彼の発言には、クレムリンと米国内の親ソ勢力に米国の対中方針を公式に確認するという意図が込められていたと私は信じている。

演壇で話す国務次官アチソンの傍らには、カンタベリーの共産主義者司祭ヒューリット・ジョンソン博士、未来の売国奴コーリス・ラマント、
ポール・ロブソン、ジョゼフ・E・デービスが控えていた。
デービスほど、第二次大戦中ロシアとクレムリンの本質にまつわるアメリカ精神の腐敗に手を貸した米国人はいなかった。

まずアチソンは歴史を偽った。
米国とロシアの国益は世界中のいかなる地でも衝突したためしはなかったと言ってのけたのだ。
母なるロシアに傾倒するあまり、彼はモンロー主義のきっかけとなった北米西海岸におけるロシアの計画の恐ろしさを忘れていた。

ロシアの中国侵略がアジアにおける米国の国益を損なうと考えたセオドア・ルーズヴェルトの政府が、
1904年から1905年の日露戦争で、日本を物心両面で支援したことも忘れていた。

そのころ赤軍は、ことあるごとに満州を中国の一部ではなく自分たちの植民地として扱うと表明し、じっさいに今日までそうしてきた。
したがってジョン・ヘイの門戸開放政策は完全に踏みにじられたことになる。
北朝鮮を満州植民地に併合しようとする彼らの動きも活発だった。
彼らは、私たちが蒋介石に強要した彼らの権益に関する条約の精神や条文を踏みにじっていた。

しかしロシア帝国主義の力に頭が上がらない国務次官は、限りなく偽善的に彼がソ連国民と呼ぶ人びと、すなわちロシアの虐げられた人々、
ボルシェビキの最初の犠牲者、クレムリンの名もない農奴、ならびに皇帝自身と
米国の利害が衝突する可能性について明白な理由を見つけることができなかった。

私たちは、アチソンの公式発言の端々からそうしたきわめて詐欺的な決めつけを見ることができる。
彼は、ディーン・ヒューリット・ジョンソン、コーリス・ラマント、ロブソン、デービスから喝采を浴びながら、こうつけ加えた。
「私たちは、ソ連の国境に友好的な政府ができあがることは、ソ連邦の安全保障のみならず、
世界平和にとっても不可欠であることを理解しており、彼らソ連国民と認識をともにする」