>>421-424

幸太郎は「敗戦国民として償いは当然の義務。それを果たすためには国民の健康が不可欠であり、復興のための生産資材が必要である」と考え、終戦直後の8月20日から25日に東京をはじめ
名古屋や大阪の仕入れ先を訪問し、逸早く仕入れ活動を行いました。
さらに、自ら何をすべきか模索し、新しい時代の変化に対応し
より一層の発展を図るために個人経営の商店から脱皮して法人化を決意する。そこで行ったのは、昭和23(1948)年4月8日の株式会社設立登記でした。開設当時の東京出張所
医薬品や工業薬品
塗料、染料、写真用品の商社として県内を中心にを行っていましたが、昭和23(1948)年11月に県外拠点として初めて東京出張所と新潟出張所を開設します。