>>107の続き)

参考までに、『溶けた魚』の中から一つだけ短いものを引用しておこう。
やや童話風の一編である。

[27]

むかしむかし、ある堤防の上に、一羽の七面鳥がおりました。この七面鳥は、
もうあと何日かすれば真昼の太陽に焼かれてしまうしかなく、そのために
堤防の上にすえられているヴェネツィアの鏡のなかに、こっそり自分の
すがたをうつして見ていた。するとそこへちょっかいを出したのは人間の手で、
これはあなたもうわさにきいていないわけではない野辺の花だった。七面鳥は
冗談めかして、<三つ星>の名で返事をしたものの、もうどこへ頭をむけたら
いいのかわからなかった。だれもが知っているように、七面鳥の頭というのは
七つか八つの面のあるプリズムで、それはちょうど、シルクハットが七つか
八つの反射光をもつプリズムであるのとそっくりだ。
そのシルクハットは、岩の上で歌う巨大なムール貝のように、堤防の上で
身をゆすっていた。堤防はその朝に海がぐんぐん干いていってしまってから
というもの、まるっきり存在理由がなくなっていた。それにそこの港は、
学校に行く子どもとおなじ大きさのアーク灯によって、すみずみまで照らし
だされていたのである。
七面鳥は、この通りがかりの子どもの心をうごかすことができないようなら、
自分もおしまいだと感じていた。子どもはそのシルクハットを見かけたが、
お腹がすいていたので、その中身を、とくにこのばあいは蝶のくちばしをもつ
美しいクラゲを、すっかり呑みこんでしまおうとかかった。蝶というものは
光と同一視されていいものだろうか? もちろん。だからこそ葬列がその堤防
の上で立ちどまった。神父はムール貝のなかで歌い、ムール貝は岩のなかで
歌い、岩は海のなかで歌い、海は海のなかで歌っていた。
そんなわけで、七面鳥は堤防の上にとどまってしまい、その日からというもの、
学校に行くあの子をこわがらせている。