雑談戦記物語 [無断転載禁止]©2ch.net
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ10日間連続出勤だおぉ〜www
一人辞めちゃうと大変な職場だおw 頑張って頑張った先には絵も言われん程の徒労感と虚しさしか残らんのかもしらんけど。
がんば! SSのつづき
ワイね10年前のあの時に選択しなかったもう一つのワイの未来を体験していたんや。
高級なイタリアンスーツを身に纏い高級車を乗り回し、財布に無制限のエグゼクティブカードを持つ未来や。 毎日が夢の様に充実していて、あの時に京子を選んだもう一つワイの現実を後悔していた。 雨がしとどなく降ったその日の夜。
ワイは沙恵の待つマンションの駐車場に車を停めて降り立った、その時。
一発の銃声が鳴り響いた。 そしてワイの網膜に最後に映ったのは、目つきの鋭い男の姿が柱の影からワイに銃口を向けたシーンやった。 ワイは徐々に意識が遠のく中で
「つまりもう一つの未来はこう言うことだったのか?天狗のクソ野郎!!」
とつぶやきながら意識を失つた。 その日、関西で起きた殺人事件を取り上げる夕方のイブニングニュースを見ながら京子は
「なんて物騒な世の中なの?」
と言いながらワイのクローンにお茶を注いでいた。
ワイのクローンは笑いながら
「そやね」と言った。 ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ紗恵たんも大阪に住んでいたとわ
インドにアガスティアの葉っぱがあるの知ってる?
それには自分の未来が書いてあるんだって
スープたんは未来を知りたい?
スープたんの言うとおり今日は気が抜けて疲れがドット出たお
気分転換にドライブ行って来た
藤の花や桐の花が咲いてた
藤の花は紫色と白を見たお桐の花は薄紫色 ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ今ググッたらアガスティアの葉っぱじゃなくてw
アガスティアの葉だったwww
葉っぱかと思ってたおワロタ ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ今ググッたらアガスティアの葉っぱじゃなくてw
アガスティアの葉だったwww
葉っぱかと思ってたおワロタ アガスティアの葉(-は)は、紀元前3000年頃に実在したとされるインドの聖者アガスティアの残した予言を伝えるとされる葉のこと。 アガスティアの葉に書かれたとおりの人生を送る人もいれば、違った人生を送る人もいるという。
そこからアガスティアの予言に対して不信感を抱く人たちが出てくるが、もともとアガスティアは、運命を決め付けるために予言をしているのではなく、道に迷わないようにナビゲーションを行っているだけだという。 3000年の歴史かぁ?
古代タミル語で書かれてる文字を今にあてはめて検証することは出来ないけれど、3000年も続いるのは事実はだよな ナビゲーションとは言いえてて妙だね。
ワイも初めての場所に行く時は車載ナビでルートを検索するけど、車が岐路に差し掛かる度に間違わないように道を選択してくれるね
そこで選択された道は(未知の領域)でもあるんだけど絶対に迷わなくて済む。 けれど、人生の岐路に立った時に誰でも間違わないように選択るとは限らない。 その選んだ道(未知)が正しいのか?
検証することは難しい。
てか不可能だわな。 だから人は生きている限り常に行動や意志の選択を迫られ、死ぬまで悩む生き物なんだろうね。 例えば明日仕事に行く時に普段通る道が渋滞してたとするね。
このままだと仕事に遅れるかもしれないと思い、普段通らない別の道を選択したとする。
その結果、出会いガシラの事故に遭い病院に行くハメになることもあるし、またその逆も有り得る。 そんな風にワイらは何をするにもしても、常に選択を余儀なくされてる日常を過ごしていると言ってもいいだろう。 そんな風に悩みながらもワイら必ず選択せなあかんねん。
そん時はワイの耳にアントニオ猪木の言葉が鳴り響く。
「信じたこの道を真っ直ぐ行け!」はけだし名言やわ。^ ^ あぁ、想像とは大小を問わず世界を駆け巡るものなのかもしれない。 古今東西を問わずいにしえの時より人は、いつの時代も自らの決っして願って止まぬ「想像」を続けてきた。 その過程の中でおそらくほとんどの人々の「想像」がこの世に何の痕跡も残さずに潰えたことだろう。 そんな累々とする人々の叶わなかった「想像」の屍の上に現在があるのだ。 けど「想像」した結果であるそれらの屍は君らがこの世に生きた証でもあるんだ。 次のSSは「屍。」や。
めっちゃ怖い話しになる予定。 つか、1行ずつ小出しにせんと10行くらいまとめて出せや >>580
こんな場末のスレなのにロムってくれてありがと なんかわからんけどワイのiPhone死んだ。
ランサムウェアかも まいった(_ _,)/~~っす。
Androidでとりあえず書き込んでるんやけどめちゃムズいわ。 北朝鮮と中国の関係がもしかしてヤバくね?
中国が北朝鮮を攻めるオプションも今後があるかも おやすみお⌒☆
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
ο┯ο ) キコキコ
◎┻-◎
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ
キコキコ( ο┯ο
◎-┻◎ 源太は桜の木の下で息喘いでいた。
この話はおよそ500年前に時を遡る。
むかしむかし、この地で戦国の戦さがあった。
小作人源太は立身出世を夢みて雑兵としてこの戦さに加わった。
しかし戦さは源太側の戦国大名の負け戦さに終わり、源太は身体中に無数の切り傷を受けながらも山の中へ逃げ込んだ。
人間は斬られただけではそう簡単には死なない。しかし、切り傷による血液が止まらないとやがて意識が混濁化して死ぬ。 源太はもうちょっとで自分の最後の時が訪れることを悟り、力一杯こう叫んだ。
「白飯を腹いっぱい食べてぇ~!」
その一言を最期にやがて源太の意識は無くなり一塊の躯になった。その躯の上を桜は花びらが覆い尽くす春が過ぎ、夏の風はさやさやと桜の葉を揺らし、やがて秋が来て桜の枯れ葉は源太の躯を再び覆い尽くしていった。
何年か過ぎた頃には源太の屍はすっかり桜のの根に包み込まれていった。 近場の村の人々はその山桜の木を源太桜と呼び、春に散る桜の花びらを白飯を降らすようだと豊作を喜受する桜の木として讃えた。 それからしばらくしてある年のこと、雨が降らない飢饉が源太桜の近隣の村を襲った。
稲は枯れ山の植物も枯れて人々は飢えに苦しんでいた。
とある百姓の家も例外ではなかった。
その家に住む4歳の女の子は7人兄弟の末っ子に生まれた女の子だったのでスェと名づけられていた。
ある夜のことスェは囲炉裏で話す両親の会話を聞いてしまった。
「もう食べる物が僅かしかないのよ。どうしようあんた」と母親。
父親は腕組みをして絞り出すように
「仕方がない。スェは間引くしかないな」
スェは去年いた弟がいつの間にかいなくなったことを思い出した。 翌朝、スェは泣きながら家を出た。
行くあてもなく山を彷徨いやがて源太桜の木の下に来た。 スェは空腹と徒労の果てにようやくたどり着いた源太桜の木の下で泥のように眠った。 スェは まどろみの中、両親や兄弟の笑顔と一緒に食べたあの日の白米の味をを思い浮かべていた。 スェはこの期に及んだ最後の時にさえ、父と母の名を呼んだ。 その様子を見ながら既に桜の木と同化していた源太は声にならない叫び声をあげた。
うぉおおおおおおおおおおお。。。。。 さぁ、ここで問題やがこのあとスェはどうなると思う? ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ物語だから好きな様に描けるねお♪w ゚⌒ヾ 。
* ゚⌒"ヾ
* " 。⌒ヾ ゚
゚* ゚ * "。 ⌒ヾ ゚
ヾ " 。 " * )
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▲ノノハ▲ ( つ⌒ヽO
∪川^〇^ハレ |(_■_)
/ | ^~^ ~(_)(_)^
OU_Uつ
⊂zzz⊃━
⊂zzz⊃━ 源太桜は花びらを思いっきり散らし散らされた桜の花びらは途中で白米に変わった。
スェは次から次へと手のひらに落ちてくる白米を握りしめて口へと頬張った
「お、おいしい、なんておいしいの」
やがておないっぱいになったスェは微睡みに誘われて源太桜の根元に横たわったまま眠りについた。 源太桜は優しくスェを包み込みながら葉をさやさやと揺らし続けた。
そうして10年の時が過ぎた >>616
うん大丈夫やで〜
死ぬ一歩手前まで行ったけどね
なかなか治らん風邪やなと思ってたら急性の膵炎つうやつやった >>617
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレしっかり治さないとね
お大事にしてくださいお >>618
ありがとね、もう完璧に大丈夫やで
ワイが死線を彷徨っていた時に麻央ちゃんも死線を彷徨っていたと思うとなんか命の儚さを感じざるを得ないよね
まるで観音さんのように美しい容姿そのままの美しい人生を生ききった麻央ちゃんが亡くなったのにワイの様な糞が死ななかったなんてなんか不条理やと思うわ 此の世の全ての存在は色即是空なんやけど魂だけは空即是色やと思うね >>620
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ
>魂だけは空即是色やと思うね
詳しく教えて
麻央ちゃんのお子さんまだ小さいから切ないね >>622
お釈迦さんが言った言葉やけど「色」が人間の実体を表わしているとすれば無(空)から生を受けて産まれてやがて必ず死(空)を迎えると解釈するよね(色即是空)
そうすると逆に死ぬことは「空」に帰ることでだとすれば「空」から生も産まれる訳だから「空」すなわち「色」である(空即是色)
が成り立つと思うねん
わかりやすく言うと「色」は「生」のことだから「生」は「命」ともとれる
「命」って誰もが知っている言葉だけど果たして「命」ってなんだろう?って考え始めるとこれが結構答えに窮しちゃう
だって人間の「命」って身体のどこにあるんだろうって疑問でしょ?
髪の毛?足の爪?心臓?それとも脳の中にあるのかな? 人間は思考する動物やから例えば脳の中に「命」が宿っているとするならば心臓が破裂したら亡くなる「命」は心臓でもある
同じように血液が流れなくなったら「命」は失われる訳だから「命」は血液でもあるし、肝臓も膵臓も大腸も「命」であると言えるよね
とすれば帰納法的に「命」とは「脳」だけのモノ、ではなく、身体全体を支えて動かす原動力と言えなくもない
つまり一つの個体にたった一つの「命」が宿っているとすれば細胞の一つ一つにも「命」が宿っているはずだし、その細胞を形成するのは原子核の集合体であってDNAを格納する不思議な原子の繋ぎ配列
「命」って誰もが知っているなら言葉だよね
けど「命」ってなんだろう?って考え始めるとこれが結構答えに窮しちゃわない? 「命」は間違いなく存在するモノやけど目には見えない「空」でもあり目に見える無数の細胞「色」を動かす一つ一つの中に宿っているモノなんやけど決して無数にあるのではなくて全体にたった一つしかないモノ
つまり魂とも言えるね
魂は「空」ではあるんだけど「色」の中に存在する 空即是色でもあり色即是空でもある
と言うことは「色」と言う実体が無くなって「空」になったとしても魂というモノは肉体から離れただけの実体(色)として存在するとすれば(空即是色)が成り立つ 麻央ちゃんの魂は肉体を失くしたけど海老蔵の心の中に存在するし、それぞれの子どもの中にも存在するし、我々の心の中にも存在する そんな風にワイ思ったので
>>魂だけは空即是色やね
になった。 ところどころ文章がおかしくて自分でもワロタ〜ところどころ補正して読解してね(泣) 例えば前にも書いたんだけどもしも「私」の足の爪の細胞から「私」のクローンを培養したとする(現在の科学では可能とされているが禁威されている)
そうすると「私」のクローンは「私」と同じDNAをもち同じ姿形を持っているが「私」の「命」とは同じではない
何故なら「私」の「命」は一つしか無いのだから「私」のクローンには「私」とは違う「命」(魂)が宿っているのだろう そう考えると「私」のクローンは「私」の分身ではあるけれど「私」の「魂」とは別モノの「魂」が宿っていると言える つまりあらゆる生物の「種」の中では誕生と死を繰り返す螺旋において「魂」のストックが常にあって「命」が誕生する度に「魂」が割り当てられると考えられる 仏教では「魂」の輪廻転生先は6ステージに分かれているけどワイは違う
「魂」の輪廻転生はその生物が属する「種」の中で必ず繰り返し起こる事象やねん
ダーウィンの進化論は自然淘汰が「種」が進化の理由としたがワイの進化論では「魂」の輪廻転生がその「種」を進化させたとなるねん
もしも「魂」が輪廻転生を繰り返し生物の「種」の保存という命題に向かっているとしたなら突然変異が進化を促すのではなく必然変異が進化を促すという合理的説明が成り立つねん ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ最近麦仏教板で勉強していて
麦は全て実体はあると思っているんだけど
仏教板の浄土真宗の方とか日蓮系の方以外は全て実体はないと言っています ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ色って物質形あるもの全てみたいだお
五蘊皆空
五蘊は色・受・想・行
色蘊(しきうん、梵: rūpa) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。
(例:桜そのもの)
受蘊(じゅうん、梵: vedanā) - 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること)
想蘊(そううん、梵: saṃjñā) - 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること)
行蘊(ぎょううん、梵: saṃskāra) - 意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと)
識蘊(しきうん、梵: vijñāna) - 認識作用(例:「桜」と認識すること)
この世の全ての存在や現象は実体などなく全てのものは空なんだって
今までの経験や情報を脳が勝手にニューラルネットワークから受け渡していてその情報を勝手に見ているそうです
麦は坐禅はやっていないけど
脳が勝手に出している情報を滅して行くと何もない事が分かるそうです
科学的に説明してくださる方もいて麦でも分かるように教えてくれましたお ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレスープたんの言うように体は新陳代謝しているから
全て新しい細胞に入れ替わっている
生死を体の中でも繰り返していているんだおね
だから死んでも生まれ変わるみたい
お釈迦様は苦の解放を説いているので
実体がない事を瞑想して体験出来れば解脱みたい
瞑想のやり方も教えてくれているお
瞬間瞬間がもう過去の事なので実体は無いから苦しくない
ありのままを見ている状態だお >>634
現在の仏教宗派がここまで多いのは何でなんやろうか?
どの宗派も我が宗派こそが仏陀の真理として相譲らないのも何かな?と思うで
どの宗派が正しいのかはわからん位の混沌や
結局、どの宗派も正しくない可能性が微レ存やね >>635
人としてより良く生きるための教えやね
それを素直な気持ちで受け入れられるってとってもええことよね^ - ^ >>636
ワイね、釈迦の悟りとか解脱の本質的な意味はまだまだわからんレベルやね
けどワイが言えることは間違いなく死後の世界はあるし、輪廻転生はあるっつうことやわ
ワイ実際、マジで人の霊を何度か見たことがある(嘘や妄想でなく)
ワイが最近見たのはたまたま通った近所の墓場の前やった
そこに近づいていくとなんやガヤガヤ人の声がして墓場の前で5、6人の人が集まっていた
近づいていくとだんだんと話し声が聞こえてきて、落とし物を拾った拾わないの会話をしていた
ワイとしてはどうでもええ会話なので無視して通り過ぎようとすると奴らの一人がワイに気づきよったんや
つうかワイとそいつの視線があっただけなんやけどね
そいつの顔は今まで見たこともない顔だったので今でもハッキリと覚えている そいつがワイに「よう!」と言った
仕方ないのでワイも「こんにちわ」と応じると周りにいた5人がいっせいに振り向いた
最初のヤツはちょび髭でハゲもおるしチビデブもおるし学者みたいな細面もおった
けど誰一人としてワイが見たこともない顔の人やったんや んでよく見ると奴らの服装が今風ではないことに気がついたんや
ワイ昭和初期の古い写真を何度か見たことあるけど一言で言うとそんな感じのセピア色のファッションやった その時点でワイね
こいつら生きている人間ではなくて既に死んいる霊体やと気がついた
んでちょび髭の奴がワイに向かって早口でまくしたてきたんや
ちょび髭のまくしたてた内容はこうだった
「俺ん家はここの角を曲がって竹薮を真っ直ぐ行って地蔵堂を左に曲がった赤いトタン屋根の家」だと すると一斉に他の5人がまくしたててきてなんやペチャクチャだけの音声が響いてワイ
「うー、うっせーい!!!」
と怒鳴った
するとフッと奴らは一斉に消えたんや
これホンマの話やで^ - ^ ちょび髭の家へ行く道はハッキリと覚えてるけどこの辺りの地ではないワイがこれまで訪れたこともない場所であることはわかった
そんなことが一瞬でわかること自体がなんとも不思議でしょ? 霊がおるっつうことは間違いなく死後の世界はあるっつうこと 死後の世界への恐怖や不安はいつの時代にも誰もがもっていたことやろうし科学がどんなに進んでも解明されることはない命題なんだよね
古代エジプトのピラミッドが造られたことも日本の古事記に死者の国が描かれてることもキリスト教の復活祭があることもイスラム教が死後の世界を現世に約束することも仏教において成仏を約束することも全ては死後の世界を肯定することから始まってんねん
それが宗教が人類の歴史とともにいつの時代においても存在してきた理由や 誰もが前世の記憶を持っているんだがなかなかそれを思い出せないね
けど前世の記憶を思い出す方法がきっとあるハズやと思うねん
ワイ断片的にはワイよ前世を思い出せる時もあるねんけど、、、
それは違うかもしれなくてワイ自身が半信半疑になるほど訳のわからん他の霊体がそれを邪魔するねん 誰もが死ぬ運命なのに誰もが自分だけは絶対死なないと思って生きている
そんでええと思うね(現時点では)
だってそれを否定することは生きてることすらを否定することだからね けどね「死」へのtimer⏱は着実に進んで行くねん^^
おそらく人は死の直前まで自分だけは絶対死なないと思って生きる性質がある 既に死んだ人の魂がワイにそれを言うねん
その都度ワイに「やかましーわ!」と怒鳴られて奴らは消える >>651
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ麦は幽霊見たこと無いけどやっぱりいると思う
袈裟被ったリア友の宗教の知人はご先祖様の様子が見えるらしいお
ご先祖様を取り巻く方々にこんな事があったとか
話し聞いていると宗教団体に入っていると人脈使って色々便利そうだおね
そういう目的の人もいるかも知れないね
スープたんが怒ると幽霊がきえちゃう ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレまた途中送信しちゃったw
文字が小さくなったまま戻らないんだお
色々イジッテ連れにもやってもらったけどダメだった
スープたんが怒ると幽霊が消えちゃうなら
もしも幽霊見えたりしたらしい麦も怒ってみるだおwww
ワロタ ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレっ【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】249 [無断転載禁止]©2ch.net http://itest.2ch.net/rio2016/test/read.cgi/psy/1498647724
スープたんの好きな進化論みたいな事言ってる方がいるお
難しくて分からないけどw >>654
読んでみたら面白すぎのオッサンばっかでワロタ 悟りを開いた人のスレなのに誰一人悟りを開いていなくて笑 まぁ宗教家は大概は平気で息を吐くように嘘をつける人種の集まりやからな笑 ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレスープたんの悟りってどんな感じ?
麦はお釈迦様でも全て悟っていなかったんじゃないかなぁって思うw
宇宙全て知り尽くせないでしょう
宗教板の方々は十二因縁で輪廻転生するから煩悩をなくして執着しない事で解説するって麦は理解したけど
執着しないってタダ精神的に執着しないって事を悟りと言っている気がするんだけど
実際ホームレスにでもならない限りお金にも家にも執着していると思うwww >>658
釈迦が悟りを開いたとされることを釈迦以外の誰かが“悟りとは実はこういうものだ”と体現出来た者はこれまでいないよね
なのに周りの誰もが“釈迦は悟った覚者である”としたのは何故なんだろうか?
麦たんの言う通りお釈迦様でも現在過去未来の全てを悟っていなかった可能性はもちろんある
然し周りの誰もが“釈迦は悟った”と認めたのは歴史的な事実だったんだと思うよ
けどその理由をがよくわからないので色々考えてみたいね 紀元前450年頃の時代背景を考えてみると其の当時においても宗教や神や悪魔は人々の間で信じられていたはずだし、人はなぜ生まれ苦しみもがきながらやがて訪れる死をおそれるのか?という根本的な命題を抱えていたと思うねん 然し釈迦はそれらの命題に対して明解に真理の響きをもって答えたからこそ“悟りを開いた者”として認められたんやね
それを原始仏教において経文という形で原型をつくり始めた
その始まりの原文は今の経文と比較してどうだったのかという興味はさておき、今に残る数々の経文は“悟りを開いた者”しか述べることの出来ない文言として残っているものなんやろね ワイは子難しい漢文やサンスクリット語の聴文を元に書かれた経文の意味をわかってもいないくせに使うつもりはないので経文にはよう触れんけど、今は視覚的に“釈迦が悟りを開いた時を表した”とされる曼荼羅に嵌まっとんねん 曼荼羅はその絵図を見て視角から感覚的に“悟り”を理解するためのものとして仏教では経文とならび立つスッゲエものと思うねん チベット仏教から伝わった曼荼羅は空海が独自に解釈して描き
晩年の日蓮は曼荼羅絵を書くことにひたすらに没頭しという曼荼羅、、、 曼荼羅は読むものではくて見るものなんや
そこから果たして何が見えてくるのか? ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレチベットの砂曼荼羅はテレビで観たことあるけど綺麗だね
深い意味があるんだろうけど分からない
厚手の小さな丸い鐘みたいなのにお水を入れて鐘の回りを棒でなぞると中の水が沢山跳ねて
あれも曼荼羅だった気がします
日蓮たんの曼荼羅は真ん中に南無妙法蓮華経の文字があるけどどの世界にも光を放っているみたいだお
色々な菩薩様や天照大神や毘沙門天や不動明王や仏様神様の世界が描かれていると麦は思いました 曼荼羅を座禅を組んでただひたすらに眺める
これは面白い ワイね
座禅っつうのは一種のイニシエーションみたいなもんでお経とか曼荼羅とかいろいろ条件が整った上で形的には背筋を伸ばして足を組んで印を結ぶ儀式やと思ってた
そうすっとあらゆる煩悩や苦しみから解き放たれてやがて無我の境地にが訪れると勝手に解釈しとったんや
けど実際にじっくりとやってみると違ってた そもそも座禅を組んだら無心の境地を目指すみたいな先入観を持つことが間違いやねん あらかじめにそんな先入観を持って座禅に望んだらあかんね 数息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。 ∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ瞑想にもやり方の種類があるみたいだけど
ご参考まで >>680
麦たんあんがと(*´-`)d=(^o^
参考になったわ 昨日の夜、4号線で車を運転しとったんやけどどうにも眠くなってきて「こらあかん」と思ってバス停のある路肩に車を停めてた
4号線やからメインストリートは車がバンバン通っている
ワイ少し休めば眠気も覚めるやろと思って、おぼろげながらもそのバス停に[○○学院行き]と書いてあるのを見ながら目を閉じていると、しばらくすると時折通りすぎる車のエンジン音に交じって変な声が聞こえてくる
⌈視点が違うな」と
最初は何かの聞き違いやと思ったんやけど次第にそのささやき声がハッキリと聞こえてきた
その時ワイ何言うてんねんコイツ!と思いながらも眠気には勝てなくていつの間にか寝入ってまった
そうするとまた⌈視点が違うな」と後ろの座席から⌈あいつ」の声が聞こえてくる
ワイその声がうざくておもむろに車を発進させた 俺もとなりにに上司が乗ってるのに運転しながら3秒くらい寝たことある
まあ、上司も寝てたから平気だったよね 友達から教えてもらった嘘みたいに金の生る木を作れる方法
関心がある人だけ見てください。
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
DB3ST 時々書き込みに来ようかな。
2ちゃんねる卒業したけど。 夜中にふと目がさめる。
何処かで「ジーン、ジーン」とエアコンの底重音が鳴り響いている。 自由な人生に興味があるなら「立木のボボトイテテレ」についてほんの少し調べればいいと思うの
BEQ 義経がなんでワイのところに来るのかわからない?
よくわからないので義経の勉強することにした。 こないだ夜中に突然壊れた時計の目覚ましベルが鳴り響いた。
「おっ?なんや!」ワイは目覚ましベルを止めた。しばらくするとまた鳴る。 そんで壊れた目覚まし時計をワイは夜の夜中にまんじりともせずに「じっ」と見つめていたらまた、鳴り始める。 「ははーん」これが誤作動っていうやつね。
ワイは妙に納得して再び眠りについた。 しばらくするとまた時計が鳴り始めた。
「ええ加減にせぇよ!」と思いながら、、、これは、、、何か普通じゃないと感じ始めていたんだ。 「おい!」
すると壊れた目覚まし時計のベルが再び鳴るんだ。
ワイはベルを止めてもう一度「おい!」と呟くと再びベルが鳴り始める。
間違いなくこの部屋に誰かがいる、、、。 「コイツ誰やろ?」
ともかく霊が来てるのは間違いないんやが、どうやってコンタクトとったらええねん!ワイは暗闇の中で思案していた。 よく「霊力」って言うけど、これまでワイが出会った「霊体」には「霊力」と言うほどのパワーは感じなかった。
まあワイのこれまでの経緯ではなんつぅか、君らが思っとるほどそこらに現れる一般的な「霊」っつうのはあんまり「力」がないねん。 すごくおもしろい副業情報ドットコム
暇な人は見てみるといいかもしれません
調べたらどうでしょうかね『ネットビジネス 白玉ひろたん』
RBQ ヌエはまだ見えてはいないが奴の唾棄する物体は具象化している。
気持ち悪いが別に怖くはない。 ワイの部屋に起きている異変続いている。
何かがワイとコンタクトを取りたがっているようだ。 まるで猫が吐いた吐瀉物のような物が突然目の前に現れる。
少し生臭さもあるそれは残念ながら幻ではなくて手に取れる物だった。 全ては何らかの「縁」によるものなのだろうか?過去現在未来を通じて。 この世に起きる全ての事象には必ず原因がある。
子どもを見つめる時の慈愛に満ちた父と母の眼差しがある。
同じ時に一方では子どもを見つめる憎しみを称えた父と母の虐待の眼差しがある。
この二つの相反する事象にはやはり因があることを忘れてはならない。
「因果応往にしてこの世を回る律」はある。 とある高僧曰く
来世などない!今ある現世を見つめてより良く生きよ!と宣った。
とある科学者曰く
来世などあるはずもない。バカかよ! 真実はそれを見たものにしかわからないもの
ほとんどの人はそれを目にすることなくやがて生を終える者たちなのだから その半グレが政府や公安警察とグルだったら謝ってもおかしくないレベルの発想しかないから下がってる
長期はほったらかし
デイは滅多にやらないけど短期繰り返してる、気付いたら起きてもグングン上向きだろうが