慧解脱や心解脱というのは、初期仏教の認識で、大乗仏教の特に禅宗ではありません。。

 禅宗は、悟りや見性といったものを基本的に目指すものだから。安田先生もその流れの中で、自己超越を捉えているもの個人的には感じています!

 慧解脱にしても心解脱にしても、原始仏典には詳しく書かれていますが、大乗仏教では『智慧』と言う言葉は極めて曖昧。

 空についての智慧、縁起についての智慧があれば、もう智慧が備わり、慧解脱と捉えてますから。

 また、大乗仏教の場合、そもそも煩悩の滅尽はしません。煩悩即菩提が大乗仏教の旗印であり「煩悩はなくなる必要がない」と捉えています。

 初期仏教はあくまで「悟りという同質の目標を持つ、外部刺激に晒されない出家修行者の環境」を前提に、何よりも「第一に個人的な悟りを✡一般的には目的としたもの」と定義されています。

 これに対して大乗仏教はわかりやすく単純に一言で語れば「自利利他の目覚め、自分も他人もいない無境界の救い」を目的とした道。実際は禅的アプローチか、キリスト教的な浄土系の無我全託に徹する以外はなかなか困難なようですが。