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 横浜DeNAベイスターズというチームのショートを守っている。ニックネームはクララ。
松坂大輔と同じ横浜高校出身で、日本新薬を経てプロ野球選手になった。茅ヶ崎生まれで、だから登場曲はサザンオールスターズ……。
あの日から私は暇さえあれば倉本寿彦のことを調べていた。どんな高校生だったんだろう、社会人のときはスーツ着てたのかな……私が知らない倉本選手のことを想像してはため息をついた。

 昔ベイスターズにいた石井琢朗という選手のことを尊敬していること、学生時代は突出した選手ではなかったけど努力がものすごい人だということ、バットに靴下を履かせるくらい道具を大事にしていること。
動画サイトの『倉本寿彦ファインプレー集』でアナウンサーが「倉本ナイスプレー!」「倉本よく捕った!」と叫ぶのを聞いて自分のことのように嬉しくなった。
『倉本寿彦2016年全安打』なんて何回再生したか分からない。
倉本のバットに当たったボールは、まるでその怪しい魅力に操られるかのように、不思議な回転を帯びたまま野手の前にポトリと落ちるのだ。

 試合中はどんな場面でも表情を変えない倉本が、貴重は決勝打を放ったときだけ小さくガッツボーズして「やったー」とその唇が動く。
その瞬間、私の胸に小さな花がいくつも咲いた。躑躅だ。茅ヶ崎市の花、躑躅。道路の分離帯でも、公園の生垣でも、どんな場所でも力強く咲く躑躅。
そして……想像もつかないような甘い蜜を隠し持っている、躑躅。砂漠みたいだった私の胸に、赤紫色の花がいくつもいくつも咲き乱れた。

(途中略)

 倉本に会いたい。グラウンドで泥まみれになっているその姿が見たい。応援歌を、その名前を思いっきり叫びたい。その欲求はどんどん大きくなり、抑えきれなくなっていた。
野球を観に行くなんて言ったら、夫はどんな顔するだろうか。

私はひとりで行ってきます。初めての野球、初めての横浜スタジアム、初めての倉本寿彦。私の平凡な日常に、鮮やかな色彩と、むせるような香りと、甘い蜜をもたらしてくれたその人に、会いに行ってきます。

 クローゼットの一番奥の引き出しに、静かに手をかける。「かっとばせ……見せろ男意気……」。
躑躅色の刺繍を撫でながら、小さくつぶやく。もう戻れない、あの日の私には。