もう読者もご存じのように、日本は、朝鮮併合の36年間ずっと、国費の持ち出しでした。朝鮮経営・統治は、日本国民の犠牲の下になされていたのです。

この事実を、彼が全く知らずに、あるいは調べないで、単なる独断と偏見でこの文章を書いていることが分かります。

そして以下のような、思いつきを書き並べています。

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「明治三十年代にどれだけの産業がありますか。生糸をアメリカなどに売って、やっと外貨を得ている程度です。他の国に売れるようなものは、マッチとタオルぐらいです。

産業能力があって十九世紀的な帝国主義というものが成立します。ところが何も売るべき産業もなくてですね、朝鮮半島を取ってしまったわけです。

生糸をアメリカなどに売って、やっと外貨を得ている程度です。他の国に売れるようなものは、マッチとタオルぐらいです」

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このような状態から、日本は鉄道を敷設するなどして社会基盤を整備し、急速に近代化を進めていったわけです。朝鮮にはそれができなかった。

そして次のように書いています。

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「何もないから、結局、東洋拓殖という一種の国策会社ができました。朝鮮半島のひとびとが一所懸命、先祖代々耕してきた水田を取り上げたりした。

実際のソロバン勘定からいったら、持ち出しだったでしょう。鉄道をつくったり、総督府をつくったり、学校をつくったり、郵便ポストをつくったり、それはそれでいいのですが、我を持ち出し、恨みを買った。

イギリス人やフランス人は国家運営を考えます。外に出ていくときに、儲かるか儲からないか。あるいは目先の儲けではなく、百年先に儲かるか。

常にそういう計算があるはずです。それが戦略、政略というものだと私は思うのです」

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水田を奪ったとおっしゃるが、農作物の飛躍的収穫の増大を何と説明するのでしょう。日本が進んだ農耕法を伝えたからだと考えるのが普通です。

あたかも日本が植民地にしたかのような司馬の言い分ですが、違っています。史実は、朝鮮人支配層の多数が併合を望んだことを示しているのです。

東洋拓殖(東拓)を何か朝鮮を一方的に虐げたニュアンスで捉えているようですが、東拓に絡んで移民した日本人たちの艱難辛苦はご存知ないのでしょうか。

開けていない極貧朝鮮農家の中に入って、言語を絶する貧しさに耐え、中には1尾の塩鮭を吊るして置いて、1ヶ月間もかかって細かく切り分けながら食用として命をほそぼそとつないだ、というエピソードも残っています。

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そのような日本人たちの辛苦の果てに・・・

併合のたった30年間で、1千万人足らずだった人口が2500万人に激増、平均寿命は24才から45才へと驚異的に伸び、

日本政府から莫大な資金が流入し、各種インフラが建設され、未開の農業社会だった朝鮮は短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌、

日本からは優秀な教師が赴任して朝鮮人を朝鮮文字を復活させて教育した、このような事実すら司馬氏には損得のソロバン勘定でしか見えないらしい。

さらに司馬は次のように書きます。

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「強欲な百姓が隣の畑を略奪するように、ただ朝鮮半島を取っただけです」

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「強欲な百姓」とは、いったい何を根拠にしての喩えでしょうか?日本の歴史の中で農民が強欲であった時代はあったでしょうか?

せいぜい食糧の無い戦争中、物品と引き換えに行った人たちに対して示した傲慢さとか、思い当たるのはその程度の些事ですが。