高校野球・プロ部活vs21世紀枠──“ドラマ”が隠蔽する形骸化した教育とスポーツ
https://news.yahoo.co.jp/byline/soichiromatsutani/20180327-00083174/


>欲求される情緒的なドラマ性
>酷暑のなかで行われる夏の大会をはじめ、高校野球には3つの要素が絡み合って幾重にも“矛盾”を生じさせている。
>ひとつが教育だ。
>「教育の一環」が単なるタテマエに堕していることは、これまで説明してきたとおりだ。
>実際、甲子園は公立高校の予算では太刀打ちできない、私立高校による“プロ部活”の独壇場となっている。
>大阪桐蔭に代表される強豪校の野球部は、「教育の一環」などではなくプロ養成機関だ。

>次がスポーツだ。
>現在の高校野球は、スポーツとしての野球の現在形からは大きく逸脱している。
>野球は優勝チームの勝率がもっとも低いプロスポーツであるにもかかわらず、
>国際大会ではほとんど採用されないトーナメント制の一発勝負がいまだに続いている。
>また、ベンチ入り人数が限られながらも試合日程は厳しく、勝ち進んだ高校の投手は故障を誘発する連投を余儀なくされる。
>熱心な野球ファンでも高校野球を敬遠する層が少なくないのは、あまりにもスポーツとして時代遅れの状況にあるからだ。

>最後がドラマ性だ。
>ファンや主催の2新聞社は、甲子園に対して「美しい青春」や「敗者の涙」など、常に情緒的なドラマ性(物語)を欲求する。
>しかし、教育としては欺瞞に満ち、スポーツとしては時代遅れな空間だからこそ、若者がもがき苦しみ、
>打ち勝つ姿が「残酷ショー」として消費される。
>不謹慎だが、いまの甲子園でもし死者が出たら「英霊」扱いされかねないほどだ。
>そして、この情緒的なドラマ性こそが、高校野球がはらむ教育やスポーツの問題を思考停止させる機能を果たしている。