http://www.shiki.gr.jp/group/audition/voice/actor/03.html
しかし、くどいようだが、これはヒドイ。
寺山のことは呼び捨てにする一方で、浅利のことは「先生」。
おまけに、寺山が浅利のことを慕っていたんだとまで書いている。
「身売り」とは、まさにこういうことを指す言葉だ。
大人ってキタナイ。
そうまでして芝居で喰っていきたいか。‘芝居で喰う’ことだけが大事なのか。
浅利が、全劇団員の雇用について月給制を施行して、生活保障をしていることは、
それはそれで立派。
アルバイトなどで役者の生活が「汚れて」しまうことを避ける、というポリシーは徹底している。

しかし、それは寺山の思想とは反しているものだ。
寺山は黒澤の「どですかでん」を評した際に、
「かつて、黒澤の映画はノイズの映画だった。しかし、『どですかでん』にはそれがない。
スタジオで綺麗に調整された効果音だけになっている」と語った。
これこそが、寺山の思想だ。
「汚れた雑音こそが、世界を裏付けしている」という考え方は、「家出のすすめ」「書を捨てよ町に出よう」以降、
寺山の作品の根幹に常にあった。
劇団四季の思想は、それと真っ向から対立している。
牧野ほどの人が、それに気付いていないはずがない。
寺山は、よく、「役者というのは感情淫売か?」という問いを投げ掛けていたが、
舞台活動で喰っていく為に舞台上でないところでも感情淫売をやるとは、
師匠の顔に浅利のウンコを塗りたくっているのも同然ではないか。
芝居で喰っていけなくてもいいではないか。
毎日、生きてさえいれば、生活自体が室内演劇であり、町に出れば散歩は路上演劇であり、
友達と電話で喋れば、それは電話演劇のはずだ。
牧野のことが好きだったからこそ、以後、四季の芝居は、彼が出演している作品は絶対に見ない。