「道徳」って学校で教える必要あるのか? [無断転載禁止]©2ch.net
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私が子供の頃、学校では「道徳」という授業があって、倫理的な人の道だとか
善行を積むべきであるというようなことを教えられた。
当時はそのことに特に疑問を持たずに、まあ必要な授業なのだろう。だから学校
の科目としてもあるのだろうくらいに思っていた。
しかし学生を卒業し社会に出るようになってからこの道徳教育に疑問を持つよう
になった。
社会はつらい。現実は厳しい。
道徳的な人間ほど食い物にされ、非道徳的な、倫理観の欠如した人間の方が人生
を謳歌しているように感じた。
道徳的な感覚を持った人間ほどこの社会で生きていくのがつらくなるのではない
か?
道徳的な感覚を優先して損な役回りを押し付けられるか、
あるいは道徳的な感覚よりも利益を優先することで、内心良心の呵責に苦しめら
れることになってしまうのではないかと。
真面目に道徳教育を受けた人間ほどその後損をすることになる。あるいは苦しむ
ことになってしまう。
そんな授業を子供達に与えることは本当に必要なのだろうか。 >>3
そんな子供の方が楽しく育つよ
この板にいる人間よりおでんをつんつんするような人間の方が奥さんも子供もいて仕事もあるのが現在の世の中だから バカ親に育てられ、バカ親に感化されてバカに育った子供の方が
その後充実した人生を送ります 道徳は宗教ごとに違ってくる。
特定の宗教に偏れ無い公立学校では踏み込んだ教育はできない。
せいぜい公共の福祉の尊重ぐらいか。 あの少しおどろおどろしい教科書のあれか?
「にんげん」 オセロの中島の洗脳騒動で有名になった脳科学者が道徳は越権行為だと言ってたな ブラック企業で真面目に道徳を実践したら確実にカースト最下位になる 道徳って何勉強したか記憶にないわ。
高校大学の入試で使わなかった教科はマジで殆ど記憶に残ってない。 なにかの機会に、「ああ、かわいそうだ」と感じることがある。
そのときの心を、ふだん平気で見過ごしていた事がらにまで広めたもの、それが仁である。
また、「絶対によくないことだ、やるまい」と決心することがある。
そのときの心を、いままで平気で行ってきた事がらにまで広めたもの、それが義である。
たとえば、「他人から軽んじられたくない」という気持ちを大切にし、自分にそれだけの実質的人格を
育ててゆくならば、行うことすべて義の道にかなうのである。
(孟子) 仁の心はだれにでもある、というわけはこうだ。
幼児がヨチヨチと井戸に近づいて行くのを見かけたとする。
だれでもハッとして、「かわいそうだ、救ってやろう」と思う。
それは別に、幼児を救った縁でその親と近づきになりたいと思ったためではない。
村人や友人にほめてもらうためでもない。
また、救わなければ非難される、それが怖いためでもない。
してみると、かわいそうだと思う心(仁)は、人間だれしも備えているものだ。
人間は生まれながら心を備えているように、この仁を備えている。
それなのに、自分は仁や義など実行できぬと決めこむのは、自分を傷つけるものである。
他人に対しても、同じように決めつけるのは、他人を傷つけるものである。
自分に備わっているこの仁と義を、育てようと思い立てば、樹木が生い茂るようにそれは
限りなく大きくなってゆく。そうすれば、天下を安定することもできる。
しかし育てなければ、自分の人生をまっとうすることすらできない。
(孟子) どう考えても常識以前の事を指摘すると
「学校で教わらなかった!!」って開き直る種類の人達がいるから、アリバイ作り的にも教えとく必要がある。 小学校で、TV観てるだけで1校時終るので、すごい好きな授業だった。 道徳の授業の前進は「修身」
天皇の為に戦って死ね 社会に文句言うなっていう教え、結果特攻までやらかして原爆が落ちて完敗した
それを戦後左翼が必死で中身を骨抜きにして、ちょっといいお話を教える空っぽの授業になったんだよ むしろ道徳の授業こそ必要なんでは
昔は孔孟老荘みたいな話聞かせてたんだろうし
西洋のキリスト教会の日曜の説教みたいなもんだろう
日本も落ちぶれてきたからそういう前世紀の教育もどきが必要になってきたということだろう 考え方は十人十色だっていう教え方なら有っても良いと思うけど
俺の担任は、意見を発表した人に対して「その考え方は間違ってる、こっちが正しい」という授業をしていた 教師も大人になって振り返ってみると変なの多かったもんな
そういった中で恩師に出会えた人は幸せなんだろな 西日本の道徳の授業は「にんげん」という怪しい本を使って部落の事延々と刷り込むと聞いたことがある 道徳を座学だけで教えるのは困難
教育を学校だけで行なうのは困難 俺(50代)が小学生の頃は教室のTVに観音開きの扉が付いてて、概ね道徳の時間と昼の校内放送の時間以外閉じっぱなしだった。
ブラウン管のサイズも、今考えると小さかった。
今の小学校とかって、どうなってるんだろう? 左翼思想を蔓延させないためにも
道徳は必要なのだ!
わかったか!? 道徳ねえ。確かに小学校の授業であったような気がするけど
何にも覚えてないな
世の中には表と裏があって、学校の授業で教えるのは表ばかりだと感じた 道徳の時間とか何のためにあったんだろうな(´・ω・`)
バスの列に並んでいて真後ろにお婆さんが並んでいます、どうしてあげますか
みたいな問題があって、知らない人とは関わらないようにするって書いたら
怒られた記憶があるわ 部落の話ばっかでかえって差別を助長した時間だったなそんなんほじくり返さなきゃ自然消滅してたもんがよ
バカかよ >>22
孔孟荘って綺麗ごとを言ってるわけじゃないけどな
世の中はろくでもない奴ばっかりだから人間関係の構築には最新の
注意を払うべきってのが孔子孟子だし、荘子は世の中なんて糞みたいなもんだから
諦めろってのだし 常識の押し売り。国家に対して都合の良い人間を作り出す所謂思想教育だわな。 >>20
そんな低レベルな修身は戦前でも小学校までだけ。まあ当時の庶民は小卒多かったが
一応日本にも江戸時代まで知識人が積み重ねてきた文化、道徳の体系があって
高等学校まで行ける層に対してはそういうのちゃんと伝えてたんよ
でも今の時代の俺らはそんなものがあったことすら知らない
ハワイ原住民、インディアンなど多々の民族を衰退、人口減少させてきた経験豊富な
GHQ、アメリカ様のテクニック、ほんと恐ろしいよ~ ・2022年度から実施される高校の学習指導要領の改訂案は、木に竹を接いだような内容だ。
・これまでの「現代社会」を再編した新科目「公共」は、目標に「自国を愛し、その平和と繁栄を図る大切さについて自覚を深める」をかかげる。
「地理歴史」の目標にも「日本国民としての自覚、我が国の国土や歴史に対する愛情」を深める、と明記された。
・しかし、いまの指導要領の「良識ある公民として必要な能力や態度を育てる」といった記述に比べると、かなり踏み込んだ表現である。
教科を学ぶうえで大切なのは、学問的・客観的な事柄について理解を深め、追求する姿勢を養うことだ。そこに人の内面に関わる問題を紛れ込ませるべきではない。再考を求める。
・領土問題に関する書きぶりを見ても、たとえば「尖閣諸島は我が国の固有の領土であり、領土問題は存在しないことも扱うこと」などとなっている。
・政府見解を知識として生徒に伝えることは大切だ。だが「これを正解として教え込め」という趣旨なら賛成できない。相手の主張やその根拠を知らなければ、対話も論争も成り立たない。
他者と対話・協働して課題を解決する。それが新指導要領の理念ではなかったか。
・いま、政権批判や在日外国人の存在そのものを「反日」と決めつける風潮がはびこる。それだけに、日本の立場をひたすら強調する方向での記述の変更には、危うさを覚える。
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