司馬遼太郎の原点− 猪飼野の新世界新聞社

「司馬遼太郎の鶴橋・猪飼野」− より

 司馬さんは戦地から復員後しばらくしてから、大阪に帰って来たが、浪速区塩草の実家
(福田薬局)は戦災で丸焼けになっていた。

(中略)そこで偶然、電柱に「記者募集」の張り紙を見かけた。その時、後ろから
声をかけられた初対面のOという男と一緒に応募し、二人は採用されたという。

 その新聞社の名は、O氏によれば「新世界新聞社」だという。

 その名の新聞の実物が、現在わたしが知る限りでは、たったの二枚だけ残っている。
(ハングル版を除く)

元・新世界新聞社の記者だったというその金氏のお話を伺うことができた。それを要約す
れば次の通り。

 「終戦直後、ゴム会社の経営者だった柳洙鉉氏は“解放”された在日の活動家の強いす
すめによって新聞社を興した。この社は日本語版とハングル版の両方を出していた。
この二つは建物が別々だったので司馬さんのことは全然知らない。ハングル版は日本に
活字の字母が無いため、ソウル帝大教授、ソウル経学院提学などを歴任し、のちに天理
大教授となった高橋亨氏に依頼し天理教を通じて朝鮮から取り寄せ、ようやく発刊するこ
とができた。など」

 この新聞社は、司馬さんが辞めたのち、超一等地の鰻谷(大丸・そごうの北側)に
本社を移し、東京・京都にも支社を置くほど急速に発展したが、世の中が落ち着き、
在来の大新聞社が立ち直るにつれて、やがて姿を消した。

しかしハングル版のみは、その経営を受け継いだ人が東京に拠点を移し、そこでかなり長く
刊行されていたそうである。   (あじろ けんじろう 大阪市生野区鶴橋五)