■  ■

 3碑の中でも、正史「続日本紀」と記述が一致する多胡碑が特に名高いが、他の2碑も魅力を放つ。シンポでは、古代上野の女性の地位の高さが話題になった。

 山上碑は、僧が母の墓(山上古墳)の隣に建てた供養碑。仏教への帰依を伝える金井沢碑には、
一族の女性の名前が列挙されている。朝鮮半島とは異なる特徴といい、律令制の父系原理とは違う当地の母系の重さを伝える史料と説明された。群馬県=上州の「かかあ天下」と直結させるのは短絡的にしろ、興味が尽きない。

 上野三碑を巡っては、古代だけでなく近世以降にも文化交流のピークがあった。江戸時代、
多胡碑の拓本が朝鮮通信使を経て清朝末期の中国にもたらされた後、金石文研究の日本ブームが起こった。
拜根興・陝西師範大教授は、当時、4800もの日本の金石文を集めた「日本金石志」を紹介。
その上で、清の日本熱の半面、「脱亜入欧」の日本が自らの文化を看過していった歴史に触れ「今、石刻文化を東アジア共通の文化と考える視点が必要」と問題提起した。

   ■  ■

 平川南・国立歴史民俗博物館前館長は「これからの世界は、どの国も多民族の共生社会にならざるをえない。
三つの碑はアジア諸国の文化交流という多民族社会が生んだ。それが1300年も地域社会で守られてきた。
未来への大きなメッセージが発信できる」と、記憶遺産登録の意義を強調し、シンポをしめくくった。【伊藤和史】

上野三碑

 山上(やまのうえ)碑 681年、地元豪族の子孫の僧が母の供養のために建てた。高さ111センチ。完全な形で残る国内最古の石碑。

 多胡(たご)碑 奈良時代初めの711年、中央政権の命令で多胡郡が新設された記念に建立。129センチ。

 金井沢(かないざわ)碑 726年、山上碑を建てた豪族に連なる一族が、先祖の供養と仏教への帰依を誓って建てた。110センチ。

毎日新聞 2017年12月21日 東京夕刊
http://mainichi.jp/articles/20171221/dde/018/040/013000c?inb=ra