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ユリは、全速力で走っていた。
日を遮るほど木々が生い茂る薄暗い森の中を駆け抜けている。
道らしきものなど存在せず、行先を妨げる草木を必死にかき分け突き進む。
半袖に裸足であったため、あちこちに擦り傷を作ったが今は構っていられなかった。
巨大生物バウハウが迫って来ているからだ。
バウハウは、イシガメのような形状をしており、色は黒い。
しかし、よく見ると尻尾にも頭があったり、頭に角が生えていたりと相違は多かった。そして、大きさはイシガメの100倍ほどもあり、木々をなぎ倒し、大地を震わせながら進んでくる。
何としても逃げ切らなければいけない。捕まれば生きたまま、捕食されてしまう。
幸いな事にイシガメに似てバウハウにしては、足が遅かった。
だが、ユリを追うにはそれでも十分な速度を出せて、そのうちにユリが疲れて追い付かれてしまうだろう。
活路はないかと辺りに眼を走らせているうちにユリは、木々が上にないため光が差し込む湖に出た。
この湖の右側から分流する川を沿って行くとユリの帰るべきコロニーがある。
ユリは、今すぐそこを辿ってコロニーへ逃げ込みたい衝動にかられた。
帰ったら、朝、寝顔をみたきりの親友であるサユリの胸へ飛び込びこみたい。コロニー長に無断で抜け出したことを耳にタコができるまで説教してもらってもいい。
しかし、それは許されない。コロニーにバウハウを案内するわけにはいかないのだ。
「……バイバイ。サユリ」
ユリは、何かを覚悟するように呟くいた。そして、一度、名残惜しそうにコロニーに続く川を見るとコロニーの逆方向へ左折すると再度駆け出した。
この先を行くと深い谷がある。そこから落ちたらバウハウであろうとひとたまりもないだろう。
――どうせ、もうすぐ私は走れなくなって、捕食されてしまう。それなら……。
そう、ユリは、谷へ身を投げてバウハウと心中するつもりなのだ。
もう、サユリに会えないと思うとユリの目から涙が溢れた。言い付けを守って外へ抜け出さなければ、こんな運命に逢わなくてすんだのに、と胸に後悔の念が広がる。
だが、もう悔やんでも仕方がない。雑念を頭から追い出すとユリは、後ろへ振り向いた。
バウハウは、そこまで迫ってきている。憎たらしいその図体は、何の疑いもなくユリを追いかけていた。
――よし。もう谷はすぐそこだ。
そして、突如森が開けた。次第に谷が見えてくる。そのごつごつとした岩肌を目にして一瞬躊躇したが、ここで止まったらバウハウも足を止めてしまうかもしれないという考えがよぎり、ユリは決意して身を投げる。
バウハウは、森を抜けたら、まさか谷が待ち構えているなど思いもしなかったのか、勢い良く飛び出し、宙に投げ出された。
バウハウとユリは、共に重力に逆らえず落下していく。
耳元で風がビュンビュンと唸り、内蔵が置いていかれる感覚に身が凍った。
眼下には深い谷底とそこを流れる川が見える。
この高さなら水は、ダイヤモンドより硬いだろう。
落下はとてもゆっくりと感じられたが、しかし確実に迫りり来る終わりの恐怖に耐えきれなくなり、ユリは眼を硬く瞑った。
そのとき、瞼の裏にサユリの笑顔が浮かんだ。
その笑顔こそがユリにとってこの世で一番大切な宝だった。
今日、コロニーを抜け出したのも彼女が笑顔になるような珍しい旧古代文明の遺品を見つける為である。
ユリは、彼女のことが大好きだった。愛していたのだ。サユリの笑顔の為だったら何だって出来た。
でも、もう彼女の笑顔は永遠に見れない。
それでいいのか?ユリは、自分に問う。
――嫌だ!
ユリは、心の中で絶叫した。
笑顔を見れないのも、自分の気持ちが伝えられないのも、サユリの笑顔が自分以外の誰かの物になるのも嫌だった。
――あの笑顔は、私の物にする。
「だから、それまで私は死ねない!!」
ユリは、サユリへの想いを糧に生を、サユリの笑顔を掴もうと必死に手を伸ばした。そして、触れたツタ状の植物にがむしゃらに、しがみく。手や腕に千切れるかと思うほどの痛みが走ったが必死で耐える。
しかし、ツタ状の植物はユリの重さと勢いに耐えきれず、無情な音をたてながら千切れた。
再び、重力に逆らえず、落ちていく。
宙で人は無力だ。
もう、ユリになすすべはない。
「大好きだったよ。サユリ……」
そして、ユリは、水面に叩きつけられた。