比例票2%以上獲得、これが至上命令でした。

比例票のための人柱として出馬要請されたことは、認識していました。
しかし、「人柱」などという気持ちで闘って票が伸びるほど選挙は甘いものではないということ。
そもそもそんなモチベーションでは自分にはできないということ。
加えて、そのような気持ちで複数区に割って出ることほど失礼極まりないことはない、ということ。
「出るからには奇跡を起こすつもりで、取りに行く選挙をする」「相原が勝つための選挙をする」
これが守られないなら出馬することはできない旨をくどいほど伝え、合意を得たはずでした。

公示前のあらゆる集会でも、関係者各位に頭を下げてまわりました。「勝ちに行く選挙をする、支えてください」と。

実際に選挙が始まってみると、私は完全に「仲村みお候補の応援弁士」「どうせ落選する相原」として扱われることに終始しました。
南関東ブロックでは、全国比例の仲村候補を担当することが決まっていたからです。

それでは私の選対が仲村候補の選挙を必死でやったのかというとそうではなく、
「どうせ落選する相原」の選挙を、外部スタッフや応援に入ってくださった方に注意を受けても、
何ら改善されることなく最終日まで続けました。傍から見ても、やる気が全く感じられなかった、ということです。

最終日のマイク納めの20時以降、私とウグイス嬢が深夜0時まで駅に立つことを知っていたにも関わらず、
県連全員が速やかに帰宅したことは言うまでもありません。取るに足らないことですが。

日々繰り返された修羅場を詳細に書き記すことはしませんが、
ことごとく逆らう(話が違う、ということで揉める)私は、非常に扱いづらい嫌な候補者であったことでしょう。
彼らは正しいと思うことを自信をもってやっていたのですから、それで当然です。

誰に引き留められることもなく離党届は受理され、嫌味などではなく、彼らは厄介払いができて安堵しているのだろうと思っています