ヤクルト・由規はなぜ150キ口を超えら
れたのか...振り返る自らの「原点」
http://www.hochi.co.jp/baseball/column/20170731-OHT1T50139.html
夏真っ盛り。甲子園出場の代表校も、残すは宮城大会の結果を待つのみとなった。
8月。高校球児の季節がやってくる。
一方で、プ口野球のシーズンは終盤戦に入る。
今では大人びた表情の選手たちだが、もちろん、誰にも甲子園を目指している頃があった。
ヤクルト・由規投手(27)もその一人である。
右腕は聖地で鮮烈な印象を残した。仙台育英(宮城)では、2年夏から3季連続で甲子園に出場。
宮城大会決勝で東北との引き分け再試合の激闘を制した2年夏。
3年春のセンバツは直前の練習試合で死球を受けて左手を骨折した中での出場。
だが、中でも3年夏の甲子園の衝撃は今も色あせていない。
07年夏。甲子園の2回戦、智弁学園高(奈良)戦だった。
4回。掲示板には「155」というスピードが表示された。
高校野球では同球場史上最速の数字だった。
試合は2-5で敗れたが、大観衆のどよめきは収まらなかった。
しかし、ここまでの成長は本人すら予想できていなかった。
右腕は最速130キロ程度だった入学当初を振り返り、
「投手なんてやっていると思っていなかったですから。1年の時は三塁手でしたし。
最初は投手で入ったんですけど、周りがすごすぎて自信がなかったので。すぐに諦めて」と笑った。
由規は努力に努力を重ねた。
野球選手としては決して大柄とはいえない体格から、いかにして150キ口超の直球を投げ込めるようになったのか。
答えはシンプルだった。
「もう、ひたすら投げ込み。毎日ずっと投げていました」と言った。
当時の練習内容はこうだ。
「投げ込みは1日100球の時もあれば、200球くらいの時もあるし、50球くらいで終わりの時もある。
でも、必ずブルペンには入っていました。それでつかんでいった感じ。
全体メニュ一はみんなでランニングをしますけど、その他の練習はもうピッチングばっかり。常に打者に立ってもらっていました。
元々心配性なので、練習もやっていないと気持ち悪いし、だから毎日のように投げていたというのも、肩の感覚がなくなる怖さがあったから投げていたんですよね。
だから逆に(仙台育英・佐々木順一朗)監督からは『休みをまず作れ』と。
『休みをまず決めて、その中でピッチングの計画も立てろ』とずっと言ゎれていました」
性格はプロになってからも変わらない。プロで実績を残し、昨季は1771日ぶりに右肩手術から復活を果たした。
それでも、練習に工夫を加える姿は高校の時と同じである。
「不安はあります。だから、1つのメニユ一でも例えば、20〜30回と決められた回数があったとしたら、
31回やっておこうとか、数多くやることで、その積み重ねでそれが『お守り』になっていく。
(高校時代から)そういうのをすごい意識してやっていたかな」