納得するしかないのでは。
もっとも、虚無主義者の代表者たるニーチェは仏教からインスピレーションを
受けたらしいから、通底するものは確かにあるでしょう。
俺も、俺なりの浅薄な理解の仕方では、結局、両者は同じものと言っていい。
どちらも、世界は無意味である、価値のあるものは何もないということであろうから。 >>228に付け足し
なお、虚無主義と仏教の理解については、唐木順三氏の『無常』が参考になる
と思う。
俺もまだ読んでいないが(笑)
西欧哲学と仏教を同時に論じられる人は他にあまりいないと思う。
近頃の人では、大澤真幸氏が推奨できるかもしれない。
『三島由紀夫 ふたつの謎』(集英社新書)を最近出したけど、その中で
三島由紀夫の仏教観に触れているはずだ。
これも、俺はまだ読んでないが、上の唐木氏の『無常』とともに死ぬまでには
読むつもりである(笑) 虚無主義ではないが、仏教の執着を捨てる心を学んでからは幸福感が増した気がする >>230
そうかね
そもそも人間の存在自体が不幸であると言えそうだけど
(って、なんか中学生の書き込みみたいだな(笑)) 不幸とか幸福とかと言えば、>>222で挙げたカミュの『シーシュポスの神話』
の中におもしろい文章がある。
「…… 。人間の心には、自分を圧しつぶすものだけを運命と呼ぼうとする
困った傾向がある。だが、幸福もまた、避けようもないものである以上は、
これはこれでやはり理性の手には負えぬものなのだ。…… 」
ふふふ、不幸と同様に、幸福もまた思いがげず襲いかかってくるのだ! 幸福に関しては自分からどうとでも回避できるからな
「襲いかかってくる」という不可抗力ともとれそうな程強烈なもんなんぞ、まー無い。
たとえば不意に口を突いて出たよな何気無い一言だけで脆くも崩れ去る事だってざらにある砂上の楼閣。 >>234
そう?
俺はニーチェについて深くは知らないから判断できないな クリスマス(イブ)かあ
今日は雑用を片づけに街に繰り出したけど、昔と違って大して
にぎわってなかったな
(局所的にはすごくにぎわってるところもあるんだろうけど)
もっと若かった時は、おのれの孤独をしみじみ味わうためにわざと
街の賑わいの中に身を紛れ込ませたりしたもんだ
そういう自分にしてみれば、今の街の盛り上がりのなさはちょっと
拍子抜け (´・ω・`) クリスチャンでもないのにクリスマス祝う必要ないよね >>239
まあ、あれはクリスマスにかこつけたイベントのひとつにすぎないですね。
小売業界、デパート業界、というか資本主義社会だから、何でもかんでも
何かを口実にモノやサービスを売ろうとする。
それで、(売ろうとする側が)最初から盛り上がってるわけですな。 クリスマスの話題が出たので、念のため一言。
12月25日は「白梅忌」、すなわち、与謝蕪村の忌日である。
日本の詩歌を愛する人間であれば、忘れてはならない日だ。
その辞世の句は
「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」
である。
絢爛華麗な世界を築いて、日本文学史上屈指の天才である蕪村は、自身の死に
あたっても、このように光輝にあふれた句を成した。
芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」と好対照である。
蕪村は最後まで蕪村であった。 とはいうものの、>>136〜138で書いたように、年末年始の時期となると、
俺が思い起こす俳句はたいてい小林一茶のものである。
言語美という点に限って言えば、名句、秀句が多い蕪村であるが、一方で、
その句からは蕪村の生活ぶりや人となりはまずうかがえない。
そういう意味で、凡人の共感を誘うことが少ないのである。
俺が惹かれ、この時期に思い起こすのは、たとえば、一茶の次のような句だ。
「行く年や身はならわしの古草履」
(句意は、「また今年も終わろうとしている。しかし、自分は、例によって
相変わらず古草履のような、くたびれたありさまだ」ぐらいであろう)
こういう自嘲と諦念の混じりあった感慨をもらした句は、蕪村にはまず見当たるまい。
一茶の句には、そういう、ダメ人間のための伴侶であるかのような句が
少なからず見受けられる。俺の愛読するゆえんである。 もっとも、もちろん、一茶の句がすべてそういう、いわば「品下がれる
(しな、さがれる)」ものばかりであるわけではない。
芭蕉を師と仰いだ一茶である。いわゆる蕉風と呼ばれる、格調の高い句も
一方で枚挙にいとまがない。
その種のものを歳末の句からひとつ挙げると、たとえば、次のような句。
「行く年や空の青さに守谷まで」
(句意は、「年が終わろうとしている冬のある日、すがすがしいほど青く
晴れ渡った天気だったので、近辺をぶらついていたが、気持ちのよさについ
足が延びて思わず守谷にまで来てしまった」ぐらいか)
冬空の澄み切った青さとそれにともなう孤独の影が実に印象深い。
ここでは、「孤独」が「幸福」とほぼ同義である(と、俺には思われる)。
(この孤独と幸福が一致するような境地については>>153、>>154を参照) 彼らは文学史上に名を残す才人なのはわかるけど、俳句そのものがコンテクスト依存強すぎる文学で自分にはあわんわ
守谷って言われても普段どこにいて守谷まできたのか、俳句単体ではわからん
それを言い出すと短詩型文学がだいたいそうなんだが、、 >>190で書いたように、文学は(とりわけ詩歌は)その意味や内容がよく理解
できなくても感動できる。
上の句で「守谷」について知らなくても、この句が心に残る秀句であることは
俺には動かし難い。 >>130で書いたように、昨年の年賀状は5枚超。
今年は、返信賀状を送るのが必要なのは3枚だった。減ったのは率直にうれしい。
来年は何とかゼロにならないか。
相手が察してくれればいいのだが。(´・ω・`) >>248
いや、俺はそんな風にことを荒立てたくないヘタレだから (´・ω・`) あら立つものなのか
周りでもやめる宣言する人いるけど、あっそうっ感じで風景みたいに思ってたが
もちろんあなたとはやめますって言い方じゃなくて、一律やめますってことなら、そういう人なんですねってことで終わりそうだけど >>250
>周りでもやめる宣言する人いるけど、あっそうっ感じで風景みたいに思ってたが
そうなのか。
俺の周りには「やめる宣言する人」がいないので、それは斬新なニュースだ(笑)
(皮肉ではないよ)
(というか、俺はもうほとんど人間関係を断っている。同世代の人間の動向は
さっぱりわからない)
世間的には、「やめる宣言」はそれほど奇異なことではないのか (´・ω・`) 最近SNSでつながってるから年賀状不要と判断する人が多いそうな
年賀状も販売数減ってるし 年賀状とか小学生の頃に1回送っただけだなぁ。
今度、友達に送ってみようかな。
てか、年賀状って何のためにあるのか知らないな。 やってみるとめんどいから、今までやってないならそのままでいいかも >>252
そういえば、俺も昔、取引のあった会社の人に明けましておめでとうと
電子メールで新年の挨拶を交わしたんだった
年賀状の代用という意識は全然なかったが(笑) 仕事の付き合いのある外人からは年末に挨拶メールくる ちなみに、一茶の正月を詠んだ句には次のようなものがある。
「よそ並(なみ)の正月もせぬしだらかな」
句の意味はわかりやすいだろう。
「よその家のように特別な飲食物や、門松その他のきちんとした正月飾り
を用意したりはしない、なんと自堕落な俺の正月であることよ」ぐらい。
おのれの自堕落さを悔悟していると一応、解されるが、一方で、この句は
大都市、江戸で暮らす遊民の気楽さを表現しているものともとれる。
そういう意味で、この句は現代でもふつうに通用する。 引き続き小林一茶の句について。
一茶の年始の句で、自分の特にお気に入りの一つについては昨年、
>>136から138で書いた。
今年は次のやつを挙げておこう。
「元日やさらに旅宿とおもほへず」
これは格別優れた句というわけではないかもしれないが、俺はなんとなく
気に入っている。
句意は、「元日を自分の家でゆっくり過ごさずに、旅の途中でたまたま泊まった
宿にいるが、思いがけず手厚いもてなしを受けている。ありがたいことだ。
まずはめでたい」ぐらいであろうか。
すでに述べたように、一茶は俳句のレッスン・プロとして、また、自分の俳人
としての名を広めるために諸国を巡り歩いた。そういう落ちつかない流浪の
さなかで、思いがけずゆったりと息をつけたうれしさである。
ツライ人生行路の中で、ほんの一刻たまたま平穏に恵まれることがあるものだ。
そういう、凡人にもよくある境地を、一茶はみごとにすくい上げてくれるのである。 面白いスレだ
>>258
昔も年末年始でも宿って開いてたんだな
一茶をもてなしたやつは働き者だな
最近書き込み無いみたいだがスレ主生きてるか? >>260
どうも。 (´・ω・`)
一応、まだ生きておりますよ。
どうもこのスレは書きにくいことがわかってきました。
やはり「虚無主義者」と「読書人」と「一人暮らし」の3つの属性を
ひとまとめにしたのは無理があったよう。
「虚無主義者の読書人」とかのタイトルで文学板か哲学板、あるいは、
「虚無主義者の一人暮らし」か「読書人の一人暮らし」でこのスレに
起てるべきだったのかも。
何となく焦点がうまく定まらない。(´・ω・`)
あらたに立て直すべきかちょっと悩みます。
でも、もうすべてがめんどくさくなってきた。 (´・ω・`) >>263
うーん。それはどうだろう。
まあ、>>263のハードボイルドの定義によるけど。 (´・ω・`)
俺の受け取り方では、ハードボイルドの主人公というのは、何かおのれの守るべき
ルールといったものが確固として心中にあり、それを貫き通すというイメージ。
それを曲げようとはしないから、他人と衝突するし、孤独になる。
しかし、自分の信じるルールなり思想なりがあるということは、それが価値がある
と思っているわけで、この点において、俺みたいな完璧な虚無主義者(すべては
無意味、無価値であるという考え方)からすれば、相容れない。
虚無主義者とは対極的な存在ということになる。 ただ、これはあくまで理屈の上での話である。
実生活で、この虚無主義を貫くと危ないことになる。
カミュの『異邦人』の主人公のように、母親の死やアラブ人の殺害は何の意味も
持たないと考えるような人間であると、そのような人物は現実世界では危険人物
であり、あるいは犯罪者になり、居場所を失うことになるのだ。
したがって、完璧な虚無主義者といえども、すぐに自ら命を絶たず、この世の中で
生きていく限りにおいては、世俗のルールに従わなければならない。つまり
「処世術」として世の中のルールを一応は受け入れねばならない。
また、理屈の上では虚無主義者であっても、感情の方は生き物である以上どう
しようもない。生や死は無意味であっても、母親が死んだり、人を殺したりする
ことはやはり感情的な抵抗があるはずである。
というわけで、理論的には虚無主義者であっても、この世で生きていく上では、
世の中のルールに従い、あるいは、自分の心中に湧き上がってくる自然な感情を
なだめたり、押し殺したりしつつ暮らすほかない。
そこから俺の苦しみが生まれる。 (´・ω・`) ハードボイルドの主人公も虚無主義思想の持ち主であるかもしれないが、現実に
生きていく上で、社会のルールに従い、自分の感情なり美意識なりに忠実であろう
として、その結果、生き方が窮屈になっているのかもしれない。
ここからは、人それぞれであるから、個々に論ずるほかあるまい。 362 マドモアゼル名無しさん (スッップ Sd43-TkUq) sage 2020/11/14(土) 21:29:40.08 ID:/YugWqYVd
コロナになったわ
ただただ必死で仕事頑張ってきた結果がこれって
どこが幸運期なのかな
365 マドモアゼル名無しさん (スッップ Sd43-TkUq) sage 2020/11/15(日) 09:11:21.19 ID:JryEzcpGd
>>363
ありがとう
症状は例に漏れず発熱、咳、胸の痛み、嗅覚味覚消失で入院になった
咳が止まらないのもきついけど、何より嗅覚味覚がないっていうのが牛にとって地獄
何食べても食感のみだから吐き気すらする
洗剤やシャンプーの匂いもわからない
改めてみんなも気を付けてね http://atama-pub.net/kisukura_mumai
ある日突然親に捨てられた「私」。ホームレスになり、どん底の生活の中で“生きるために”ヤクザの道へ・・・「搾取用の子」として育った筆者に、「毒になる親」はどこまでも非道の仕打ちを重ねてゆく。
家に居場所のなかった子供が必死に生き、社会に出てからも騙され、傷つけられようともがむしゃらに生きていく姿を描く自伝小説第1弾。
編集者が涙しながら編集した、必読の書。
著者略歴
季栖倉夢舞(きすくら・むまい)
昭和39年京都市生まれ。10人きょうだいの第2子・長男。幼少時から貧しい家庭で育つ。
高校生の頃、実母に棄てられホームレスに。その後“生きるために”ヤクザの世界へ。現在はヤクザの世界とは完全に縁を切り、執筆活動や料理の研究に打ち込んでいる。 タイトルに惹かれて少し読んだが
この虚無主義者の文から学ぶことは全くないと言うことだけははっきりした
この人が否定する過去の価値観の中には大いなる感動があるのだ
他者を感動させない人が、過去の価値観のを認めないと言っても負け犬の遠吠えだろう
しかし大量の本を読んでもつまらない無価値な人間という結果しか生み出せないのなら
虚無主義者ではなく本人に価値がないから、全ての価値観に価値がないと信じたいという結論に達したのだろう
正直哀れな人 本命を議員にする」という親の介護は施設任せにして値上がりする介護保険料払うのか?
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