ビートルズはなぜ解散したのかPart19 [無断転載禁止]©2ch.net
これだけやっても真相はでてこない...。
※前スレ
ビートルズはなぜ解散したのかPart18
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/beatles/1453644066/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvv:1000:512 EXT was configured >>374
じゃあ、イマジンだけ聴いたらええやんwww >>374
「ポールにはイマジンのように歌い継がれる曲はない」
←だから何?才能があってもイマジンより有名な曲を書けない人はいっぱいいるが。
何が楽しくて毎日そんな下らない事書いてるの? >>375
> ポールは映像監督を買収して
アップル・コアの出資者であるポールが自社で制作した映画のギャラを監督に
支払うのはあたりまえやんwww そもそも映画撮影のアイデア出して準備をしたのはポールだから
買収も何も、ポールの言うとおりにやって当たり前 ポールが張り切って他が嫌気さしたって言うけど
ブライアンが死んでから、もうジョンが完全に塞ぎこんでやる気なくしてたんだから
そうなって当然かと
ポールが張り切らなかったら、もうビートルズはその時点で終わってた
ジョンの中ではブライアンが死んだ時に終わってた グループが険悪になったときにポールが指パッチンで笑かしていれば解散はなかったというのが定説だ 歌い継がれる名曲はビートルズ時代に沢山作ってる
イエスタディ
ヘイ・ジュード
ブラック・バード
オー・ダーリン
レット・イット・ビー
これらは全てポール一人で書き上げた曲
逆にジョンは、スタンダードになってる曲はビートルズ時代には書いていない 当時は、ジョージやジョンはポールのやり方に反発してる最中で
次のマネージャー候補に舅出してきた時に
2人がポールの権力が強くなることに反発して
ジョンが推薦したクラインに賛同したんだろ
クラインは負債処理能力はあるが、自分の懐に入れる様な奴だったし
それが発覚したとき、不満を持ったポールが解散宣言しただけのこと
マネージャー問題が一番の原因だ >>384
ヘルプ
涙の乗車券
デイトリッパー
レイン
インマイライフ
LSD
なんかは? ジョンは基本的に、作詞と基本的なメロディーまでで
アレンジや仕上げは、全てポールやマーチン任せ
ポールのように一人で全部仕上げて作った曲は殆んど無いよ >>385
解散宣言というか、「クラインを解雇するまで一緒に仕事はしない」と他の3人を提訴したんだよ
それが結果的に「脱退宣言」と新聞に載ってしまって、事実上解散しか道が無くなった >>388
ポールも協力してるだろうが、基本的にはジョンの曲だろ。 >>391
いや、あの曲でジョンが言ってるのは
ミドルの「Life is very short〜」というパートを書いたというのみ
そのあとのワルツになる部分はジョージのアイデア sgtペパー以降は、ポールとジョンの製作ペースがどんどん開き始め
ホワイトアルバムで8トラが導入されると、真っ先にポールが一人で曲を作るようになった
もうバンドで演奏する必要が無く、マイペースにどんどん作っていった
ジョンは、ブライアンが急死してから完全に創作意欲を無くし
ポールに催促されてやっと1,2曲作る程度で、主導権は完全にポールに移ったんだよ
J「ポールは自分が10曲作ったから、さあアルバムを作ろうと言い出したんだ」
「ちょっと待ってくれよ俺も何とか数曲作るからって感じだった」
「その時思ったのさ、もうこんなのやってられない・・・どうでもいいやってね」 >>388
ビートルズのキャラクター戦略というのがあって、
ポールは優等生キャラという決まりだったんだよ
ノルウェー製家具の歌のエピソードを実際に体験したのもポールで
ジョン作とされているこの曲もポールが作っている部分の方が多い
デイ・トリッパーも同じ。だからプロモではポールがメインで歌っている >>393
そのジョンのコメントは、解散直後に行われたローリングストーン誌のロングインタビューだろ
アーサーヤノフのプライマル療法の影響が抜けてない時期で赤裸々な部分が影響したコメントが多いと言われたが
今思うと、コメントの多くは単純に赤裸々な悪意の方が思いきり表出した印象だがな
ポールからすると、締切を過ぎても曲を書く気が一向に無いジョンに呆れていたというしな
単にポールの創作力が日に日に上がるのを嫉んだのと、当時ドラッグに嵌りこんでいたことの負け惜しみだと思うよ
ポールは創作力があがったわけでなく旅行やメディアを多く出て触媒する機会を増やしたからアイデアが湧き出た
ことをなんかの雑誌でみた。米西海岸のフラワー&ピースも観てサージェントのヒントを得たらしいし
ジョンはブライアンの急死の前からとうにやる気がなかった。正確にはコンサートやめて家に引きこもって
昼寝かテレビばかりみていた。おまけにすっかり飽きていたシンシアにはもう魅かれることなかったし
ブライアンのせいにしたり、ポールの横行ぶりをクローズアップさせるため話を盛ってまでジョンは逃げていた
まあそれでもストロベリー、ルーシーインザスカイ、アディインザライフ、ウォルラスとこの時期のジョンは傑作も多い たしかにそうだな
>ポールは自分が10曲作ったから、さあアルバムを作ろうと言い出したんだ
って言っても考えてみればレコード会社との契約ってものがあるわけで (・ω・) 推測やが、
ポール以外のメンバー「財産もできたし名前も売れたんでもうこれからは人に指図されて仕事したくないのぅ。」
ポール「でもビートルズの名は消したくないんや。ビートルズに誇りを持っとるんや。」
ジョン「面倒クセーよ、それにオメーいつからビートルズの仕切り屋になったんや?」 ビートルズが余りにも成功したからじゃないかな?
20代で余りにも富と名声を得てしまったのでバンドを続けるモチベーションが
無くなってしまったんだろうな。
「レットイットビー」の写真を見るとメンバーがすっかり老け込んでしまって20代の青年に
見えない、30代後半の中年見たいな感じに見える。
Sgt以降はビートルズはポールのバンドになってしまったのだが
「レットイットビー」の中でポールとジョージが口論する場面があるが、ポールの態度はかなり
横柄に見える。 四人がまだまだ若くて大人の解決が出来なかった。
偉大すぎて見過ごしがちだけど、大成功はしてもビジネス社会から見ればたかだか30前の若造だよ。
みんな忍耐も冷静さも足りない生意気ざかりの年ごろ。
って考えると、エプスタインの死後、後釜になれる玉に出会えなかったのが理由だな。 >>395
それは恒例のジョンの死後のポールの捏造発言。
ノーウェジアンウッドは、サビ以外はジョン作ということでジョンも周囲も一致していた。
ボブディランにフォースタイムアラウンドで皮肉られたことに反応してたのはジョンで、
ポールは蚊帳の外。
ポール作なら、ポールが反応するわなw >>401
ブライアンはビジネスライクになりきれなかったところがあって甘い面もあったらしい。コンサート活動停止を容認したところにも
そこが伺える。ただ単純なビートルズ愛ではなく、彼らの個性を把握しそれに沿って考えマネージメントをやってきたらしい
ブライアンの死後、アップル立ち上げ、誇大なコミューン思想を掲げ、詐欺師共が集結してたちまち破綻しちまった
どうにもならなくなったとき、ポールはリンダのでしゃばりを抑える条件で、弁護士やっていたリー・イーストマンを雇えば
事態はいくらかマシになったと思えるがどうだったかな。ポールへの反目は山師のアランクレインを雇うぐらいのものだったから
あと解散要因なのか諸説があるが、ヨーコのでしゃばりは、バンド内のコミュ障害を産んだことは確か コンサート活動の停止は容認したんじゃなくて、コンサートが出来なくなったんだろうね。
レコーディングした曲がライブで演奏出来なくなったし
66年のセットリストを見ても古い曲ばかりやってる。
キリスト発言、や色々な問題があり過ぎて限界がきたんだろう。
ミックジャガーは父親は学校の先生でビジネスの才能がありストーンズの事実上のリーダーとしてバンドの運営を上手にこなしているが
ビートルズのメンバーは誰もビジネスの才能が無い。
アップルを立ち上げたけど散財してしまって結局、ビートルズはレコードを作る事
しか出来なかった。 70年以降にビートルズが存続した場合
ジョンの思惑通りの姿 プラスティックオノバンド
ポールの思惑通りの姿 ウィングス
つまり解散してソロになるのは避けられず 66年はイメルダ・マルコス夫人の朝食会をブライアンが断ったら、暴徒が暴れ警察も警護せず、殺されそうになったし
アメリカではジョンのキリスト発言が盛られてKKKに火をつき、ビートルズバッシングは滅茶苦茶なレベルになった
コンサート中、爆竹が投げ込まれる、不自然に照明が落ちたり、連日の脅迫に特にジョンは参ってしまったらしいな
メンバー(実はポールは反対)が提案したのは、無期限と明言しないものやる気が湧くまでコンサート再開しないことだった
66年当時ロックバンドの基本概念はコンサートが主で、レコードはオマケみたいななもの
コンサート用の新曲を用意して、新しいセトリに対応したレコード作成が求められていた感じだったものだが
同年発表したリボルバーはコンサートで当時の音響技術では演奏できない曲ばかりで構成されて
ビートルズの方向性は明らかに変わりつつあった
この頃考えていたブライアンの戦略は、イギリス勢だけでなく、ジミヘンなどアメリカ人もイギリスで契約して逆輸入で
アメリカへ送り込み、音響のしょぼさも改善されたロック専用の大規模の施設をロンドンに作ることも考えていたらしい
このムーヴメントの中心にビートルズを据えたかったが、メンバーに拒否られてショックは計り知れなかった
翌年ビートルズとの契約更新が控え、彼等に切られるのではないかと不安にさいなまれ
精神障害に陥ったブライアンは薬物過剰摂取が原因で死んでしまった やることなすこと大当たりして行く先々に女の子や若者がお祭りみたいに殺到して社会現象を起こし国賓待遇で各界の著名人と談笑し…等々、そりゃ20代前半にして無敵状態になるわの。
その反動としての厳しいバッシングも起こるわの。
もはやエプスタインみたいな敏腕とは言えど所詮ビジネスマンには手に負えんほど個々もグループとしても肥大化してまったのぅ。
それらを収集するには'60年代後半のカルチャーはあまりにも多岐に広がったというか混沌としてきたし。
分裂するか小さく纏まるかしかなかったんやないかの? 戦犯がヨーコとかポールとか魔女裁判的な気がする。
(・ω・) つまり分裂は必然。 優れたソングライターが3人(ジョージが才能を開花)もいれば、そりゃ遅かれ早かれ
解散するわ。よく頑張ったと思う!それ故ビートルズは唯一無二のバンドなのだ!
ストーンズみたいにミックがボーカルでキースがギター、みたいに役割分担出来れば
良かったけど、ビートルズは全員歌えるコーラスグループでもあるし!
エゴイストが3人いたわけだ! ビートルズがコンサートを辞めるのを本気で考えだしたのはフィリピン公演が終わってから。
余りにもひどい仕打ちにあったのでもうコンサートはやりたくないとメンバーが言い出したのだけどブライアンがシェアスタジアムコンサートをキャンセルしたら100万ドルの違約金が発生するのと言うので8月の北米ツアーが強行された。
そこで例のキリスト発言の問題で又、ひどい目にあったのでメンバーは2度とコンサートはしないと決めた。
だからコンサート中止は無期限という事。
ブライアンとビートルズの関係はずーっと良好だった。
ブライアンの死は事故だった。
酒と睡眠薬の過剰摂取だった。
当時は有名人でそういう死にかたをする人間が多かった。
現在からみると薬物に関する規制が緩かったからね。 後年は誰がリードギターか分からなくなったと言われたようなビートルズは。実はそれだけじゃないけどな
更にドラムもジョンまでが誰でも良くなっていた
ジョン&ヨーコのバラッドで険悪なはずのポールに頼んでいるし
皆が皆(リンゴは除く)ソロアーティスト化して、腕がいいか、ウマがあうミュージシャンを頼んでいるからな
ジョンは自分の声が嫌っていてハモり入れて目立たなくすることに若いころほど躍起だったが
解散前はむしろお前はここでハモるなみたいな感じだったな、ホワイトから露骨になった
いまでもポールのワンマンがよくスケープされるが、本当のところみんながワンマンだったな >>408
ですね。同じようにソングライターが三人いた
バッファロースプリングフィールドなんて二年ちょっとで解散なんだから
それに比べれば…っていつも思います。逆に最近のバンドは初めから
役割分担決めて安定経営みたいなのばっかりだからつまらん、というのは
年寄りの愚痴になってしまうのかな。 「ヘイジュード」の最初のリハーサルの時にイントロでポールが歌うとジョージ
がギターでラインに返してきたけどポールはここは「ギターはいらないシンプルにいきたいんだ」と言うとジョージは「ああそう、ハイハイわかったよ」と
言って、そういう雰囲気になってきた。
ポールの言うことが気に入らなかったんだね。
ゲットバックセッションでは
ポールがジョージのギターソロにまで口出しするようになってきたのでジョージはもううんざりして一時バンドを抜けてしまった。
「ゲットバックセッション」ではジョージもジョンもバンドを抜けたがっていた。
そんな状況でポールが何とかバンドをまとめようとしていた最悪のセッションだったね。 ヤーヤーヤーやヘルプみたいな和気あいあいした演技より
(・ω・) レット・イット・ビーみたいな彼らの相互関係や制作現場のリアルを見たいのぅ。アンソロジーで断片的には見られるが アイドル時代のインタビュアーを食ったようなふざけたやりとりか、レリビーとアンソロジー以外では4人が素でやりとりしてる印象ないな
個々でお互いのことを誰かに話してるのが多い気がする 昔、映画館で「レットイットビー」と「シェアスタジアムライブ」の2本立てを
上映していた。
「レットイットビー」はとにかく暗い映画なので見てがっかりした。
ああゆう悲惨なセッションでも音楽だけは素晴らしい物を作れるのだからビートルズ
は凄いと思う。
映画の「レットイットビー」は版権の関係で凍結されていて、上映やDVD化は出来ないらしいね。
「シェアスタジアムライブ」は音をイギリスに帰ってから録り直しているので
口と声が合っていないのでこれも見ていても良くなかったな。
当時の技術ではクリアーなライブ録音が出来なかったようだ。
これは翌年(66年)にBBCで放送されたもの。 >>413
同感で、ビートルズ解散まで、万年2位でしかなかったストーンズが超優良企業として生き残ったのは
その後のロックの発展にとってプラスになったのかね…
バンドカラーががっちり、それなりに人気を得ると解散のリスクよりは安定経営に励む長寿バンドが増えたのは確か
日本での洋楽人気がさっぱりになったのは、大御所ばかりがのさばり、肝心の音楽での活気や
衝撃が万国的に伝わらなくなったのもあるかな。個人的にはオアシス(全盛)以降のものは聞いてないな
興味を持てばいいやつもあるんだろうが、万民への人気と質が長続きしないから知らないで終わってしまう
あとネット社会になって情報過密過ぎになって、独自色を出してもすぐに追随が可能なところもあるのかね ホームページ(HP)に不正にアクセスして閲覧できないようにした。
として、兵庫県警サイバー犯罪対策課と灘署は22日までに、 不正アクセス禁止法違反(不正アクセス行為)と神戸市の製作会社NEMOTO 株式会社ねもっと。
自称ウェブクリエーター根本義(ねもとつとむ)容疑者(31)アップルラボ神戸を送検した。
逮捕容疑は、昨年12月〜今年1月、根本容疑者が直前まで勤務していた神戸市灘区のHP制作・管理会社のHPに不正にアクセス。
同社と、同社が管理する遊具製造会社など計3社のHPのデータを削除して閲覧できないようにした疑い。
同課によると、サイコパス つーちゃんこと根本容疑者は昨年11月に解雇され、「解雇に腹が立ってやった」
と逆恨みの容疑を認めている。 同12月、制作・管理会社が被害に気付き、灘署に相談。
3社のHPは今年3月に復旧したという。 >>418
ストーンズはマネジメントに関してはビートルズより数段上手。
63年のストーンズの契約はレコード売上の6%を印税収入として受け取り
レコーディングした楽曲のマスターテープはストーンズが所有すると言う契約で
63年当時としてはとても賢い契約だった。
ビートルズの場合はジョンとポールの楽曲の著作権はディックジェムズが代表を務める「ノーザンソングス」が管理した。
ジョンとポールの印税収入は1%と言われいるし、印税収入の25%は代表者のディックジェイムズが受取る様になっていた。
ディックジェイムズは何もしないでレノン、マッカートニーの楽曲の25%の印税
を受取る事になる。
しかもディックは69年3月に曲の版権をATVに売ってしまった。
この事が後々になって色んな問題を引き起こす要因になってしまった。 >>420
ディックジェームスは元ミュージシャンで出版社を経営してパブリッシャー。
多くラジオでビートルズの曲をラジオに流してもらうため、ブライアンがジョンポールへ提案したことから始まったと思う
問題は契約内容。株式比率の50%ディックらが所有し、ジョンとポールはあわせて20%足らずだった
ジョンとポールは細かいからくりなど気にしておらず、10%株主でもあるブライアンを信用していたので
ディック何某がどうであれ、いつしか遺産のような形で自分達に全ての版権が入ると軽く考えていたフシがある
騒動の発端はブライアンが死んでから。ジョンとポールはこの機会に版権を全て買収しようとディックと接触を試みるが
ふたりの不仲が進行しバンドが解散臭がするぐらいのレベルでガタついているのをディック側は見て取り
ATVへ売る戦術に出た。近くビートルズが解散すると想定し売り抜けようとしたわけでいろんな意味でディックは上手だった
あとあまり知られてないがこの騒動の最中、ジョンはポールとのが株比率が自分と等分でないことに気づく
ポールがジョンへ黙って株を買いあさっていたことがバレて、ジョンは当然激怒
ジョンからすると、ディックも許せないが、ポールも俺を出しぬいて版権を手中に収めるではと強い疑いを持った >>421
あの件ではポールちょっとまずかったね。
ポールのファンとしては残念な一件。 ポールからしたら自分の方が張り切って仕事してるのに取り分が平等では納得いかなかったって事か? クオリーメン時代からポールはギャラに関してのドケチさは何も変わってないな ディック・ジェームスは自分の株をATVに売るときにジョンとポールに打診しなかった
これは汚い行為だ
ジェームスは誰のおかげで大金持ちになれたと思っているんだ
ジョンとポールはクラインのもとで対抗入札しようとするが失敗
ATVはちゃっかり経営陣の代表にジェームスを据えたという ディック・ジェームズはビートルズとの関係は良好だったけど69年になって
ポールとジョンがノーザンソングスとの契約延長のサインを拒否した事、
ディックが「ゲットバックセッション」が行われているトウイックナムスタジオを
訪れた時にジョンとポールの仲が冷え切っていて今後仲良く創作活動をすることは無いと直感的に感じた事、新マネージャーのアレンクラインの評判の悪い事は以前から承知していたし何回か会っていたがその態度の悪さにうんざりしていた。
だからもう手を切るべき時が来たと確信した。
だから自分のノーザンソングスの持ち株37%をATVのリュー・グレイド卿に売る事にした。
ビートルズ側はATVに対抗して株を買い占めるために現金が必要になったのでジョンとポールがノーザンソングスの株を担保にして金を用立てる事になったのだけど
この時にポールがこっそり株を買い増ししていた事がわかってジョンとポールの亀裂
は決定的になってしまう。 ビートルズ ラヴ・ユー・メイクを著者の元ブライアンのアシストであるピーターブラウンの目から見たものかな?
確かに黙って大金をせしめることが出来る立場にいたディックはジョンポールのみならず多くのファンもけしからんだろう
が、リバプール出身のビートルズがデビューした時はレコードの売りあげのためにそれなりの分厚いい支援が必要だった
わけで、その点ではそれなりの役割をディックは果たしたと思う
ジョンポールは、著作権制度や市場主義の原理(株式会社制度)などについて、ヒューマンマネージは一流でも
ビッグビジネスにおいてそれほど有能でないブライアン任せで、ロクに学ぼうとしなかった時期があったのも事実だろうから
莫大な印税の多くをパクられたにせよ、騙された側にもそれなりの原因はあったと思う 427の続き
ちなみに版権を獲得したATVは81年にACCへ売却。ジョンの死後、ポールはヨーコと連携を図り買い戻すことを画策するが
買収額を聞きヨーコが消極的だったことから撤退した。過去ジョンを怒らせたことなどよぎって版権を一人占めすると悪評が
立つことにためらいを感じたからだ(ビートルズ遺産を守るために、やっても良かったと個人的には思うが…)
その間、ACCは切り売りは何度かして本体の音楽出版権「ノーザンソングス」をマイケルジャクソンへ売却
ポールは激怒しマイケルと絶縁。やがてマイケルは堕落(幼女虐待疑惑、放蕩三昧)の末、2009年死ぬ
ノーザンソングス物語は、「1978年以前に製作されたコンテンツの著作権は56年後に作曲家の元に戻る」という
アメリカ著作権法に従い、2026年にはポールの手の元に戻る予定で今取り戻している最中だと思う… ストーンズの場合は63年9月11日にグループの曲の版権管理のために「ナンカー・フェルジ・ミュージック社」が設立されて、64年7月1日にはグループの
マネジメントをする会社「ローリングストーンズ社」が設立されている。
ストーンズは不良グループでビートルズは優等生グループと言われているが
、実際のところストーンズのメンバーはブライアン・ジョーンズを除いては金銭に関しては堅実だ。
ミックとキースの楽曲の印税はそれぞれの銀行口座に直接入る様になっていたので
彼らの口座残高はどんどん膨れていった。
ビルとチャーリーは元々真面目な性格なので浪費はしない、しかしビルの月給は
65年当時で200ポンド(日本円で20万円程度現在の貨幣価値にすると120万円位)しかなかった。 流石ミック
伊達にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス卒業していないな ☆ 私たち日本人の、日本国憲法を改正しましょう。現在、
衆議員と参議院の両院で、改憲議員が3分の2を超えております。
『憲法改正国民投票法』、でググってみてください。国会の発議は
すでに可能です。平和は勝ち取るものです。お願い致します。☆☆ アビーロードの有名なジャケット写真は
メンバーが例の横断歩道を何度か往復して撮影された
どの写真を使うか選ぶときに4人は当初それぞれ異なる写真を
候補として選んだが一つ共通していることがった
それはどの写真も(正式採用されたものも含めて)
スタジオに向かう4人ではなくスタジオから去っていく姿だったのだ
(エメリックの回想) ピーター・ドゲット著 ザ・ビートルズ 解散の真実
2014年発行の本
邦題こそ「解散の〜」だが、原題の(アビーロードのポールの曲)
「You never give me your money」のとおり
ツアー中止の66年頃からitunes配信(リマスターCD発売)の頃までの
金に絡んだトラブル視点での著書
メンバーや関係者の発言・証言も、過去を振り返った回想よりも、
当時の(それに近い時期)の発言に重きをおいて採用しているのが特徴
ちなみに4人ともすごく嫌なやつ ビスケット事件は
自前のビスケットをヨーコにつまみ食いされた
ジョージが切れた・・・までしか語らないことが多いが
伏線はアビーロードセッション中に交通事故にあった
ジョンとヨーコが復帰したときにベッドを持ち込み
そこにヨーコを寝かせていたことだった
「歩き回ってつまみ食いする程元気があるなら
あの糞ベッドをとっと捨てやがれ」というジョージに
ジョンは気まずそうにするだけで何も言い返せなかった
(結局最後までベッドは置かれていたが) 4人とも独りよがりで子供っぽいな
ポールは後期ビートルで才能を開花して大ヒット連発なのに
人間関係で大エラーを犯すし
ジョンは今だとオワコンと言われかねない意味不明な行動ばかり
ジョージ、リンゴも御多分に漏れず不平不満を隠さず文句ばかり
分別ある大人に誰もなれてない
これが世界最高のいや空前絶後の世紀のロックバンドだからなー
逆に大人の集団だったらこんな奇跡を演出できてなかったかもね 今基準だとあり得ないほどグダグダ、ドロドロだな。ただ解散まで公式の写真などみるとオーラが凄さを保っているな ポール
「ヨーコはいつも平気で自分も写ろうと写真に入り込んできたが
誰も(フレームから)出て行ってくれとは言い出せなかった」
そしてシングル「ジョンとヨーコのバラッド」US盤のジャケットでは
初めて4人+ヨーコの写真が使われしまった ホワイトアルバム以降に、ジョンは本格的に
スタジオにヨーコを同伴するようになったが
ヨーコが一人でトイレにいっただけでも激しく動揺し
トイレの前を離れなかった(その逆もしかり)
勿論他のメンバーもスタッフもドン引きだった
しかしジョンが自らヨーコを置き去りにしたこともあった
「アビーロード」の「ジ・エンド」の3人でのギターソロのときだった
他の曲とレコーディング同様、当然のようにマイク近くまで一緒に
行こうとするヨーコに「少しここで待ってて」と言った
ヨーコは信じられないといった表情で傷ついた様子で一人待っていた
ジョンも、これが最後(ジ・エンド)だと解っていたのかもしれない ジョンは自分の口で解散を発表したがっていたが
キリスト教発言で痛い目を見ていたので、解散の責まで
負わされるのは、真っ平ご免だった
そこでジョンは知人のレイ・コノリーという新聞記者に
「とっておきのスクープを教えてやるぜ
俺たちはもうとっくに解散してるんだ
でも、俺がいいというまで記事にするなよ」
とリークした
コノリーはその後何度かジョンにもう記事にしていいか
尋ねたが返事はその旅に「まだだ」だった
ジョンはこの記者が無断で記事にすることを期待していたが
コノリーは罠だと気付いていた
そのうちポールが脱退を公表するとジョンはコノリーに
「なんで俺が言ったときにすぐ記事にしなかったんだ」と
激しく罵倒した
そしてジョンの懸念どおりポールは解散の責を負わされ
ジョン自身もポールを解散をアルバムの宣伝に利用したと批難した
「ちくしょう俺が先にあぁやれば良かったんだ
全くあいつは世界一優秀なセールスマンだぜ」 レットイットビーの再編集でアランと結託しスペクター盤を施して
ポールの曲をぐちゃぐちゃにしたから彼が追い込まれてあの手段に出たのはよくわかるけどな
まあ独りよがりなソロアルバムについていたQ&Aは幼稚だったけど…
それを持ってみてもあの頃のジョンはいつもにましてノイローゼ級の情緒不安定 >>441
当時のジョンはヘロイン中毒だったということですから ヨーコは4人の絆、というよりジョンとポールの絆を引き裂いたが
ジョンにとっては必要な人物だった
後にポールも認めているようにヨーコがいなければイマジンも
生まれなかったし、実際に共作者としてヨーコはクレジットされた
ツアーを中止した後、ジョンはストロベリーこそ
会心の出来だったがその後スランプに陥ってしまった
サージェントには、数曲提供したものの、完全にポール主導の
アルバムであり、それが過去最高の賞賛を受ければ受けるほど
ジョンは自分の創作活動に益々行き詰まりを感じていた 愛と平和と言えば今でこそジョンの代名詞だが、平和運動の
著名な活動家(バートラッセル)と最初に交流したのはポールだった
ジョンも関心があったが自分がどうすればいいのか判らなかった
数年後、ヨーコと出会ったジョンはその答えを見つけた
ただ、愛と平和を唱えればいいのだ、それが作品だった
「そんな単純なことで良かったのか」ジョンは目から鱗が落ちた
ポールはジョンを触媒として名作を連発していたが
ジョンにとっての触媒はポールでなくヨーコだった
そしてジョンは愛と平和の伝道師になった
ヨーコの前衛芸術はシンプルで判りやすかった
ラジオのダイヤルを適当に廻す「RadioPlay」という
パフォーマンスは、ラジオでかかった曲が
そのまま作品になるというものだった 解散期の登場人物でクラインは常に悪役だが、
イーストマンもそれなりにろくでもなかった
ビートルズの議決権を、レコード売上貢献に応じて
ポールを3、他の3人は1にしようと主張して
これは特にリンゴを激怒させた
また、ブライアンの弟、クライブエプスタインを怒らせ
NEMSの売却に拍車をかけたり色々やらかした
特にノーザンソングスの株をポールに買い増し
させたことはジョンとの決裂を決定的にした >>426
一方で、レコード会社との印税引上げ交渉の担当を
より音楽業界に精通し、交渉にも長けているクラインに
することにポールも同意したとき、面目をつぶされた
イーストマン(リンダ)とポールの間がギクシャクした
またリンダは、ジョンから、会う度に拳を振り上げて威嚇
されていたという噂も流れていた 結局イーストマンは他の3人から排斥され
クラインはマネージャーになった
全員一致が原則だったビートルズは多数決で物事を
決めるようになった
そしてその多数決はいつも3人対ポールだった
ジョージは言った「民主主義ってそういうもんだろ」
ポールを孤立させただけのイーストマンだったが、
解散後結果的にMPL等の版権ビジネス等で、
ビートルズの印税がなくても、一生食いっぱぐれのないほどの
莫大な富をポールとその財産を相続する自分の孫たちにもたらした クラインは最初にジョンに逢ったときに
ジョンの曲の方がポールより素晴らしいといい
ヨーコのことも褒めちぎった
ジョンはクラインを無条件で信じるようになった
一方でクラインは、ポールに嫌われつつも
一番金を儲けてくれるビートルの機嫌もとろうと
ジョンのいないところでヨーコをボロカスに言った
ポールは益々不信を募らせクラインを信じなくなった 行き着くところブライアンが死んでマネージメント不在で再出発したがマジカルはコケて酷評、アップルは即刻破産
彼が音楽以外では、無知無学で無能であることを天下に晒した
同時進行的にバンド内の人間関係も様々な理由や要因が絡み合い崩壊した
ややこしくしたのはバンド再建の為、ポールが恋人の父を後任マネージャーに推そうとして更に混迷を深めた
ジョンは直感で物事や人を評価し決めつける性癖で、山っ気だけでなく胡散臭いアランの話術に一発で釣られた
ただ何をやろうにも、出すタイミングがどうにも最悪だったな
ポールもジョンも張り合いながら音楽を作っているだけなら最良な関係だが、それ以外でもそんな関係だったな
誰かに任せることができず互いに牽制しながら音楽と違ってビジネスの世界でもそれやったから、そりゃ対立するよ
もともとこのふたり酒場で愚痴を言い合う関係でなく、いつもどこか心の中で気を許せず警戒しライバル心も強い
ジョンは少年時代は喧嘩力で抑え込んでいたが、プロの音楽家(マーティン)らにポールが評価されてから
抑え込むことが不可能になり、天性のメロディメイクに根深い嫉妬を抱くようになった
ポールはジョンの独特の感性に更に敏感になり、ジョンの曲を下敷きにした曲が増えていって強力なシングルを
連発したが、今思うとポール単独ではあそこの高みに達するのは無理っぽいのはソロ時代をみてわかる
どちらともこと音楽に関しては凄い才能を互いにぶつけ合ったんだろうな、疲弊も早く壊れるのも早い 439ホワイトアルバムさん2018/04/07(土) 09:30:54.17ID:???0>>440>>441
■◆衝撃!イエスタディはナポリ民謡だった◆■
イタリアの著名な作曲家リッリ・グレコ氏が18日夜、同国のテレビ番組で、
ビートルズのイエスタディは1895年に作曲されたナポリ民謡のカバー曲だとの新説を唱えた。
グレコ氏は、1965年にイエスタディを作曲したポール・マッカートニーは
世界の音楽について幅広い知識を持っており、特にナポリ民謡がお気に入りだったと主張。
同氏が番組の中で演奏した「原曲」は、確かにイエスタデイに酷似していた。
ビートルズの伝記には、ポールがイエスタデイの作曲直後、
無意識のうちに盗作したのではないかと心配し、
「一ヶ月ほど音楽関係者に、この曲を以前聴いたことがないか尋ねて回っていた」
と述懐したと記されている。
【ローマDPA時事】(日刊ゲンダイ7/21)
http://www.google.co.jp/search?hl=de&;;;;;;;;;;ned=de&ie=UTF-8&filter=0&q=Yesterday++Lilli+Greco&btnmeta%3Dsearch%3Dsearch=Web-Suche
イエスタデイ盗作問題は世界中で大騒ぎ。
Wikipediaにも掲載。
http://en.wikipedia.org/wiki/Yesterday_(song)
グレコ氏は有名人だった。
http://www.google.co.jp/search?hl=it&;;;;;;;;;;ned=it&q=Lilli+Greco&btnmeta%3Dsearch%3Dsearch=Cerca+nel+ 1969年9月20日のビジネスミーティングは
また小さなクラブを回ろうというポールの提案に対し
有名なジョンの「お前はアホだ、俺はもう脱退している」
発言があった日だが母親が癌で危篤だったジョージは
その場にいなかった
その2〜3日前に、もし今後もビートルズを続けるなら
今後は自分の曲もジョンやポールと同数にしてくれと
ジョージは主張し、ジョンと激しい口論になった >>450
ラスト3行は知らなかったがちょっとジョンの意図がわからない
ジョンはもうビートルズを続ける意思がなくなっているのに
なんでビートルズの今後をジョージと口論するのだろう 75年に契約うんぬんで全員集合しなきゃならん時もジョンが来ずジョージがカンカンだったな。
ジョンは複雑すなあ >>452
集合場所がNYでジョンが一番近くにいたのに
ヨーコが雇っていた占い師に風水で日が悪いって
言われたので行かなかったというのがジョンの言い訳
この占い師は後に裏切って暴露本を出した 占い師がいたのになんでジョンは射殺されたんだ
占い師しっかりせい >>453
「本当は解散なんて嫌だよぅ〜(╥﹏╥)行きたくないから逃げちゃえ〜」といつものジョンの弱虫発動かと思ってたわ
占いなんて初めて知った。 うろ覚えだったので本(ドゲット著)を読み返してみた
74年11月にエルトンのコンサートにジョン飛び入り
12月にNYでジョンとメイ・パンがジョージとオリビアに会う
(ジョンとオリビアは初対面)
その週末にMSGで行われるジョージのライヴの初日にジョン飛び入りを約束
「エルトンと一緒にやったのにジョージとやらないのは嫌味すぎるだろ」
そのときNYで4人の代理人が71年以降の印税の分割を可能にする書類を完成
ポールもNYにいたのでジョージのライヴの日の朝に3人で集まって
お互いの目の前で書類に署名することになる・・・ジョン来ない
ジョージ怒りの電話「そのクソったれたサングラスを外してとっとと来い」
それでもジョンは来ず、替わりに「この音を聞け」と書かれた風船を届けさせた
(×風水じゃなく)占星術師にサインするには日がよくないと言われたと言い訳
ジョンの回想「一体どうしてだかジョージのライブには行かなくていいことになった」
替りにクリスマス休暇で来ていたジュリアンがライヴを見に行った
翌日イーストマン事務所でジョンとポールが会い関係書類を渡される
ジョージのライヴの最終日にジョン楽屋に行く(飛び入りはせず) 空気も読まずジョンとシンシアのデートにくっついて回ったジョージ坊や 1970年4月10日のデイリーミラーのポール脱退報道に対して
同じ週にジョンはこんなコメントを発している
「ポールの消息が判って嬉しいぜ あいつまだ生きてたのかよ
なんなら、あいつが抜けたんじゃなくて、俺がクビにしたって
書いてくれてもいいぜ」
「あいつまだ生きてた〜」の下りは当時流行していた
ポール死亡説を受けてのもの
それでも解散発表を出し抜かれた怒りからか、後日有名な
「あいつは解散を宣伝に利用した」という批判コメントを発することになるが
解散の戦犯にされるを恐れてかいつものジョンなら真っ先に主張しそうな
「俺が先に抜けたんだ」という事実はどちらのコメントでも触れられていない 1971年に発売されたリンゴのソロシングルIt don't come easy のB面曲
Early 1970 は、リンゴのほのぼのとしたボーカルと、他の3人に思いを馳せ
最後に「またみんなと会いたい」と締めくくる歌詞が4人の絆を信じたい
ファンには人気の作品だが、この曲にも解散にまつわる陰謀があった
ポールの脱退表明となった1970年4月から半年後の10月に録音された
この曲にクレジットされた元メンバーはジョージだけだったが
ジョンもその場に居て、ポールを騙して録音に参加させようと企んでいた
「クラインがいる限り、4人で演奏することはない」「もうビートルズには
パートナーシップは存在しない」というポールの主張の根拠を失わせたい
クラインの入れ知恵によるものだった
結局ポールはこの誘いにはひっかからず、2か月後の12月に他の3人に対して
「パートナーシップの解消」を求める訴訟を起こした 1969年8月8日「アビーロード」のジャケット撮影 >>432
1969年9月13日 ジョン、トロントのロックフェスに登場
1960年9月20日のミーティングでジョンの脱退宣言 >>450
1969年9月26日「アビーロード」発売
アップルの側近ブラムウェルはこの当時のメンバーの様子を
ジョンとポールはお互いが居ない時にオフィスに来て
(あるいは電話で)自分や、ニール、マルに指示を出し
「あいつには言うな」ということが多くなったと振り返っている アルバム「平和の祈りをこめて」にもなったトロントのライブだが
チャック・ベリーやリトル・リチャードといった、かつての自分の英雄たちとの
共演だったため、極度に緊張したジョンはそれを紛らわせようと
コカインを吸ったが、かえって逆効果だったようでゲロを吐いて
泣き出すジョンを司会者フォウリーは目撃した
「俺はビートルズ以外のバンドにいたことがない
なのに今日はあいつらが居ない、この気持ちが判るか」
ジョンはジョージには声をかけていたが、ヨーコの唄の演奏を
するのは嫌だと断られていた
ジョンはリハーサル中にクラプトンとフォアマンに俺はビートルズを辞める
興味があるなら新しいバンドを組んでもいいと話していた
レイ・コノリーに解散リークしたのもこのとき>>440 1969年10月 ポール死亡説が流れる
ジョンは公けには脱退や解散を宣言しないまま
ソロ活動をどんどん活発化させていった
人前に姿を見せなくなったポールに死亡説も
流れたが、スコットランドの農場に隠棲していた
ジョンはラジオのインタビューで
ポールとの方向性の違いを指摘する一方で、まだグループの
存続に含みを持たすような発言をしていた 1970年1月3日 ジョン抜きで I me mine がレコーディングされたが
ポールは既にソロアルバムのレコーディングを開始していた
2月6日インスタントカーマを録音し、曲の仕上がりに狂喜した
ジョンは未発売のアルバム「ゲットバック」の編集を
フィルスペクターに依頼していた
よく誤解されているが、フィルの起用はポールに
無断だった訳でなくポールも条件付で承認していた
「メンバー全員が内容を承認すること」 1970年3月始めにポールはニールと自分のソロの発売日を相談した
ポールは当初4月10日を希望していたがリンゴのソロ「センチメンタルジャーニー」の
発売が3月27日だったので、ニールはリンゴのアルバムがスポットを浴びる期間を
延ばすため一週遅らせて欲しいと頼み、4月17日発売でポールも同意した
3月23日にマスターテープとジャケット写真を納品した
ポールだったが、25日にアップルを訪れた義兄(リンダの兄)で義父と同じく弁護士の
ジョンイーストマンは、ポールのアルバムの発売日が延期されていることを知った フィルの作業が3月中に完成する目途が立ち、映画「レットイットビー」の
4月末の公開に併せて、サントラ的位置づけのアルバム「レットイットビー」の
発売日が4月24日(ポールの予定日の一週間後)と9なっており
ポールのソロは再度先送りされてしまった
ジョンとジョージはグループを最優先すべしとの考えから、ポールのソロの延期は
当然だと考えていた ジョージが「会社の決定(ポールのソロの延期)」を伝える
手紙を書いたがリンゴは、ちゃんと本人に直接伝えないとフェアじゃないと
自分がジョージの手紙を持って、ポールを尋ねると申し出た 1970年3月31日
リンゴはポールに手紙を渡し、自分も他の2人と同じ考えだと伝えた
ポールは意味不明のことを喚いた後、「すぐにコートを着て出ていけ」
「そっちがそうするなら俺も同じようにやる」と言った
後にポールは、リンゴはクラインが仕向けたと思っていたと弁解した
(リンゴになら辛辣な態度を取らず、延期を受け入れるだろうという狙いで)
リンゴは戻ってポールの剣幕を伝え、結局ポールのソロが予定通りに
発売されることになりレットイットビーは5月に先送りされた 1970年4月1日
リンゴの災難は続く ポールに追い返された翌日
「レットイットビー」の最終オーバーダブでオーケストラと
パーカッションを追加録音するためにメンバーで一人だけ
フィルのセッションに参加していた
この日は作者が誰一人立ち会うことなくAcross the Universe、
I me mine、そして原曲と最も異なるLong and Winding Road に
オーケストラがオーバーダブされるのをリンゴは黙って見ていた
前日のポールの仕打ちへの当てつけではなく当日起きた
トラブルへの対応でリンゴは手一杯だったのだ フィルはオーケストラに暴言を吐き、契約数以上の演奏を
させようとした為、オーケストラは怒り演奏を中断し、
ボイコット寸前となった
唯一のメンバーのリンゴが事態収集に乗り出さざるを得なかった
この日、エメリックもクラインからエンジニアとしてではなく
「ポール派のスパイ」としてセッションへの立ち合いを要請されていた
もっともエメリックも当時ポールとは没交渉だったので
彼がセッションの様子をポールに報告することはなかった
エメリックは、リンゴにかねて良い印象を抱いていなかったが
自分からトラブル解決に動いたことで見直したと語っている 1970年4月2日
フィルの「何かあれば今日中に連絡をくれ、
大きな変更は無理だが、可能な限り対応する」と
メモのついた最終ミックスのテスト盤がメンバーに
届けられる ポールの反応が心配なリンゴは、
ポールに電話をした 後にリンゴは
「あの時、ポールは確かにYesと言った」と語った
1970年4月7日
イーストマン事務所がポールの個人マネジメント会社である
マッカートニープロダクションズ(MPL)の設立を発表
1970年4月10日
デイリーミラーがポールの脱退をすっぱ抜く 1970年4月14日
この日になって、ようやくポールはフィルの仕事に異を唱えた
ポールは、オーケストラを全部消せと要求した訳でなく、
音量を下げろと「締切前」なら十分に変更可能な要求だったが
既に製造工程に入っていたためクラインは要求を拒否した
ポールは発売中止請求も検討したが、ビートルズが
もう一枚アルバム発売の契約を残していたので断念した
かつてエプスタインやマーチンが侵すことがなかった領域
作品の改変や、ソロ作品の発売日すら希望通りにならない
状況からポールは離脱することを決意した 効いてる効いてるw
中卒ヒッキーのポールヲタ(笑)ビー板全スレ発狂中(笑)
そんなに悔しかった?(笑)
さっさと全スレ埋めろやバーーーーカw
144 名前:ホワイトアルバムさん [sage] :2017/10/24(火) 09:00:08.03 ID:???0
静岡にレスしてるバカもまとめて氏ね!
ほんときもちわりい 1970年4月17日 アルバム「マッカートニー」発売
1970年5月8日 アルバム「レットイットビー」発売
1970年5月20日 映画「レットイットビー」公開
この年の5月にクラインはストーンズとの
マネジメント契約が満了し、その後解任されている
1970年5月〜10月 ジョージ オールシングス録音
1970年6月〜7月 リンゴ ボークーオブブルース録音
1970年4月 ジョン、ヤノフ博士のセラピーを受け始める
1970年9月〜10月 ジョンの魂 録音
1970年10月 リンゴ early1970録音 >>459 当時メンバーはそれぞれソロ活動を活発化させていたが、
アップルの契約では、ソロでの収入も、ビートルズ同様に
4人で4等分することになっていた
イーストマンはクラインに今後、ポールがソロで得た
収入は直接個人へ支払わるべきだと交渉したが
クラインは返事を保留した
ポールも、メンバー個別に打診を始めたが
ジョンは、何故そうする必要がある?俺には判らない
他の2人が賛成するなら俺も考えると言った 次にポールはNYでジョージと話し合った
ポールの回想によるとジョージは話を途中で打ち切り
「お前はこの糞レーベルに居ろ」と言われたという
アップルは元々エプスタインが生前に税理士から
このままだとメンバーの収入の90%が税金にとられるので
会社を作って社員としてサラリーを貰うようにすべきと
節税のアドバイスを受けて作った会社だった
ジョージは後に「会社の立ち上げや、事業の内容を
決めるのに一番熱心だったのはポールだったが
うまくいかなくなると真っ先に関心をなくした」と語っており
ポールに最後まで責任を取れと言いたかったのかも知れない しかし、ポールは知らん顔をしていた訳でなく
EMIの代表者のロックウッドや保守党の元党首に相談し
イギリス国鉄の元総裁で赤字解消のための大リストラを
敢行したリチャード・ビーイングを紹介され
ビーイングから「なんなら自分がアップルに国鉄と
同じことをしてもいいが(赤字部門の閉鎖と人員削減)
それよりもまずはフルタイムマネージャーを雇うべきだ」と
アドバイスを受けた
エプスタインの死後、彼の替りはいないと後任を
選ばなかったビートルズだったが、ビーイングの助言を
元にポールは新たなマネージャーの選任を提案したが
結果的にそれがクラインvsイーストマンとして亀裂を生み
ポールは孤立することになった >>445 ジョージの拒否で、メンバー間の合意による
ソロ印税の分割、レーベル離脱の道が閉ざされた
ポールの選択肢は、一つに絞られていった
そんなポールやイーストマンの動きを察知して
封じようとする企てもあった >>459
誤解している人も多いが、ポールは自分の替りに
クラウスを入れた、新ビートルズの結成を
阻止しようとして裁判を起こした訳ではない
むしろポールの訴訟の言い分が通れば、
3人は誰と組もうが自由でポールには
口出しする権利がないからだ