ヘーゲルはエンチュクロペディの「精神哲学」の末尾に、アリストテレス『形而上学』第12回第7章からの文章を一部そのまま掲載している。

『形而上学』12-7。目次。
「永遠的な運動を起こす第一の永遠的な動者は、全くの現実態であるからそれ自らは全く不変不同な実体であり、あたかも思惟の対象や欲求の対象が恣意者や欲求者を(あるいは愛人が愛者を)
動かすように、自らは動かないで他のすべてを動かす。この第一の不動の動者に世界のすべては依存する。
これは善であり、生命であり、不断に自らを思惟・観照している純粋理性であり、これが神である。その観照の生活は全く完全であり、快である。」

↑はあくまで12-7の目次である。
アリストテレスが書いているのは日本語訳(岩波文庫)換算で3頁ほどだが、それをヘーゲルはわずか1頁ほどに短縮して載せている。『精神哲学』という著作の最後にこれを載せているのだ。

自分は卒論がカントなので、アリストテレス-ヘーゲル系の思惟/論理に慣れていない。
だからこういう細やかな機会でも利用して、少しでも接するよう努力しなければならない。

大学時代カントの『純粋理性批判』の序論を読んでいる際に思ったのだが、カントの書き方はまるで、
「もしプラトンが間違っているならば、自分もまた間違っているであろう」といったか、ともかく自分の言ってることは根っこはプラトンと同じなのでケチ付けないでね(はぁと
という意味に取れた。

ヘーゲルにもそういう意図があったのかもしれない。アリストテレス先生が言ってるんだから、基本的にそれと同じことを言ってる私も間違ってないでしょ?ってね。