1957年(昭和32年)1月13日のライスボウルが、初めて後楽園競輪場で行われたのである。それまではこれまで述べてきた通り、
神宮競技場がライスボウルの舞台だった。

その会場が後楽園へ移ったのは、ほかでもない。翌1958年のアジア大会のためである。つまりメーン会場になる神宮競技場が国立競技場
として再スタートするための、改装工事が行われていたからにほかならない。

コンクリートで固められた競輪の走路で囲まれた内側は、球技ができるだけの芝生が広がっていた。芝は枯れていたもののフカフカで、
上々のクッションだった。走路の外側は無論、観客席のスタンドだった。

この競輪場は後楽園球場と並んで建てられていた。つまり現在東京ドームホテルが建っている場所と、東京ドームそのもののスペースである。

白山通りに面して野球場、続いて競輪場。競輪場のメーンスタンドの向こうが小石川後楽園。私にとって学生生活最後の
ライスボウルの舞台はざっとこのような配置だった。

この競輪場は翌58年の元日もライスボウルに使われた。また62年からの3年間も東京五輪開催のために再び国立競技場が
使用できず、結局合計5度のライスボウルがここで開催された。いわばフットボール界としてはこれで競輪界と深いつながりが
できたともいえる。

しかし、だからといって競輪場のフットボールフィールドへの切り替えが次々と実現するわけはない。こういう話になったのは当時、
東京都民の間に公営ギャンブルの廃止の声が上がり始めていたからにほかならない。もしも廃止になったら競輪場をフットボール場に、
フットボールの熱烈な後援者が、こう考えたのも無理からぬところがある。

現実に競輪場の中央の芝生は、フットボールフィールドとして、最適だった。そこでプレーを展開し、采配を振るった者としては、
当然の希望である。

東京五輪も終わって、67年には東竜太郎知事に代わって美濃部亮吉知事が登場する。同知事は公約通り、東京都単独主催の後楽園競輪と
大井オートレースの公営ギャンブルの廃止を決めた。