では>>289のことを改めて断った上で書くけど

一言で言うと「自分の感覚を疑う」ということ
「音が聞こえている」と思っているがそれは「本当なのか?」と疑う
これを「ひたすら」、「執拗に」やる

具体的には、まず自分自身に「耳鳴りが聞こえているか?」と問いかける
「もちろん」、「当然のことながら」、「聞こえている」と(自分から)回答が返ってくる
それに対し「そう答えるのは分かっているが、では『本当に』耳鳴りが聞こえているのか?」
と改めて自分に聞いてみる
それでももちろん「聞こえている」という回答が自分自身から返ってくる
しかしそれでも、「そう答えるのは分かっている、改めて聞くが『本当に』耳鳴りが聞こえているのか?」
と自分に問う
それでももちろん「聞こえている」という回答が返ってくる
しかしそれでも、「そう答えるのは分かっているが、改めて聞く、『本当に』『本当に』耳鳴りが聞こえているのか?」と
自分に問う

それでももちろん「聞こえている」という回答が自分自身から返ってくるだろう
しかし、これはずっと不変のことではなかった

このやりとりを10回ほど繰り返した
すると、
「問う自分」が一切ブレずに問うのに対し、
「答える自分」は次第に自信を無くしていった
いつしか「答える自分」も「本当に聞こえているのだろうか?実は聞こえていないのではないだろうか?」
と、「自分の感覚を疑う」ようになった

今でも耳鳴りが聞こえることがあるが、もうこのやりとりを3〜4回繰り返せばほぼ聞こえなくなる
「『耳鳴りが聞こえると思い込んでいる自分』を『尋問する』」ようなことと言えるだろうか

例えば「錯覚」で画像検索してみると、「止まっているものが動くように見える画像」が出てくる
これは「人間の感覚は信用できない」ということを示す例と言える
「それは目だけでなく、耳についても同じことが言えるのではないか?」と考えて欲しい
「無いものが見える」ことが明らかなように、「無い音が聞こえる」こともあるのだと
そのことを受け入れ、「この音は実際には無い」と思ったら、耳鳴りは聞こえなくなった