自分にとって耐えがたいが、しかし、体ごと逃避するわけにはいかない現実状況に接した時、
煙草を口先でくわえれば、自分との間にひとつの遮蔽物がおかれ、状況から一定の距離を保つことが出来る。
さらに口から吐き出される紫煙は自分と周囲を遮る格好の遮蔽幕だ。
 さらに、火をつけたり、灰を灰皿に落としたり、煙草を口先に寄せたり離したりという
煙草を喫う一連のしぐさもこれまたわかりやすいセルフコミュニケーション―――、
周囲の状況から独立して自分のためだけの行動、強い言いかたをすれば自分のための愛撫といえるわけだ。
 つまり「喫煙」というのは、この生きにくい社会という現実から、束の間の逃避をし、
自分を慰撫することの出来る「簡易・ひきこもりの殻」と言い換えることすらできる。と。
   こう考えると、あれだけ煙草の害毒が喧伝されながらも公共の場で喫煙しようとするものがあまり減らないということもよくわかる。
 朝、通勤列車がプラットホームに滑りこむ数分の間にも喫煙コーナーで一服する人。
コーヒーショップ、寒風吹きすさぶ出入り口近くの喫煙席を陣取ってまでも一服する人。
彼らは全て耐えがたい現実にようよう耐えて束の間、自分の殻に浸っているのだ。
 周囲の人間に対して無頓着な喫煙者が実に多いというのもここに由来するのではなかろうか。
 ナルシシズムというのは、本質的に他者の存在をまったく考慮しない自閉的コミュニケーションである。
喫煙という行為がナルシシズムをベースに成り立っているというのであれば、その行為をよくするものが周囲への配慮が欠けるというのはむしろ当然である。
逆にテレビなどで勧めている「他者に喫煙の害を与えぬように周囲を考慮する社会的でピースフルな喫煙」というのは矛盾以外の何者でもない。
 社会的でもピースフルでもいたくないから煙草を喫うのだ。
今の自分にいっぱいいっぱいで、周囲のことの未来の自分のことも脇において自分の世界に浸っていたいから煙草を喫うのだ。
 副流煙の害や二次喫煙など知ったことかと、禁煙ゾーンでの喫煙、同席した相手への一言の了承もなしの喫煙、
さらに雑踏での歩き煙草、吸殻のポイ捨てなどをするものこそ本当の「喫煙者」なのだ。