「上野三碑日中韓国際シンポジウム」で紹介された「多胡碑」(右)は、新羅の真興王が568年に建てた「磨雲嶺碑」(左)とそっくり=東京都江東区の東京国際交流館で
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上野三碑
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 群馬県高崎市の古代石碑群「上野三碑(こうずけさんぴ)」(いずれも特別史跡)が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の
「世界の記憶」(世界記憶遺産)に登録された。東アジアの文化交流をキーワードに、豊かな地域色と国際性の双方を実感できる史跡として関心が高まっている。

 まずは現地へ。3碑とも覆い屋で保護され、通常はガラス越しの対面となる。多胡碑は平地、
他の2碑は山の中腹という立地の違いはあるが、直径約3キロの円内に収まる。3碑を結ぶ無料の巡回バスに乗ったら、それぞれ15分ほどの距離。

 この近さ自体が実は驚異的なのだ。日本には平安時代以前の石碑が18基しかないが、うち3基が集中する点に固有の地域事情がうかがえる。
9、10の両日、高崎市と東京で開かれた登録記念の国際シンポジウム(上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会など主催)から見えた土地柄とは−−。

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 当地の古称「多胡郡」に答えが見え隠れする。「胡」とは異邦人。つまり、渡来人が多い地域だったわけだ。
前沢和之・同推進協委員によると、朝鮮半島から渡来した人の遺跡が多く、3碑も新羅の石碑によく似ている。
前沢氏は「在来の人と渡来人が共生する歴史があった。その伝統の下に新羅由来の石碑という新技術が理解され、全国に先駆けて石碑群が造られた」と解説する。

 高い密度で碑が建ったとしても、後世まで伝えられたのはなぜか。新羅史の権威、朱甫暾・慶北大教授は
「永遠に残し、内容を人に読ませることが石碑を建てる意味。時に崇拝や信仰の対象になる」と指摘し、「上野三碑にもその側面があるのではと、現地を訪れ強く感じた」と述べた。

 実際、多胡碑に関しては、建立者とされる渡来系首長「羊」に由来する羊太夫伝説が地域に根付き、碑も「羊様」などとあがめられてきた。