常識に疑問を投げかけることが真理の探求だと思っている人が一定数いる。
たとえば、「人を殺してはいけない」というルールに対して「なぜ人を殺してはいけないのか?」と疑問を投げかける。
「なぜ」にも色々なニュアンスがあるが、大抵は「別に殺してもいいじゃん」という含みがある。
これが真理の探求だと一部で思われている。

塩なめさんはこれは真理の探求ではないと思う。
常識とは、自然現象ではなく文化の積み重ねによるものであり、それを支持する人々により成り立つ。
であるから、これに疑問を投げかけることは答えが定まっている自然科学とは訳が違う。
その疑問は、人間に対する反抗でしかない。
政治としては成り立つが探求としては成り立たない。
貴金属の品位を判断する試金石のように、反抗によってルールの境界を見定める方法もあるが、それでは外延的な定義しか得られない。

もし問題を探求したいなら、ルールを所与のものとしていったん受け止め、「なぜ人は『人を殺してはいけない』というルールを作ったのか」というふうに立法者の立場に立って考えなければならない。

たとえば外科学は、解剖によって身体を調べる。