>>620>>625は、日本書紀に記述されている内容を、先走って憶測のみで拡大解釈しているようだ。
また、他の史書との突合もしていない。

武烈天皇紀に、東城王が日本から百済に帰国して王位についたという記述はあるが
東城王自身は、日本書紀によれば百済の蓋鹵王によって日本に派遣されていた昆支(蓋鹵王の弟)の子であって、
「日本の朝廷側で末多王を直接養育した」という記述は無い。
(なお、三国史記によれば、蓋鹵王が高句麗によって漢城で斬られた後、熊津で王位についた文周王の時代に、
昆支は内臣佐平に就任したが、昆支はその3ヶ月後に急逝した。)

また、継体天皇紀や欽明天皇紀には、日系人とも思われる百済側外交関係者の名が見えるが、
その名の記述そのものが音写による当て字であって、字義の訓読による表記ではなく、
どのような出自・経緯・背景を持つ百済側外交関係者であるかは全く不明であるうえ、
それらの人物が通訳を要しなかったかどうかについても、全く記述されていない。